第2話 怪しい者ではありません

 翌日の夕方、ヴァンは一人木刀を握って林の中に隠れていた。


 エスファーナは水と緑の楽園だ。砂漠の真ん中にありながら、奇跡の河ザーヤンドや北部州の山から地下水路カナートを伝って流れてくる水のおかげで植物が育つ。多いのは棗椰子だが、ヴァンの住む第二十九街区の外にある林と言えば開心果ピスタチオのことだ。開心果ピスタチオの木は四階建ての住居相当の高さになる。


 開心果ピスタチオの木が青々とした楕円形の葉をつけている。

 季節は春、昼間はすでに焼け死ぬほど暑いがこの時間帯には一気に冷えてくる。しかし寒い方が頭が冴えていい。


 木陰に身を潜める。密かに木刀の柄を握り締める。


 木々の向こう側にこじんまりとした屋敷が見える。平屋建てで、上から見るとおそらく大きな長方形と小さな長方形を合体させた形をしている。ずっと空き家だと思っていたが、どうやら人が住んでいたらしい。今はひとけはない。


 紫将軍ラームテイン――いったいどんな男なのだろう。


 話はよく耳にしている。ヴァンの大好きなタウリス戦役を勝利に導いた天才軍師だ。ヴァンは作戦を実行に移し直接敵軍と戦った蒼将軍ナーヒドや黒将軍サヴァシュの方がずっとずっと好きで軍師をやることがどれほどすごいのか分からなかったが、とりあえず、頭のいい男なのだろう。

 彼は九年前のフェイフュー王子の反乱を機に表舞台から消えてしまった。

 謎めいた存在だ。人間味がない。どうやら絶世の美少年だったそうだが、見た目の良し悪しにはヴァンは特に興味がない。年齢はタウリス戦役の時にまだ少年だったと聞いたので今はおそらく三十歳前後だろう。


 とにかく、将軍というからにはきっと武芸もそれなりに強いはずだ。そうでなければ軍隊の長になどなれないだろうし、父も決闘してこいとは言わないに違いない。


 ヴァンは同世代の知り合いの中では一番剣術が強い。しかし将軍が相手となれば油断はできない。真正面から正攻法で立ち向かって敵うはずがない。


 そう考えたヴァンは闇討ちをすることにした。不意打ちを狙えば自分にも勝ち目があるかもしれない。


 どんな手段を使ってもいい。勝ちさえすれば――そして両親を説得してくれるなら何でもする。

 相手は三十路の武人だ、ヴァンの心意気を見せれば分かってくれる――と思いたい。問題はこうして卑怯な手を使うヴァンを嫌いにならないかどうかだけだ。それでも剣術が強いことを分かってもらえば軍に推薦してもらえるだろう。


 日が暮れてきた。肌寒い。いつもなら夕食の時間だが、緊張のためか空腹は感じなかった。


 声が聞こえてきた。話し声だ。若い男が二人何やら話をしながらこちらに向かってくる。


 改めて、木刀を両手で握り直した。


 林の中で火が揺れている。どちらかが角灯ランタンを持って歩いているようだ。


 目を凝らしてみる。


 やはり若い男が二人歩いてきている。二人とも簡易な明るい色の上衣カフタンのようで、角灯ランタンの光の中にぼんやりと体の輪郭が見えた。どちらも華奢で、少年のわりには筋肉質のヴァンより細そうだった。


 もう少し近づくのを待つ。


 角灯ランタンを持っているのは色白で長い褐色の髪をひとつに束ねた男だった。おそらく、だ。ぼんやりと見える顔は長い睫毛の大きな目に形の良い鼻と口で、長くまっすぐの艶やかな髪と滑らかな肌も相まってまるで女性のようだった。線が細い。着ている服装からしてたぶん男性だが、男装の麗人に見えなくもない。


 もう一人は荷物を抱えた赤毛の少年だった。年はヴァンと同じくらいだ。聞こえてきた声も声変わりの時期のかすれ声で、十四歳のヴァンとそんなに変わらない。日に焼けた頬、垂れ目気味の目に大きな口と、あまり端正な顔立ちとは言えないつくりだが、十代半ばの男などこんなものだろう。


 後者がヴァンと同じくらいの少年ということは、前者がラームテイン将軍だろうか。

 想像していたのとだいぶ違う。確かに若い頃は美少年だったと聞いたが、ヴァンの目には女性に見える。美しい。けれどそれはヴァンにとっては頼りなさと紙一重だ。あまり日に当たっていない感じや薄っぺらな体躯は武人として言語道断である。ラームテイン将軍の妻だと言われた方が納得だった。


 首を横に振ってそんな考えを頭から追い出した。


 やると言ったらやるのだ。


 油断は禁物だ。人は見た目で判断してはいけない。もしかしたらあんなでもものすごく強いかもしれないのだ。


 手に汗をかく。

 木刀が滑って飛んでいかないように祈る。

 大きく息を吸う。そして吐く。


 次の時、ヴァンは叫びながら突進した。


 二人が振り向いた。


 一瞬のことだった。


 少年が荷物を放り投げた。紙の袋から食材とおぼしきいろんなものが溢れてこぼれた。

 彼は腰に剣を提げていた。

 その剣を抜いた。

 角灯ランタンの炎に刃が輝いた。

 鈍色の、鉄の色の刃――真剣だ。


 ヴァンの木の刀と少年の鉄の剣がぶつかった。


 木製の刀の切っ先が、飛んだ。


 少年はやめなかった。さらに一歩踏み込んだ。

 少年の剣の切っ先がヴァンの鼻先をかすめる。とっさに身を引かなかったら顔面が切れていたかもしれない。


 ヴァンは声を上げることすらできなかった。


 少年が左手で剣の柄を握ったまま右手の拳を握って突き出してきた。

 少年の拳がヴァンの右頬にめり込んだ。

 すさまじい勢いに負けて吹っ飛んだ。すぐ後ろにあった木に背中を叩きつけた。そのままずるずると座り込む。


 はっと気がつくと、少年が切っ先をヴァンの鼻に突きつけていた。


 ヴァンは座り込んだまま後ろの木にぴったり後頭部をくっつけて「ひっ」と短い悲鳴を上げた。


「テメエ、何者だ?」


 その声の感じはやはりヴァンと同じくらいの少年のものだ。

 だが、強い。

 とてつもなく、強い。

 このままだと斬られる。


「すみません! 俺はそこの八百屋のサーミの息子ヴァフラムです!」


 命乞いをするしかない。


「ころ、殺さないでくださいっ。すみません、何でもしますから……っ」


 少年がちらりと後ろを振り向いた。

 角灯ランタンを持ったまま突っ立ってこちらを眺めている男だか女だか分からないその人と目が合った。


「師匠、どうする?」

「そうだね」


 声の感じは普通の男性だ。


 静かに歩み寄ってきて、角灯ランタンの炎でヴァンの顔を照らし出す。


「普通のアルヤ人の男の子のようだけど――ホスローの友達とかではなく?」

「違いますぅ。俺の友達こんなバカいないですぅ」


 少年――ホスローと呼ばれた彼が口を尖らせ普通の少年のような受け答えをした。若干ふざけているかのようで、ヴァンは本当に彼が自分と年の近い男子であることを感じたが、かといって剣の切っ先を離してくれるわけでもない。

 剣の切っ先はしっかりとヴァンの鼻先に固定されたまま動かない。そのぶれのなさは玄人のもので、彼が手練れであることを再確認した。


 ヴァンは震えながら声を捻り出した。


「普通のアルヤ人の男です、一般人です。怪しい者ではありません」

「本当に? 帝国の間者とかでもなく?」

「八百屋の息子です……! 本当の本当に、ただのアルヤ人男子です……!」


 ホスローが「嘘ついたら殺す」と唸るのに似た声を出した。ヴァンは「嘘じゃないです、ほんとに、許してください」と懇願するしかなかった。


「このお方を誰だと思ってる?」

「紫将軍ラームテイン様じゃないんですか」


 男が左手に角灯ランタンを持ったまま右手で自分の口の辺りを隠して「そうだけど」と呟いた。どうやら本物だったらしい。


「僕が誰か知っていてこの振る舞いなのか。まあ、命を狙われるのに値することは過去さんざんやってきたのでいまさら驚きはしないけど」

「おいおい師匠、勘弁してくれよ。俺は何人の刺客からあんたを守ればいいんだ」

「誰の依頼で来たのかな。アルヤ人の庶民の少年にひとを襲わせようというのは感心しない。誰の差し金で僕の命を狙った?」


 ホスローが「答えろ」と言いながら剣を振った。ヴァンは輝く刃に震えながら「誰の遣いでもないです」と答えた。


「あの、これにはちょっと、訳があって――」

「訳だぁ? どんな訳があったら夜道で将軍を襲うんだよ」


 いまさら自分が恥ずかしくなってきた。確かに、夜道で将軍を襲うなどおそれ多いことだった。軍学校の受験を前にして頭がおかしくなっていたようだ。冷静に考えたら普通のことではない。白軍にしょっ引かれても仕方がない事態である。


「ごめんなさい……! 本当に、その、謝るんで……! 全部説明するんで、何でもするんで通報しないでくださいお願いします……!」

「見逃してやれるかよ。テメエの親何してんだ」

「八百屋です! 普通の八百屋なんで勘弁してください! 親には言わないでください、ごめんなさい、ごめんなさい!」


 ラームテインが大きな溜息をついた。


「ホスロー、離してあげて。彼からは何も出てこなさそうだ」

「でも、師匠――」

「まあ、ホスローのおかげで僕にもホスローにも怪我はないんだし、とりあえず話を聞くよ。彼の説明次第ではまた引っ越す」

「あの本の山を抱えてどこにどうやって?」


 ようやくホスローが剣を引いて鞘に納めた。ヴァンは気が抜けてその場に両手をついた。危うく失禁するところだった。


「すぐそこが僕の家なので来なさい。ここ、寒いし。家の中でゆっくり話を聞こうじゃないか」

「逃げたら今度こそ殺すからな」

「は、はい!」




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