第4話 野菜を積み上げてのお願い 1

「父ちゃーん、お客さーん」


 時刻はすでに月の出ている夜、市場を形成する店のほとんどは営業を終えており、商品は店内に押し込められ、軒先は大きな幕で閉ざされていた。

 ヴァンの両親が経営する八百屋も同じ状態だ。ヴァンは幕を持ち上げつつ大声で店の奥の居間に呼び掛けた。


 父親はすぐに出てきた。客と言ったからであろう、右手に油灯ランプを持ち、にやにやと少々下品に笑いながら店先に向かってくる。


「すみませんね、今日はもう店じまいでね。しかしどうしやした、こんな時間に。いえ、うちはいつでも商談に応じますよ。いつもにこにこ即刻売り買いのサーミとはあっしのことでしてね」


 この時間帯は店頭での売買を受け付けていないので個人ではない特殊な客だと判断したのだろう。大口の顧客と勘違いしたのかもしれない。


「いや、店のお客さんじゃなくてさ。俺の受験の件なんだけどさ」


 ヴァンが連れてきた客の顔を見て、父親が目を真ん丸にした。


こんばんはサラーム


 こちらも片手に角灯ランタンを持った状態で、外套を羽織ったラームテインとお供のホスローである。


「ヴァフラム君のことで少々お話があるのですが、よろしいですか」


 父親は驚愕に目を見開いたまま二歩三歩と下がった。

 踵が品物の瓜を入れた箱にぶつかる。派手に尻餅をつく。危うく油灯ランプの火が床に落ちるところであった。ヴァンは「あっぶねぇ!」と叫んだ。


「ら、ら、ラームテイン将軍」


 ラームテインがにこりと微笑んで「はい」と応じる。その笑みはぞっとするほど美しく、笑顔なのになぜか彼が不機嫌であることがはっきりと伝わってきた。


「自己紹介するまでもなさそうですね。お時間、いただけますか? お忙しいでしょうか」

「とん、と、とんでもない! 滅相もございません!」


 床に油灯ランプを置いて両手をつく。いわゆる平身低頭というやつだ。


「何だい、父ちゃんもヴァンも、大騒ぎして」


 客と聞いて慌てて頭にマグナエを巻いてきたらしい、部屋着の地味な上衣カフタンにほっかむりをした母親も出てくる。

 彼女もラームテインの顔を見て目を真ん丸にした。似たもの夫婦だ。


「なん、なんでまた、ラームテイン様ご本人ですかね!?」

「そうです。僕が紫将軍ラームテインなのですが――」


 ヴァンは震えた。


「まさか、僕が来るのを見越していたわけではなく? ヴァフラム君から、あなたがたが彼を僕のところに行かせた、と。そうお聞きしたのですが、僕の勘違いでしょうか」


 両親の「とんでもございません!」という悲鳴に似た声が重なった。


「すっ、すみません、お茶、そうだ今すぐお茶を――」

「結構です、ここで立ち話で。用事が済んだらすぐに帰りますので」

「とんでもない! 今すぐ甘い甜瓜メロンを切りますんで召し上がってください! ラクータ産のいいお茶も出してきますんで、どうか、何とぞ!」

「別に僕を追い返したところで官憲に突き出すわけではありませんから落ち着いて」

「追い返すなど、そんなこと! ささ、上がってください! こんなところで、そんな! どうぞ!」

「だから、いいですって」


 ラームテインの一歩後ろ、ヴァンの隣で様子を眺めていたホスローが、ヴァンの腕を肘で小突く。


「おい、あれ、相当怒ってるぜ。師匠一回こじらせると長いんだよ、根に持つ方でな」

「なんかほんと……ごめん……」


 ラームテインは頑固であった。本気で立ち話で済ませるつもりのようだ。ヴァンの両親の勧めに応じることはなかった。


「お子さんの軍学校の件、お話を伺ったのですが」


 父親がその場でひざまずいたまま「恐縮でごぜえやす」と言う。母親はせめて茶だけでもと言って奥に引っ込んでいった。


「受験させてやったらいいんじゃないでしょうか。受かる受からないは僕には分かりませんが、やる気があるならやらせてやればいいと思いますよ」


 念を押すように「受かるかどうかは分かりませんけどね」と言った。それがなぜか落ちると言われているように聞こえてヴァンは縮こまった。


「お前、本気でそんな話したのか」


 父親に問われて、少しむっとして顔をしかめる。


「父ちゃんがラームテイン将軍に認められたら受験させてくれるって言ったんじゃん」

「馬鹿野郎! 本気にする奴があるか!」


 ラームテインが「本気ではないのに僕にけしかけた、と」と呟いたので、父親は再度床に額をこすりつけた。


「将軍のお手を煩わせるほどのこともございませんで……! こいつは通わせている剣術道場では一等剣ができるんでそれでなんとかと思ってるんです」

「まあ、そうでしょうね。武芸の試験は知りませんが、はっきり言って筆記と礼法は落ちると思います」


 あまりにもはっきり言われたので、ヴァンは言葉を失った。隣でホスローが「はっきり言い過ぎだろ」と呟く。

 しかし父親はそこで顔を上げた。


「武芸は何とかなりそうですかね」


 ラームテインが「え」と声を漏らしながら瞬いた。


「どうですかね。勉学と礼儀作法を今からみっちり仕込めば、来年の試験には間に合いそうですかね」


 予想外の展開だ。

 父は真剣な顔でラームテインを見上げていた。


「あっしも親ですんでね、ちょっとでも可能性があるんなら夢見させてやりたいんですわ。一回くらい受けさせて、だめならだめでうちを継ぎゃあいい、うまくいって夢が叶えば国境でも戦場でも万々歳で送り出してやろうかと思ってるんです」


 胸が熱くなった。まさか父がそんなつもりで言ってくれたのだとは思っていなかったのだ。もっと投げやりで、だめでもともとという考えで言ったのだと思っていたのである。これだけで泣いてしまいそうだ。


「父ちゃん……!」


 それまでかしこまってばかりだった父親が、上半身を起こして、覚悟を決めた顔を見せた。


「ここまでおいでなすったということは、息子の何か、どこかしらを認めてくれたんでしょうね。剣で一本取ったんですかね。そこんところ、聞かせていただけませんかね」


 彼の熱意に押されたのだろうか。ラームテインは硬くて恐ろしい笑顔を消し、少し困惑した表情でホスローを見た。


「……どう?」

「えっ、俺に意見求めてんの?」


 ホスローもたじろいだ様子でラームテインとヴァンの父親を交互に見る。


「だって、実際剣を合わせたのはホスローでしょう」


 彼は「あんなの剣を合わせたって言わな――」と途中まで言い掛けて口をつぐんだ。ヴァンはホスローに一瞬で負けたことを思い出して肩を落とした。ホスローにもまったく敵わなかった。今になって負けたことを情けないと思った。その上で、ホスローはヴァンを庇ってラームテインにもヴァンの父親にもヴァンは弱かったとは言うまいとしている。この男こそ真の男だと思った。


「……まあ、何つーか、その。俺のことは忘れていいぜ。俺、ちょっと規格外だからさ……」


 しかしヴァンの父親は聞き逃さなかったようだ。


「おたくはどちらさんかな?」

「俺ですか?」


 ホスローが軽く頭を下げる。


「ラームテイン将軍の弟子です。父親は名乗るほどのもんでもないんですけど黒軍の幹部をやってる男で、俺の名前はホスローと言います」


 黒軍の幹部ということはチュルカ人なのだろう。顔立ちも言葉遣いもアルヤ人の庶民そのものだが、どうやら混血だったらしい。とはいえチュルカ人とアルヤ人の夫婦はさほど珍しいものではないのでとりたてて騒ぐことでもない。


 ヴァンの父親が苦笑して、その場で腕組みをした。


「お弟子さんにも敵わなかったんじゃ、将軍には太刀打ちできねぇなぁ」


 ラームテインが溜息をついた。


「それなんですが。僕に剣術でかかってこいと、そうおっしゃったんですか?」


 父親が頷く。


「ええ、まあ。と言ったってこいつもせいぜい町一番程度で――」

「町一番でも僕は死にますよ」


 父親の背後で、硝子ガラスが割れる音がした。

 見ると本気で茶を淹れてきたらしい母親が茶器を落として割ったところであった。

 母親は顔面蒼白だ。

 彼女は裸足で店先に出てくると、「この馬鹿!」と言ってヴァンの頬を打った。親に殴られたのなどどれくらいぶりだろう。それも顔面をやられたのは生まれて初めてかもしれない。


「あんたも、あんたも! 何バカなこと言ってんだい!」

「えっ」

「まさかそういうつもりだったなんて――あたしゃてっきり学問を見てもらうんだとばっかり……! この、大バカものども! 万が一お怪我でもさせたらどうするつもりだったんだい!」


 男二人がぽかんとした顔で状況を見守っていると、ラームテインが「まあ、そういうことです」と言った。


「僕は将軍とは名ばかりで、武芸はこれっぽちもできません」


 頭の中に雷鳴が轟いた。



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