第6話 ホスローのお兄さんって何してる人? 1
ラームテインが立ったまま身を屈めて卓の上に本を置いた。
「はい、これ」
その上にもう一冊置いた。
「サータム帝国のその時の皇帝の言行録はこれ」
さらに上にもう一冊置いた。
「これがアルヤ王国の当時の交易品の記録とタウリスの出納書記官による覚書」
ヴァンとホスローは、二人向かい合わせの状態で卓の周りに座って、本三冊が積み上がるのを険しい表情で見ていた。
「じゃ、書けたら見てあげるから言ってね」
「待って」
上体を起こして立ち去ろうとしたラームテインの袖をホスローがつかむ。
「師匠、あのさ」
「なに」
「ヴァンはさ、エスファーナ陥落の時にどうして戦争になったのか教えてほしい、って言ったじゃん?」
「うん」
「なんで教えてくれないの?」
「本を読めば分かるから」
ヴァンは頭を掻きむしった。その本を読みたくないからラームテインに答えだけ教えてもらおうとしたのに、ラームテインは本を読めと言う。これではちっとも宿題が終わる気がしない。ヴァンはエスファーナ陥落の原因を考察するこの論文を今週中に教師である僧侶に提出しなければならなかった。
「読んだって分からないものは分からないってば……!」
「読んでもいないのに分からないとは言わないことだね」
ラームテインが溜息をつく。
「一言で済むならそんなに大きな解答用紙はいらないでしょう、先生は長々と書かせたいからそういう紙を配ったんじゃないの」
「そう、それはそう、でも俺一人じゃまったく埋まらないワケ」
「だからと言って僕が述べてどうするの。全部書き写すの? 何の修行? そういう精神修養の宿題じゃないでしょう。それに見る人が見たら君が自分で考えた文章ではないということが分かってしまうと思うんだけど、そんな危険を冒して評価を下げてまで得られるものって何? 意味も利益もない。だったら白紙で提出した方が潔い」
ヴァンはたじろいだ。ラームテインがあまりにも正論だったからだ。
こういう時、この人は本当に頭のいい人なのかもしれない、と思う。言っている内容は難しいが理解できないことではない。何を言いたいのかは分かるのだ、ただヴァンが実行できないだけである。ホスローは彼を師匠と呼んでいるが、確かに学校の先生と通ずるものはある。
「課題に対して過程を省略して解答だけ得ようとするのは思考を放棄する愚行だと思うね。一兵卒なら上官の言うことに唯々諾々と従っていればいいかもしれないけど、上官になれば兵士の報告をもとに最適解を探して作戦を選択するところまで求められるんだよ、思考力のない軍人の率いる部隊は全滅する」
反論する隙が無い。
「ついでに言わせてもらうのならひとに勉強を教わろうというのに最低限読むべき本を読まずに手ぶらで来る神経が信じられない。予習してきなさい。共有できる情報が皆無の状況で説明したところで何が分かると言うんだ」
沈黙して一方的に説教を浴びるだけのヴァンを見て、ホスローが「もうやめてくれ、俺の胸まで痛くなってきた」とか細い声を上げた。
「せっかくだから二人で仲良く勉強したら? というか僕はもともと君たちが二人で勝手に自習してくれることを念頭に置いて承諾したんだから参考文献を教えるだけ優しいと思ってほしい」
そこまで言うと、「じゃ、終わったら言ってね」と告げて今度こそ寝室の方へ引っ込んだ。どうせまた布団の上でごろごろしながら本を読むのだろう。本を読んでいる暇があるなら相手をしてほしいが、ここまで言われてそんなことは言えない。
観念したヴァンは卓の上に積まれた本に手を伸ばした。
ぺらぺらとめくる。
文字がみっちりと書いてある。見ているだけで目眩がする。
「ひでぇよな」
ホスローが大きな溜息をついた。
「扱いがめっちゃ雑じゃない? こんなはずじゃなかった」
ヴァンは、お前も何か勉強しろ、と言いたいのをこらえた。自分はまだ勉強する気があって学校の課題を持ち込んでいるが、ホスローは十割手ぶらだ。
彼はいったい何をしにここに来ているのだろう。兵法の勉強をすると言っていたのに、台所で家事をしている姿と玄関先で木刀の素振りをしているところしか見たことがない。
ひょっとしてラームテインのさっきの説教はホスローに向けても投げ掛けられているのではないか、というのが脳裏をよぎった。ホスローもラームテインに兵法書などの課題図書を宛がわれて挫折しているのかもしれない。
「こんなはずじゃなかったって、どんな感じになるつもりだったの?」
問い掛けると、ホスローもまた本を手に取ってぱらぱらとめくった。
「めっちゃ頭いいから何聞いても分かりやすく教えてくれるって聞いてたけど、実際俺師匠に何か教わったかな、って思って。何も分かりやすくない。俺がバカだってことだけ分かった」
ヴァンは渋いものを噛み締めた時の顔をしてしまった。ヴァンの想像どおりならたぶん何かを教えようとしてくれていると思うのだが、それが遠回しなのかはたまた説教臭いのか、ホスローにはまったく響いていないとみた。
「ちなみにその教えてくれるって言ってた人誰?」
何となく、そいつがラームテインとホスローの相性の悪さを知らないからこんな事故が起こったのではないか、と思って訊ねたことだった。
口にしてからはたと気づいた。
「ていうか、ホスローって何がどうなって師匠のところに弟子入りすることになったの? その人の紹介なの?」
十神剣であるラームテインに知り合いの少年を弟子入りさせることのできる人物、というのが思いつかなかった。よほど恐れを知らないか十神剣に匹敵するほど身分の高い人間であるとしか思えない。前者であればヴァンの両親もそうなのだが、ラームテインのものの教え方を知っているとなればかなり親しい人間なのではなかろうか。
ホスローが本を閉じながら呟くように答えた。
「兄貴の、紹介って言うか命令って言うか何て言うか――」
自分で言っておきながら、ホスローはそこで驚いたかのように目を真ん丸にした。
「あ、いや……、まあ、知り合いの知り合いって感じなんだけどさ」
「おい、今ふつーに兄貴って言っただろ。なんでいまさらごまかそうとすんだよ」
「忘れてくれ、頼む!」
慌てた様子で手を振る。
「俺兄貴のことひとに言わないって決めてたんだ、ヴァンも聞かなかったことにしてくれ」
ヴァンは口を尖らせて「なんでだ」と呟いた。
「別にいいじゃん、お兄さん。俺姉ちゃんしかいないから男きょうだい憧れるわ」
「血はつながってないんだけど――ああーやっちまった! まただ! また俺自分から余計なこと言って泥沼にはまってる!」
ホスローが一人で勝手に悶える。ヴァンは思わず「変な奴」と漏らしてしまった。
「そんなにひとに聞かれたくないことなら最初から言うなよ、言い掛けたことは最後まで全部言ってすっきりしろや」
「それがうっかり口を滑らせちまったわけでさぁ――」
卓の上に身を乗り出す。
「おい、余計気になってきただろ。話せや。どうせここには俺とホスローしかいないし、俺誰かにひとの事情べらべら喋ったりしないし、安心して喋ってくれ」
ホスローが下唇を噛み、顔の全体をくしゃくしゃにする。
「誰にも言わないな?」
「言わない言わない。親にも言わない」
頬の筋肉を緩めて、大きな溜息をついた。
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