第9話 国王陛下が大好きになってしまう話
ヴァンもホスローもいくら食べても腹が減る。ラームテインの家で彼と食事を取った後帰宅してまた夕飯を食べることも多々ある。今日もそんな感じだ。
結局三人でホスローの母親が作ったという煮物にパンをつけて食べ、食後にはヴァンが持ってきた西瓜を切り分けて食べた。
西瓜にかぶりつきつつ、ラームテインの顔を眺める。口元を西瓜の汁で汚さないよう少しずつ食べている彼の所作は綺麗だ。横顔は整っていてとても二十九歳の男性には見えない。
九年前、というと彼は二十歳だった。彼が二十歳の時、フェイフュー王子が死んで、ホスローの母親との間に何かが起こった。
ラームテインがフェイフュー王子の一番の信者であったのは有名な話だ。対するホスローの母親はおそらく今の王を支持していたのだろう。
ホスローの母親が作ったものを食べているところから察するに、ラームテインは落としどころが分からないのではないか、という気がする。
彼女と和解する気がまったくないわけではないのだ。そうでなければいくら食に関心が薄いラームテインであっても――むしろだからこそ、彼女が手作りしたものを食べようとはしないのではなかろうか。
ラームテインは頑固だ。自分から折れたくはないのだろうし、謝られても簡単に許したとは思われたくないのだろう。しかしいつまでもこうしていられるわけではないとも思っている。そこに葛藤がありそうだ。
結構分かりやすい。
彼の自尊心を傷つけてしまいそうなのであえて指摘しない。だがきっとホスローも察しているから平気でいるに違いない。
「あのさあ」
同じように西瓜を食べつつ、ホスローが言う。
「ずっと聞きたかったんだけどさ、さっき、うちの母ちゃんが俺を妊娠した時師匠が今の俺らと同い年だったっていう話になったからさ、その流れで訊いてもいい?」
ラームテインが何のこともない顔で西瓜にかじりついたまま「何を?」と答える。これが案外質問に答えてくれるのである。
「フェイフュー王子が死んだのも十五歳だったんだろ? ほぼほぼ俺らと同い年じゃんね」
ラームテインが硬直した。
「どんな人だったか、訊いてもいい? 師匠は何を思ってそっちを支持したのか、とかさ」
ヴァンの心臓も一回跳ね上がった。ホスローが一足飛びですごいところに踏み込んだように思ったからだ。
しかしヴァンも訊いてみたかった。
その名は今の王国では忌まわしいものとして封印されている。王に背いた反逆者として、秘書官長のシャフルナーズ・フォルザーニーや白軍のオルティ氏と敵対した者として、悪い印象だけが独り歩きしていて人間としての実像は見えてこない。
十五歳の少年だった。
どんな気持ちで兄である王に弓を引いたのだろう。そして、どんな気持ちで死んでいったのだろう。
それを語れる者はもはやこの世にラームテインしかいない。
「――そうだなぁ」
西瓜の皮を皿に置き、濡れ布巾で手を拭く。
「まあ、押しても引いても僕のことを振り返ってくれない、ちょっと薄情な人だったね」
意外な言葉だった。
「そんな男が好きだったの?」
「誤解を招くような言い方しないでくれる? 他にどういう言い方があるのかと言われるとちょっと悩むけど」
「もっとべたべた仲良しだったのかと思ってた」
「べたべた、がどういう状態のことを言うのかにもよるね。二人で出掛けたり長い時間一緒にいたり、は普通によくあることだったよ。でも――」
あぐらをかく膝の上に肘をつき、頬杖をつく。
「それでいてどこか孤独そうだったというか……、僕やカノやご学友がいくら好意を示してもご納得なさらなかったんだ。何が引っ掛かってそこまで他人を拒絶していたのかは僕も分からないままだったけど、たとえばヴァンとホスローのような友情みたいなものはお持ちでなくて、無条件でひとを信頼なさることはなかったんだろうな、と思う」
そこで自分とホスローの間に友情という言葉を宛がわれるのは少し気恥ずかしかったが、確かにホスローのことは無条件で信頼する気がしたので黙っておく。
「かといってそれを責める気にはなれなかった。なぜなら僕自身にもそういうところがあるので」
そう言われると、納得する。
「似た者同士だったんだろうね。一緒にいて居心地が良かったけど、それは、僕らの精神的な距離感が遠かったからだ。当たり障りなく、表面的に仲良く。はたで見ていたらいちゃいちゃべたべたに見えたに違いない。ただ殿下が僕の、たとえば少年時代の嫌な思い出とかにね、突っ込んでくることはなかった」
ラームテインは、そういう間柄であったことを後悔しているのだろうか。そうでなかったら起こらなかった事件もあると思い込んでいるのだろうか。
「別に、ずかずか踏み込んでいくことが仲良しの証拠なわけじゃないじゃん」
ヴァンが言うと、ラームテインは頷いた。
「まあ、そう。ヴァンの言うとおり。何でも打ち明けられるからいいというものじゃない。というより、僕はそれが大人の付き合い方だと思っていたし、嘘偽りのない密着した関係性は女の子のすることだとも思っていたよ」
難しい問題だ。ヴァンは意識してひとと仲良くなるわけではない。ラームテインに言われてから初めてホスローと自分の関係性を掘り下げている。
ヴァンもホスローのすべてを知っているわけではない。ホスローは特に自分の家族については隠し事をしたいようだった。しかしヴァンはそこを突っ込んでいくつもりはなかった。追及しなくてもヴァンは手放しにホスローが好きだと言えた。
「僕がひとに踏み込まれたくなかった。だからそういう理想を殿下に求めた。殿下は真面目なお方だったから、それを察して、僕の理想どおりに振る舞ってくださった――のかもしれない」
「ふうん……」
「僕はそういう殿下のお傍がとても居心地が良かったから手放したくなかった。期待に応えてくださる殿下を何よりも尊いお方だと思った。殿下のお力になりたかった。でも、あの方はひとの期待に応えることがお好きで、ご自分の意志というものはあまりなかったんじゃないかなぁ。僕に何かしてほしいわけじゃなかったんだよ。僕やナーヒドに、もっと言えばソウェイル殿下に何か求められるのがお好きで、言われるがままに振る舞っているうちに物事の整合性が取れなくなって破滅していったのかもしれない」
ヴァンもホスローも唸った。
「難しいな。難しい。悪いことじゃないじゃん。誰でも大なり小なりあるじゃん、俺だって姉ちゃんの顔色窺ってあえてあれをするとかこれをしないとかあるし」
「たまにいるんだよな、そういう奴。学校の優等生ってそういうの多いぜ。先生とか親の言うこと何でも聞いちゃう奴な。可哀想だけどさ、周りがあれこれ言ってやっても逆効果なの」
ラームテインが初めて表情を崩した。
「なんだかな。時々僕なんかより君たちの方がずっと頭がいいんじゃないかと思うことがあるよ」
彼が何を言いたいのか分からなくて、ヴァンはホスローと顔を見合わせた。
「抽象的なことから話し始めてしまったけど、表面的なことを言うと、結構やんちゃでわんぱくな方だったよ。同年代の人間と取っ組み合いの喧嘩をなさることもあった。でもそれが致命的な失敗につながったことはない。ご自分が確実に勝てる喧嘩しかなさらなかったんだよね。僕は昔はそれを頭がいいからだと思っていたけど――」
「見栄張って突っ張ってたのかもな」
「まあ、そういうことだよ。上下関係、組織内での縦の順列をとてつもなく気になさるお方だったから、身体的、能力的に自分より弱い人間を確実に押さえつけて自分の地盤を確かなものにしようとしていた可能性が高い」
「話を聞けば聞くほど何がよかったのか分からない奴になってくるな……」
「嫌だな、僕が悪口を言っているみたいじゃないか……」
結局死んだのだからどこかで致命的な失敗を犯したのだ。だがそのどこかが分からないのでラームテインももやもやしている。見つかったとして踏み込みたくなかったラームテインは指摘しなかったかもしれない。そしてそう考えるとその関係性は健康的ではない気がしてくる。
さっきホスローがそういう奴を可哀想だと言った。可哀想という言葉自体上から物を言っているようでヴァンはあまり好きではなかったが、他の言葉に置き換えるのも難しい。果てしない孤独が広がっている。可哀想だ。
「ご存命の時は、僕はフェイフュー殿下こそ打てば響く、一を言って十を理解して確実に返事をくださる方だと思っていたけど――」
三人とも西瓜を平らげ、一個がとうとうまるまるなくなった。
「そういう点では、ソウェイル殿下の方が手応えがあるのかもしれないね」
「そういう点、って?」
「好きだと言えば好きになってくれる点だよ。ソウェイル殿下は何を考えているかさっぱり分からないお方だったけど、僕がソウェイル殿下を頭の悪い人だと思い込んで関わらないようにしていたからであって、素直に近づけば胸襟を開いてくださるお方なのかもしれない」
ホスローは合点がいったのか「ああー」と声を漏らした。
「僕はそんな子供じみた態度は上に立つ者としての美徳ではないと思っていた。いや今でも思っているよ、もっと厳格で毅然とした態度の人間こそ力強い統率者なのだと――だから真面目で厳しいフェイフュー殿下こそ上に立つべきなのだと。でも蓋を開けたら有象無象の一般人はソウェイル殿下みたいなぐだぐだでべたべたの方が好きということだ」
「うわ、うわあ。それはめっちゃ分かる。分かるけど、師匠が認めて楽になっちまえよ、としか……。どう考えても今の方が息がしやすい、特に俺みたいに頭が良くないのは」
「俺も今の一瞬で国王陛下が大好きになっちまったな。もともと父ちゃんも母ちゃんも親しみのあるお方だって言ってたけど、俺も大好きだなーそういう人」
「まあ、そういうことだよ。分かった?」
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