第10話 少年たちの漠然とした将来への不安

 ヴァンとホスローの勉強態度が変わったのは、その翌日のことだった。


 昨日までは二人が揃って卓に向かって勉強道具を広げると寝室に引っ込んでいたラームテインだったが、今日から突然二人と一緒に卓に向かうようになったのだ。


 ラームテインは二人の存在を無視して一人黙々と書き物をしている。時々自分の傍らに積み上げた本を開いて調べ物をしたり茶を飲んだりはするが、基本的にはずっと無言でまっさらな本に何かを書き綴っている。


 邪魔をしてはいけない気持ちになってきた。


 ホスローも同じ気持ちになったらしい。ラームテインの顔色を窺いつつ、ずっと放り出していた本を開いた。


 勉強以外のことをするのは許されない気がする。


 ヴァンも前々からラームテインに読むよう言われていた本を開いた。嫌々ながらも文章に目をやった。


 何とか小難しい序章の説明書きを読み終えて、本文に入った。


 意外なことに、それから先は文章がするすると頭に入ってきた。


 サータム帝国の皇帝の言行録である。伝記のようなもので、物語にも似ている。ほとんどが皇帝と大宰相の会話文で、難解な言い回しは思っていたより少ない。


 大宰相の言葉に時々アルヤ王国の情報が出てくる。自分の国のことだと思うと興味が湧いてくる。


 分からない数字や製品が出てきた時、ヴァンは自然とラームテインに薦められたもう一冊を開いた。そちらは該当する箇所だけ拾い読みをする。数字の羅列だけを通して読むのは苦痛だが、言行録の副読本と思えばむしろ理解は進んだ。


 思っていたより分かる。



 どれくらい経った頃だろう。


「――そろそろちょっと休憩する?」


 ラームテインに声を掛けられ、はっとして顔を上げた。

 彼は先ほどまで熱心に動かしていた葦筆ペンを墨壺に突っ込んでヴァンの顔を見つめていた。

 同時にホスローも顔を上げた。彼も今声を掛けられるまで本に集中していたようだ。


「やっべぇ。俺こんなにちゃんと読書できたの生まれて初めてかも」


 ホスローがそんなことを言ったので、ヴァンも「俺も俺も」と続いた。ラームテインが苦笑する。


「まあ、君たちもやろうと思えばできなくもないということだ」


 初めてラームテインに褒められた。ヴァンは舞い上がって「そうでしょ、そうでしょ」と言いながら身をくねらせた。


「きりのいいところまで読みたいというならもうちょっと続けてもいいけど、僕は夕飯を食べてもいい? 匂いやら音やらが気になるなら向こうで一人で食べる」

「俺も何か食べる!」

「俺もーっ」


 ラームテインが立ち上がって土間に向かう。ホスローもヴァンもその後をついていく。

 土間の棚に昼間のうちに市場の飲食店で買い置きしておいたパンや炒め物が並んでいる。茶を沸かして瓶詰を開ければすぐに夕飯だ。


 卓をのけ、三人で絨毯の上に座り、敷き物に料理を並べる。


「食べ終わったらもう一周ね」

「一周? 何が?」

「僕が今書いているものの一小節分。一小節書き終わるまでの時間をひとつの単位にして、君たちには平日二周休日三周してもらおうかと思って。毎日半年それぐらい読み書きしていたら、蒼軍の入隊試験どころか白軍の軍学校の受験も何とかなるよ」


 半年後の冬に年に一回の軍学校の入学試験がある。ヴァンはもうすっかり受ける気がなくなっていたが、その頃寺子屋学校の卒業試験もある。


 ホスローが感動した声で「やっと師匠の勉強を教わっている気になってきた」と言った。ヴァンも同じ気分だ。

 ラームテインがパンをちぎりながら「実際には何も教えていないけどね」と言う。しかし彼がいなかったらこんな風に勉強しようと思う日は来なかっただろう。


「師匠何書いてんの?」

「フェイフュー殿下との思い出のまとめだよ」


 彼はさらりと言ったが、それはきっとこの国にとってとてつもなく大きな意味がある。


「僕が見聞きしたあの方の半生を書き残しておこうと思って。僕も人間だから永遠にすべてを憶えていられるわけじゃない、特に声はすぐ忘れていってしまうから、何とおっしゃったか忘れないうちに書き留めないといけない」


 何気ない風に炒め飯の包みを開け、米を指でつまむ。


「これも一応、伝記、ということになるのかな。たった十五年の人生、そのうち僕が一緒に入られた六年と、その後のことを少し」


 ホスローもヴァンも黙ってラームテインの穏やかな横顔を見つめていた。


「昨日君たちと話していて、殿下が最期の時忘れられたくないとおっしゃっていたのを思い出したよ。自分が生きていたことを語り継いでほしい、と」


 彼に人間としての肉がつく。孤独な同世代の少年の背中が浮かび上がってくる。ラームテインがそれを書き上げた日には自分もフェイフュー王子を憎めなくなるかもしれない。


「僕がこうして書き残しておけば、きっといつか誰かがこの本を開く。そして読みながら殿下のことを考えてくれる。その時のためにできる限り正確で詳細な記述をすること。それが僕にできる弔いであり償いなのかな、と」

「師匠……」

「やっと。九年経って、やっと、僕も殿下が亡くなられたことと向き合えそうだ」


 そして微笑む。


「君たちに感謝しなければね」


 照れ臭かったのか、ホスローがわざと大きな声で「そうそう、俺たちの存在に感謝して!」と軽口を叩いた。ヴァンも乗って「俺たちめちゃめちゃいい役回りじゃん!」と騒ぐ。ラームテインはまたいつものように眉間にしわを寄せて「はいはい」と押し黙った。


「なあなあ、ホスローは? ホスローは何の本読んでたの?」


 問い掛けると、ホスローが「ああ」と頷いた。


「砲術の本。火器の発達の歴史とか、火薬の詰め方や調合の仕方とか」


 ぎょっとしてしまった。


「めちゃめちゃ実践的な本読んでない? 今から戦争行けるやつじゃん」

「そりゃ大袈裟だな、あくまでいつどこで火薬というものが見つかったのかとかそういう話をしてるから」


 一口パンを食べ、噛み砕き、飲み込んでから語り出す。


「読んでて思ったけど、俺こういうの向いてるかもなぁ。火薬の成分がいくらとか、どれくらいの重さでどれくらいの距離飛んでーとか。あと大砲の放物線の計算方法とか、綺麗だなあって思う」


 彼は数字に強い人間だったのだ。

 そこを見抜いて砲術の本を与えたラームテインも大したものである。


 ラームテインが言う。


「そういうのをやるのはあか軍なんだよね」


 ヴァンは初めて知った。


「火薬みたいな危険物の取り扱いは赤軍の仕事なんだ。ユングヴィがそういうのが得意でね、タウリス戦役でもばんばんと撃っていたし、今でも赤軍兵士はそういう訓練をしているはずだよ」


 ホスローが唇を尖らせる。

 ラームテインの褐色の瞳がホスローの目を見つめる。


「――君の親。君に、蒼軍の入隊試験、受けさせる、と?」


 少しのあいだ、間が開いた。

 ホスローは斜め下を見つめていた。


「そもそも、軍隊に関わること自体、あんまり良く思ってないんだわ」


 彼らしくない、小さな声だった。


「ちっちゃい頃から黒軍も赤軍も出入りしてきたけど、ちょっと預けて他人と遊ばせて社会勉強させるぐらいの感覚で、軍事的な訓練を受けてほしいわけじゃなかった、って口に出して言うわ。だから俺が白軍の軍学校を受けるって言った時も、お勉強しに行くだけならいいよ、みたいな、微妙な反応でさ」


 そして溜息をつく。


「見えねーな、俺の将来」

「未来のことは分からないよ」


 ラームテインが庇うようなことを言うのも珍しい。


「十三歳の頃の僕は十四歳で神剣を抜くなんて微塵も思っていなかったし、人生というものは、明日、明後日にはどうなるのかは分からない。だから今すぐ結論を出す必要はない」


 けれどホスローは頷かない。


「周りはそう思うだろうし、親も今すぐ俺を家から追い出そうとは思ってないとは思うんだけど――他でもなく俺自身がなあ、宙ぶらりんは微妙に不安なのよなぁ」


 その気持ちはたいへんよく分かる。寺子屋も卒業できるかどうか分からず、蒼軍の入隊試験も通るかどうか分からない、そういう人生をヴァンも不安に思わないわけではないのだ。たまに愕然とする。ただヴァンの場合すぐその不安を忘れて遊び惚けてしまうので普段はさほど気にしていない。


「僕なんか二十九にもなって仕事もしていないし結婚すらしていないから大丈夫だよ」

「えっ、結婚する気あんの?」

「ないけど……結婚生活がおそらくまったく向いていないので……」

「俺も師匠にお嫁さんが来てここで一緒に暮らすとか毛の先ほども分かんねぇや、あっはっは」

「あっはっは、ほんとだ、あっはっは」

「君たち本当に失礼な奴らだね」



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