第19話 ただの女として愚かなことを考えます
暗い廊下を二人でゆく。
暗い、と言っても単に夜だからだ。むしろ今夜は窓から差し入る月光が明るく、回廊の向こう側は光で満ちているように感じた。まして夏の今の昼間は灼熱地獄だ。涼しく爽やかな月夜はどんな時間帯にも代えがたい。愛し合う二人が恋を語らうには最適の時刻だろう。
廊下をゆく二人の足取りも軽い。それもこれもすべて世界が明るくなった証拠だ。
正直なことを言えば、オルティはソウェイルが王になってからのこの数年ずっと悩み続けていた。この国の空気があまりにも暗く重苦しかったからだ。自分は本当にここに人生を賭けてもいいのか、荷物をすべてたたんで気ままな草原生活に帰ろうか、思考は巡り巡ってオルティを苛み続けた。
だが、今は明るく清々しい気持ちで宮殿の中を歩いている。
耐え抜いた自分の――否、自分たちの勝利だ。
「――滞りなく済んだようで、本当によろしゅうございました」
隣を歩いていたシャフラが言った。
立ち止まって彼女の顔を見る。
彼女は久しぶりに力を抜いて穏やかな表情をしていた。ずっと硬く強張っていた頬は寛いでいて今なら柔らかそうだ。白い頬に影を落とす長い睫毛は少しだけ伏せられてはいるものの、黒真珠のごとく大きな黒目がちの瞳に暗い色はない。
「陛下がリリ様を拒絶されたらどうしようかと思っておりました。それこそわたくしは死をもって
「大袈裟だ。ソウェイルがそんなことをお前に求めるはずがない」
「ですが――今ならばもう時効だから言ってもよいでしょう。実は、フサイン閣下になぜサータム帝国皇女との婚姻が成立する前に大華帝国皇女と結婚したのかと責められた時、陛下は決めたのはシャフラだと言ったのですって」
彼女は楽しそうにころころと笑った。
オルティは眉根を寄せた。
「笑うところじゃないだろう。お前、フサインに謀反の疑いをかけられて殺されるところだったかもしれないんだぞ」
「結構ではございませんか。臣下の者をうまく使うようになられたと思い、わたくしはむしろ安心致しました。陛下はわたくしを大いに利用すればよいのです」
そこに含む響きは感じられない。彼女は純粋にソウェイルの成長を楽しんでいるようだ。
「ようございます。わたくしが、この国の礎となるのならば」
彼女の声は力強く、迷いもためらいもない。
「この命をこの国のために捧げると誓いました。陛下をこの国の正当な支配者とするために、わたくしのすべてをもってお仕えする、と」
「シャフラ……」
「いずれにせよもうリリ様を大華帝国に突き返すことはできません。ご成婚より早半年、お二人が仲睦まじくともに過ごされていることをとても大勢の人間が目撃しています。しかも今宵とうとうリリ様は無垢なお体ではなくなりました」
歌うように、「誰からも望まれて、誰からも祝福され」と言う。
「……どのような感覚なのでしょうね」
右手の指と左手の指を組み合わせ、自分の腹の辺りに添える。その白い指先はまったく荒れておらず、彼女が本来は水仕事などしない姫君であることを思い出させられた。
「わたくしには、男女の仲というものがとんと分かりません。分かるつもりもございませんでした。わたくしはアルヤ王国と結婚したのです。夫婦ではございませんが、陛下にからだ以外のすべてでご奉仕するものとして、この仕事を引き受けました」
「そうか」
「ですが……、ですが時々――」
その言葉が出た時初めて、シャフラの声に何か暗いものが混じった。悲しみとも苦しみともつかない、切なげな、しかしオルティには正体の分からない感情が滲み出た。
「わたくしも時々自分が女であることを思い知らされます」
その感情の正体が分からなくて、オルティは少しだけ不安を覚えた。
オルティは常日頃シャフラの緊張を少しでも解してやれたらと思っている。ソウェイルを守るためにはソウェイルに仕えるシャフラをも守る必要があると思っているからだ。それは何も物理的な面だけではない。ソウェイルの手で直々に武官として選ばれた自分だけが、同じくソウェイルによって文官に取り立てられたシャフラに並び立てる。シャフラの仕事の苦労を分かち合えるのはともに働く道を選んだ自分だけなのだ。
シャフラの苦しみをひとつでもいいから取り除いてやりたい。
「何を言っているんだ、女だろう?」
「わたくしは最近自分が女であることは仕事に支障をきたすことだと考えるようになりました」
「働くために女であることを捨てる必要はない。アルヤ人どもが思うほど男にできて女にできない仕事は多くない」
「そういう意味ではございません」
白く華奢な手に、力がこもる。
「わたくしも。ただの、女として。とても、愚かなことを。考えます」
「愚かなこと?」
「ええ。とても、とても、人には言えない、愚かなことを夢想します」
ただの女とは、何だろう。ただの女なら国を夢見てはいけないのか。ただの女なら責任ある仕事をしてはいけないのか。
チュルカ人は女も戦う。馬に乗り、弓をつがえ、一族のために戦う。家庭に入っても狩りに出掛ける者は少なからずいる。
シャフラがアルヤ人女性であることに一番こだわっているのはシャフラ自身だと思う。
しかし都の姫君として養育され、女学校で花嫁教育を受け、宮殿に上がってからも周囲の心ない同僚たちに女として扱われ、シャフラが自分を女であると意識せざるを得ない環境に置かれ続けてきたのも分かる。
シャフラにとって女であることは罪なのかもしれない。
ただの女になることは自分自身を裏切る行為なのかもしれない。
シャフラの長い睫毛が月光で頬に影を落としている。
「わたくしは愚かな女でございます。そしてそんな自分の愚かさが嫌になります。このようなことでは働き続けられないと、強い人間ではいられないと。情けないと。なぜ感情のすべてを捨てられないのかと――たかが想いひとつに身を焦がしている場合ではないのに」
それを聞いた瞬間、オルティは彼女が何を言わんとしているのかようやく察した。
慰めてやることは簡単だった。
もっと言うのであれば――その不安や罪の意識を払拭してやる方法を、オルティは、ひとつだけ、知っている。
そんなことはないと否定してやればいい。もっと言えば受け入れてやればいい。抱き締めて、自分を責めることはない、と囁いてやればいい。
でも、実行に移せない。
そして実行に移さないことこそ、オルティにとっては誠実さだった。
払拭してやることの方が彼女の強さを否定する卑怯な行為だと思っていた。
抱き締めることは一時しのぎでしかない。本物の優しさではない。期待させておきながらいつかはやがて失望させてしまうことになる。
今は二人並んでソウェイルの下にいるが、オルティはこれを永遠に続くものだと思っていなかった。今だから――彼女がまだ脆く儚い姫君の面を持っているから彼女を守ってやるべきなのであり、自分の支援は彼女がいつか大きく羽ばたく日には必要なくなるものだと思っていた。
そう思っていたかった。
オルティはいつかシャフラから離れて草原に帰る。
そして、シャフラは一人、ソウェイルの下に残って働き続ける。
今中途半端に甘くしたら、いつか別れる日が来た時には、彼女は反動の大きさに困惑するかもしれない。オルティの展望にシャフラが振り回されてしまうかもしれない。
彼女は本格的に働けなくなってしまうかもしれない。
それこそ彼女からすべてを奪うことになりはしないか。
彼女は、今はまだ、脆く儚く美しい姫君だ。
糸杉のごときたおやかな姿を見つめる。
彼女の想いを受け入れることは、優しさでは、ない。
言うなれば若さであり、あるいは彼女の言うとおり、愚かさだ。
オルティも苦しい。
シャフラにこれ以上苦しんでほしくない。
けれど彼女を一番苦しめているのは自分かもしれない。
「月夜に乗じておかしなことを考えている場合ではございません。一時の情に永遠の覚悟を懸けるわけにはまいりません。わたくしは強くあらねば。強く賢くあらねば。――貴方様を、必要としなくなるほどに」
ソウェイルに言わせれば、一時の情でもいいのだろう。しかしそう言えるのはソウェイルが三人の妻を侍らせて生きてきた男だからだ。子供を持つことを義務として求められているソウェイルに、家庭を持たぬように努めているシャフラの本当の気持ちなど分かるまい。
オルティもシャフラ側の人間だ。アルヤ王国で所帯を持つことはない。いつか置いていかなければいけなくなるからだ。そんな無責任なことはできない。
伸ばし掛けた手を引っ込めた。
ここで抱き締めてはいけない。
シャフラはオルティの反応を待たなかった。顔を上げ、廊下の奥、外の方を見た。
彼女はこれから護衛の兵士とフォルザーニー家の自宅に戻る。兵士たちが宮殿の外で待っている。これ以上待たせるのは哀れだと、真面目な彼女は思っているはずだ。
通じない。通じ合わない。通じ合えない。
それが誠実であるということだ。
彼女の想いがいつか昇華され消えゆくことを祈ることしか、今のオルティにはできなかった。
今のこの友情が永遠に続きますようにと願わざるを得なかった。
これ以上距離が縮まらないように。何にも起こらないように。
すべてがこのまま止まってしまえばいい。
幸せそうなリリの無邪気な笑顔を思う。
シャフラの目を覆ってしまえたらどんなに楽だろう。
宮殿の外に出た。今夜も噴水が噴き上がって月光に照らされきらきらと輝いていた。
世界はこんなに美しいのに、今はどこか切なくて苦しい。
「お見送りありがとうございました」
シャフラが振り返って微笑んだ。
オルティも笑みを作ってみせた。
「早く帰って寝ろよ。風邪、ひかないようにな」
「そちらこそ」
兵士たちに連れられ、門の外に出ていく。
「御機嫌よう。また明日」
「ああ。また、明日」
今日のような毎日が、永遠に続きますように。
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