第8話 いろんな奇跡が重なった末に
世界は夏に向かって加速している。日が伸びてきた結果夕方は遅くなり外はいつまでも明るい。
今日のヴァンとホスローはラームテインの家の前で球遊びをしていた。拳大より少し大きい布袋に砂を詰めた球を木刀で打ち合う遊びである。
ヴァンが木刀を構えた。
ホスローが球を投げた。
「ばーん!」
声を上げながら木刀で球を打った。
ところが今回は球があらぬ方向で飛んでいってしまった。
「あっ」
だん、という大きな音を立てて球が家の戸に当たった。
直後、内側へ戸が開いた。
「こら!!」
戸を開けたのは当然ラームテインだ。長い褐色の髪と服の裾が乱れている。寝起きなのである。
「今日はなかなか入ってこないと思ったら、いったい何をしているんだ」
ヴァンとホスローが顔を見合わせる。
「いや、師匠がぐっすりお昼寝してるみたいだから、起こさないように外で遊んでようと思って」
「余計なお世話だよ」
ヴァンなりの最大級の思いやりを余計なお世話扱いされてしまった。口を尖らせて木刀を下ろした。
ホスローはにやにやと意地悪く笑って「無防備な可愛い寝顔を晒しといてよく言うぜ」と言う。ラームテインが柳眉を寄せる。それこそ余計なことだとヴァンはひやひやしたが、確かに、ホスローと二人で覗き込んだラームテインの寝顔は無防備だった。可愛いとまでは思わないものの安らかで不用心極まりなく、何かされても何もできなさそうだとは思った。
「ちゃんと夜寝て朝起きろよ」
「いつもはそうしてる。今日はたまたま昨日の夜遅くまで本を読んでいて――」
「師匠の言うたまたまって頻度相当高いよなぁ。この前もそんなこと言ってなかった?」
ラームテインが中に引っ込み、内側から戸を押して閉めようとした。ヴァンもホスローも閉めさせまいと「まあまあ!」「待って待って!」と戸を外側から内側へ向かって押した。ラームテインよりヴァンとホスローの力の方が圧倒的に強い。戸はあっさりとふたたび内側に開いた。
「何なの君たち……本当に勘弁してほしいんだけど……」
ホスローが「母ちゃんが作った
「あと月謝。母ちゃんが師匠にお月謝渡せって言ってちょっと包んだの持ってきたから、受け取って」
ヴァンのその言葉に、ホスローが「えっ」と驚いた顔をする。
「月謝!? 金!? うちも師匠にちょっとお金包んだ方がいい?」
ラームテインが複雑そうな顔をして「お金は困っていないからいらないんだけどさ」と答える。
「まあ、ヴァンの家とは何のしがらみもないし、貰えるものは貰っておくかな」
「ホスローの家とは何かしがらみがあるの?」
反射的に問い掛けてしまった。言ってから、ラームテインとホスローの双方から変な目で見られた。どうやら触れてはいけないところに触れたらしい。
そういえば、ホスローは義理の兄の紹介で来たと言っていた。おそらく家族ぐるみの付き合いをしていたに違いない。ただ、今二人がこんな顔をしているということは、いつかの時点で何らかのいざこざが起こったのであろう。
気まずい。
いっそのこと謝ってしまおうかと思った頃、ラームテインが口を開いた。
「僕、ホスローの母親が嫌いなんだよね」
ホスローは珍しく神妙な顔をしてその話を聞いていた。
「頭が悪くて、感情的で、すぐ情に訴える。女の悪いところを凝縮したような人」
ヴァンはまたもや悩んだ。息子のホスローの前でそういう言い方はないだろう。しかし年上相手にそれはないと説教するのもどうか。
女の悪いところ、と言ったところも引っ掛かった。ヴァンは個性豊かな三人の姉たちに育てられたが、三人に女性ならではだと思われる共通の欠点はない。
ラームテインははっきりものをいう人間だ。しかも何事に対しても好き嫌いが激しい。だがこんな風に個人へ憎悪をぶつけることも珍しい。
「こんな風に堂々と息子を送り込んできて、厚かましいにもほどがある」
そして付け足す。
「僕に何をしたのか憶えてないのかな」
何かされたらしい。それも、理屈では説明できない、何かひどく感情的な理由で、だ。
「……憶えてないわけじゃないと思うけど」
ホスローも普段は見せない気弱な態度でぽつりぽつりと言う。
「でも、母ちゃんからしたら、師匠のことは過去のことなんだろうな。たぶんだけど。うちでは相変わらずフェイフュー王子の話はしちゃいけないことになってるけど、師匠とフェイフュー王子は別の人格で、師匠のことは今も弟だと思ってるんだと思う。たぶんだけどな」
木刀の先を地面につけ、杖代わりにして力を込める。
「母ちゃんも――言わないけどたぶん父ちゃんも、師匠のことは信用してんだ。それで、いつか戻ってくるって思ってる」
「戻らない、永遠に」
「そんな冷たいこと言うなよ」
「あの時僕に冷たい仕打ちをしたのはそっちでしょう」
言い放ってから、「ああもう」と苛立った様子で頭を掻く。
「こんなこと息子のホスローに言ったってしょうがないんだけどさ」
しかし親のことを自分のことのように思っているのか、ホスローはしおらしい態度で「ごめんなさい」と言った。
「本当に、どういう神経をしていたら僕のところに息子を送り込めるんだ」
「最初に行けって言ったのは兄ちゃんだ」
「あの方もだよ。あの方も――いや、あの方こそ何をお考えなのか分からない。どうせホスローの母親と裏で密着してあれこれ情報交換をしているに違いないけど、具体的なことは予測できない」
ヴァンはそこでひとつの気づきを得たが、言える雰囲気ではないので呑み込んだ。
「あの方は昔からそう、何もおっしゃらない。あの時だって、あの方の動き方によってはすべてが変わったんだ。あの方が何をどうお考えだったのか分からなかったから事情が複雑になったんじゃないか」
ラームテインがホスローの義理の兄に丁寧な言葉を使っている。ホスローの兄は十神剣であるラームテインを超越する立場の人間だ。そしてそんな人間はアルヤ王国には何人もいない。
しかしそれをそうと指摘できる空気ではない。
「でも――」
ホスローが苦笑する。
「俺、師匠が特別俺に冷たいと思ったこと、ないなあ。師匠は根は優しい人だと思う」
その言葉に、ラームテインも何か感じるものがあるのだろう。大きく息を吐いて、「まあ、それはね」と落ち着いた声音で言う。強張っていた空気が少し和らいだ気がした。
「ホスローの母親とホスローこそ別人格だからね。別個の人間だ。ホスローの母親は恨んでもホスローを恨む理由はない」
そして、小声で付け足す。
「ちょっと、ホスローには、悪かったな、と思うこともあるし」
ホスローが目を丸くして「えっ、何が?」と問い掛けた。
「俺、師匠に何かされた記憶ないけど。いや、日頃頭悪いとか落ち着きないとかめちゃくちゃ言われてるけど、ぶったり蹴ったりはされたことないし」
ラームテインが複雑そうな顔をする。
「記憶があったらびっくりするよ。ホスローが生まれる前の話だから。ホスローが母親のお腹の中にいた時の話だよ」
聞いていたヴァンは驚きのあまり「そんな前の話?」と口を開いてしまった。けれどラームテインは何とも思わなかったらしく、穏やかに「そう」と頷いた。ホスローも驚いた様子で「そりゃ憶えてないわけだ」と言う。
「てことは、十五年前? 師匠とホスローのご両親ってそんな前からの付き合いなんだ」
「そうだよ。くだんの話は、僕が将軍になって半年くらいの頃、僕が今の君たちくらいの年齢だった時のことだ」
ホスローが「タウリス戦役だ!」と叫ぶように言った。ラームテインが「ご明察」と言いながら溜息をついた。
「母ちゃんその時の話めっちゃするぜ、これから戦争だっていうのに妊娠しちゃって大変だったって」
「そう、それ。彼女が妊娠していることを知らないで僕は彼女を戦場のど真ん中に放り出したことがあって、僕は後からそんな作戦を立てた僕自身を恥じたよ。危うく君を殺すところだった」
「知らなかったからしょうがないんじゃねーの。母ちゃん自身気づいてなかったって言ってたし、どうせ自分から無茶買って出たんじゃねーの」
「いずれにせよ、あの時少しでも何かが違っていたら君は今ここにいない。君はいろんな奇跡が重なった結果生きているということを自覚してほしい」
ホスローが黙りこくって頷いた。
聞いていたヴァンまで溜息をついてしまった。生命とは何たるか、まで話が飛んだのだ。重い。
「それにしても、師匠って本当に二十九歳なんだなぁ。師匠が十四歳で今の俺らと同じくらいの時に母親のお腹の中にいたのはホスローだけじゃなくて俺もなんだよなぁ」
「そうだよ、何をいまさら。それだけ年上なんだから敬ってよね」
思わずヴァンはからからと笑ってしまった。つられてホスローも笑い始めた。ラームテインだけが「今のどこが笑うところ?」と顔をしかめた。
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