第7話 ホスローのお兄さんって何してる人? 2

「話すと超長くなるんだけど、簡単に言うと、俺の母ちゃんがむかーしむかしある高貴な身分の人から子供を預かったんだ。その子供が成長して家督を継いで今偉い人やってんの。で、母ちゃんが俺ら自分が産んだ子供たちにその人を兄貴って呼べって言ってんの」

「ほう。ホスローの母ちゃん、子守姐やしてたんだ」


 直接口に出しては言えないが、ホスロー自身が高貴な身分の人間であるとは考えられなかった。

 この前父親が黒軍の幹部だと言っていた気がする。黒軍は基本的に草原出身のチュルカ人で占められていてあまり行儀のいい連中ではない。その妻に納まる女性もおそらく位の高い家の姫君ではない。

 しかし母親が子守の手伝い女として奉公に出ていたなら別だ。身分の高い人間が直接手を出して乳幼児を養育するのは考えにくい。食事や下の世話を雇った奉公人にさせるのはよくある話だと聞く。そして、その子供が出世をすればおこぼれにあずかることもある。


「まあ、そういうことだな」

「ふうん。子守になったのはどういう流れで?」

「遡ると、今話題のエスファーナ陥落の時」


 ホスローが本の表紙に目を落とす。


「帝国軍が迫ってきて、アルヤ人貴族はめっちゃ死んだり亡命したりしたんだって。で、その中で、兄貴の親も兄貴を育てられなくなって、偶然避難先で出会った母ちゃんに預けて隠して育ててくれって言ったんだって。だからほぼ母ちゃんが女手一人で兄貴を育てたようなものだったって。実の親子でもありえねぇなってくらいべったりくっついて暮らしてたんだわ」


 手を振って「俺は自分の母ちゃんとああいうべたべたは無理」と語る。


「それが、何ていう総督だったかな、今の前の前の人? 前の前の前の人? なんか帝国の偉い人が元の家に帰ってきてもいいよって言ったから、母ちゃんは兄貴を元の家に帰したんだと。でも兄貴は母ちゃんのことをめっちゃ気に入ってて、元の家に帰ってもうちに来て、べたべたべたべた、兄貴が二十歳くらい、俺が十歳くらいまでいちゃいちゃしてたわ」

「ホスロー、あのさ、あんまりこういうこと言いたかないけど、なんか帝国の偉い人、みたいな言い方ヤバいって……お前のお袋さんと義理のお兄さんに関わることだろ、たぶんもうちょっと覚えといた方がいいぜ……」


 この分だとホスローはその高貴な身分である兄の出自も辿れないかもしれない。聞いているヴァンの方が不安になってきた。


「ていうかそれならお前んちめっちゃ歴史的にあれこれした家ってことじゃん。この宿題お前の母ちゃんに聞けばすぐ解決するんじゃねぇの」

「俺の母ちゃん俺よりバカだからな」


 遺伝か、と言おうとして呑み込んだ。さすがにまだ見ぬホスローの母親に対して失礼だ。


「奇跡の中の奇跡よ。戦争のごたごたがなかったら絶対あり得なかったことだと思う。俺もたまになんでこんな偉い人がうちで昼寝してたりするんだろうとか思うことあるけど、父ちゃんも母ちゃんも兄貴が何考えてんのかはよく分からんって言うからな」

「何か官職持ってる人なの? 法官? 神官?」

「あれも官職なのかな、俺はよく知らない」


 確かに知らなさそうだ、と思ってしまった。言わないことにする。


「まあ、でも、つまり、ホスローとその兄ちゃんって乳兄弟みたいな感じってことなんだろ?」

「そうなるな。兄貴を預かった時母ちゃんは十六だったっつってたし乳あげたわけじゃないけど、実質乳母なんだろうな」

「自分の乳兄弟十神剣に預けられるって相当すげー身分の人なんだろうな」


 ホスローがまた顔をくしゃくしゃにした。悲しそうとも悔しそうとも言えない、なんとも複雑な表情だ。


「いや、そうだろ? ふつーに考えて」

「ああ……そうだな……そう。まあ、うん……」

「悪かった……俺もうお前の兄ちゃんのことこれ以上突っ込まないようにするわ……」


 どうせホスロー自身もよく分かっていないに違いないのだ。


「マジ、昨日のことのように思い出すわ。兄貴に軍学校の試験に落ちたことを報告しに行った時のこと」


 ホスローの黒い瞳が悲しそうに下を向いている。


「俺は俺なりに真剣に考えて受験したっていうのに、兄貴のやつ、腹抱えてげらげら笑いやがって。普段からよく笑う人なら分からなくもないけど――兄貴の奥さんとか仕事仲間のお姉さんとかに笑われるならいつものことだから諦めもつくけど――兄貴自身は声出して笑うこと自体そもそも珍しい人だってのに、あの時はめちゃくちゃ笑いやがって……」


 ヴァンも複雑な心境だ。同い年の少年であるホスローが試験に落ちたこと、そしてそれを馬鹿にされることは心底悲しいことだ。しかしホスローの無計画かつ能天気な性格を思うと、笑いたくなる気持ちも分からなくもない。だが、お前の身内の気持ちも分かる、と言うのはあまりにもホスローに失礼だ。ここでもぐっとこらえる。


「俺、兄貴が兄貴だから、裏口入学でこっそり入れてくれるんじゃないかとも思ってたんだよな。それがさ、無茶言うなよ、の一言でさ……ばっさり……」

「そっか……何て言うか、ホスローの兄ちゃんが汚職事件を起こさない真面目な人だったってことでいいんじゃないの? そこで手を出したのがバレたら兄ちゃんが失職だろ」

「失職? あの人が? あの人に職を失うって概念あるのか? まあ、民衆からの評判はがた落ちかもしれないな……分からんけど……」

「アルヤ王国の官僚制度ってのはホスローが思ってるのの百倍しっかりしてるんだ、うちに税金取りに来る役人の仕事を見てりゃあ分かるぜ」


 本を卓の上に放り出して、体の後ろに両手をつき、伸びをする。


「逆によかったわ、軍学校がひとりの人間の口利きでは入れないようなちゃんとしたところだってのが分かって。偉い人にお金積まれて入れるようなところで育った白軍兵士とかあり得ない。それこそ師匠の言うとおりそんな人間が『蒼き太陽』のために死ねるかっていう話」


 ホスローが「そうだな」と頷く。


「しっかしそう言うとさ、師匠が前言ってた白軍兵士がそもそも向いてんのかって件な。冷静に考えてみて、俺、『蒼き太陽』のために死ぬとか考えられねーわ。いや、別に『蒼き太陽』が嫌いなわけじゃないけど、あの人が自分のために俺に死ねとは言わないだろうなって感じ」

「そりゃそうよ、今の太陽は優しいんだからよ。だからいいんじゃんね」


 そこまで言うと、ホスローは黙った。ヴァンはホスローが聞いていてくれる気がしてきて、つい饒舌に語り始めてしまった。


「俺も死ぬかどうかってのはちょっと想像つかないけど、陛下のために何かできるかな、とか思うことはある。陛下が帝国とうまくやってくれてるから俺らは安心して暮らせるわけじゃんね。俺は今の陛下が好きだし、陛下が戦争しろって言うならするわ。でもそれはあの陛下がやたらめったら戦争しろって言うはずがないと思ってて、よっぽど追い詰められて大変な状況なんだろうなって分かるからこそ協力しなきゃって話でさ――」


 途中でヴァンは恥ずかしくなってきた。学校の友達とも忠節などというものについて話したことはないのだ。話の途中で言葉を切り、慌てて「あーごめんなんかちょっと真面目な話した、忘れて」と手を振った。

 ホスローが首を横に振る。


「ううん、兄貴はそういうこと聞いたら喜ぶと思う。兄貴も日々どうやったら戦争しなくて済むか考えてるって言ってた」


 ホスローは、馬鹿にしないでくれるのだ。


「そう? ていうかホスローの兄ちゃん宰相級の偉い人なんだな、戦争するしないに口出せる官僚って宰相じゃなかったらシャフルナーズ・フォルザーニーくらいだぜ」

「どうでもいいけどそのシャフルナーズ・フォルザーニーはガチな美人だから一回拝んだ方がいい。兄貴の仕事の関係で会うことあるけど、本物」

「えっ、生で見たことあんの!? めっちゃうらやましい! 俺も会いたいーっ!」


 こうして今日もヴァンの宿題は進まずに日は暮れていくのであった。





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