第18話 18歳になった日の、最初の夜

 外は灼熱の夏だが、砂漠に住まう人々は最初から暑いと分かっているので日中には活動しない。早朝働き、昼前に仕事を終わらせ、自宅で昼食を食べ、午睡を取る。日が落ちて涼しくなってきてから活動を再開し、家族や友人と談笑し、月が傾くまで遊ぶ。

 そういう生活にリリはすぐ順応した。実際に暑いからだ。昼間外をうろついたら焼け焦げてしまう。夜の睡眠を少し短めにして昼間に補うのは合理的のように思われた。


 夜の砂漠は気温が下がる。しかし実家では寒い日の方が多かったリリは王都の夏の夜を特別寒いとは思わない。

 毎晩、薄手の上着を一枚羽織り、軽い気持ちで後宮ハレムの外に出る。他の女なら自由に出入りなどできないだろうが、リリは格の高い正室だ。リリに物申すことができるのはこの世で唯一王だけで、その王がいいと言っている以上は誰にも止められなかった。


 ソウェイルと二人でのんびり夜の宮殿を歩く。

 広大な蒼宮殿は端から端まで歩くだけで相当な運動量になる。ソウェイルとリリは夕食の後の半刻ほど宮殿の中で散歩するのを日課にした。


「明日」


 第五の月モルダードに入って幾ばくか経ったある夜、宮殿の南にある露台バルコニーにて満ちてきてだいぶ丸くなった月を二人で眺めていた時のことだ。

 リリの方を振り向きつつ、ソウェイルが言った。


「お前の誕生日だな」


 彼は複雑そうな表情だった。緊張しているのかどこか硬くもあったが、それでもほんのり笑みを浮かべているようにも見えた。


 普段は何があってもつんと澄ましていられるリリだったが、誕生日の話をされるときだけは緊張した。頬が熱くなり手が汗をかく。


「特別誕生祭は催してやれないけど。この辺もカーチャが嫌がったせいで、前例がなくて。妻たちを全員平等に扱ってやろうと思ったら全部やるより全部やらない方がいいことになってしまう。ごめんな」


 リリは首を横に振って「よい、気を遣うでない」と答えた。彼を安心させてやるために笑みを作ろうとしたが、うまくいっただろうか。


 昼間のことはどうでもいい。一番の行事は昼ではない。


「――夜は」


 それを言われるだけで、口から心臓が飛び出そうになる。


「二人で、たくさん、お祝いをしよう」


 強調された、二人で、に舞い上がって、この場で床に転げ回りたくなってくる。


「俺が。リリが、この世に生まれて、今の今まで生きてきたことを。祝いたいから」

「……さようか」


 二人並んで、露台バルコニーの手すり壁に肘をついて月を眺める。


 不意に大きな手がリリの肩に触れた。いつの間にかソウェイルが肩に腕を回していたらしい。

 ほんの少し、彼の方に引き寄せられた。

 彼の体からほんのり肉桂シナモンの香りがする。


「怖い?」


 彼の頬に頭を寄せつつ、「何ゆえ」と問い掛ける。


「わらわが恐れているように思うのか」

「なんだか今少し緊張してるみたいだから」

「そなたが改まって言うからであろう。そなたの緊張が感染したのだ」

「そっか」


 そして、苦笑する。


「そうだな。俺が一番緊張してるのかもしれない」


 抱き締める手に、力がこもる。


「リリに嫌われたくない」


 予想外のことを言われて、リリは少し笑った。


「何ゆえわらわがそなたのことを嫌う?」

「だって、怖くて痛くて嫌なことかもしれないだろう?」

「なんと、そなたさようなことをわらわにする気なのか」

「いや、そうじゃないけど。できる限りのことはするけど」


 ソウェイルの頬に頭のてっぺんをつけ、ぐりぐりと回すように押す。


「よいではないか、よいではないか。これでまことの夫婦になるのだ」

「そう、これでリリがずっと欲しがっていた念願の男の子ができるかもしれない――次の王が生まれるかもしれない。そう思ったら、前向きな気持ちになる?」

「もちろんそれもあるが、の。わらわはそれ以上にその瞬間がとても楽しみなのだ」


 恥ずかしくてほんの少しだけ声が震えるが、そんな恥ずかしさなど恐るるに足らない。


「そなたともっと近しい関係になる。いよいよ素肌に触れ合うのだ。きっと楽しかろうな」


 月の影が遮られた。ソウェイルの蒼い瞳が目の前に来た。

 唇と唇が触れ合う。

 わずかな間の接触で、これ以上深まることはない。

 だがリリは頭がぼうっとするのを感じた。

 明日この続きをするのだ。


「わらわは今、そなたの永遠が欲しい」


 ソウェイルを独占する気はなかった。

 万が一自分が男の子を産めなかった場合、ソウェイルは王として他の妻を迎えて男の子を作る必要がある。その時にリリが駄々をこねることはないだろう。それが王族の務めであると思えば、次に来る女を同志として可愛がりこそすれ、邪険にすることはない。大事なのは後宮ハレムでいかに味方を増やすかであり、積極的に自分が次の妻を斡旋するべきだし、本当はエカチェリーナとでさえ対立しない方がいいのだ。


 それでも、確認しておきたいことがある。


「そなたの永遠をわらわに捧げよ。それに応えるためならば、わらわは何でもしよう。そなたの子を産んでこの国に捧げ奉ってやろう」


 たとえ何が起ころうとも、心は最後リリのもとに戻ってくる。


 頷かなくてもいい。約束はいらない。返事などなくても、リリがそう思っているということをソウェイルが知っていてくれれば満足だ。

 むしろ頷かない方がいい。王は公的な存在で、誰か一人の女のものであってはならない。だからソウェイルはこの言葉を拒絶すべきだ。

 リリはそう思っているのに――


「分かった」


 ソウェイルは、柔らかく、微笑んだ。


「絶対にお前を次の王の母親にしてやるから、絶対に、死ぬまで俺の傍にいてくれ」


 何よりも。

 何よりも欲しかった言葉が。

 愛も夢も両方とも包み込んだ言葉が。

 心の奥底に染み入ってきて。


 今の自分は、無敵だ。











 次の日の夜、リリは女官たちに隅々まで洗われた。蒸し風呂で毛穴を開き、水風呂で引き締め、また蒸し風呂で温めた。毛の一本も残さず処理して、象牙色の肌は輝くほど滑らかになった。

 洗い髪をくしけずる。結わずに下ろした黒髪はまっすぐで長く、リリの華奢な肩の上をさらさらと流れ、切り揃えられた毛先が尻の下で揺れた。

 最後に、すぐ脱がせるよう緩くまとめられた絹の肌着をまとった。


 主寝室に戻る。

 リリのために戸を開けた女官たちが、リリが入った後、背後で静かに閉めた。


 リリはぎょっとした。


 部屋の中ではソウェイルがすでに待っていた。


 彼はなぜか熱心に花をちぎっていた。白い薔薇の花だ。

 むしり取った花弁を、寝台の上に撒く。


「……何をしておる」

「演出」


 妖しい香のかおりが立ちのぼる。更紗の窓掛けの向こう側に丸い月が見える。暗い部屋の中を数々の金の油灯ランプが照らしている。

 使い慣れていたはずの見慣れた空間がまるで魔法にかかったようだ。外は静かで彼の声の他に何の音も聞こえてこない。


 頭の中まで痺れる。


「初めての夜はできるだけ神秘的で浪漫的な方がいいと思って。特に女の子にとっては」

「阿呆が」


 苦笑しつつ、リリは寝台に歩み寄った。

 思い切って寝台に身を投げる。

 白い薔薇の花弁に囲まれ、花の香りに埋もれて目を伏せる。

 目も、耳も、鼻も、すべてがこの空間の魔法に支配されている。


「この薔薇の花より白く無垢なわらわの花が今宵散るのだな。感慨深いぞ」

「せっかく俺がこうやって部屋を整えたのにお前はそういうことを言う」

「はしたない?」

「いや」


 彼が、片膝を寝台の上についた。ぎし、と寝台が鳴った。


「すき」


 覆いかぶさってくる。彼の肩越しに油灯ランプの小さな炎が揺れるのが見えた。


 彼の手が、頬に触れた。芳醇な薔薇の香りがする。


 頬を抱え込まれて、顔を持ち上げさせられる。


 唇と唇が触れる。

 最初の一回は、軽く、優しく、浅いものだった。

 二回目は、今までに経験したことのない、深い口づけだった。舌先で上唇を、そして前歯を、それから舌先をなぞられて、リリは呼吸を止めた。


 また、口と口とを離した。


「赤ちゃん、できるといいな」


 ソウェイルがそう言うので、リリは笑った。


「できるまで何度でも抱くのだぞ」













 この一年後、リリは元気な男の子を出産する。ソウェイルはその子にジャハンギルと名付け、手元で熱心に養育することになる。





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