第17話 あなたに贈る名前
フサインは優雅な足取りで部屋の中に入ってきた。
彼のいでたちや振る舞いを見ていると、若い頃はさぞや伊達男でならしたであろうことが想像される。否、もしかしたら中年になった今でもより取り見取りで暮らしているのかもしれない。赴任地であるアルヤ王国で醜聞が流れ出ると体裁が悪いので尻尾をつかまれないよううまくやっているのだろう。
彼は二人のすぐ傍までやって来ると、まず祭壇の方を向き、帽子を脱いだ。
神剣に向かって一礼する。
帝国の人間が、それもアルヤ王国においては最高位の文官となった男が神剣に敬意を払っている。
フサインは父親がアルヤ系だという。
アルヤ系サータム人はさほど珍しいものではない。アルヤ人はしばしばアルヤ王国の官僚として培った政治手腕を買われてサータム帝国の宮廷で地位を得る。
サータム帝国では、信仰を捨てさえすれば誰にでも出世の道が開かれている。改宗してサータム人になればどんな仕事にもつけると言うのだ。
「実に美しい。何度拝見しても見飽きませんね」
ソウェイルが刀剣掛けに桜の神剣を戻した。そしてどことなく硬い面持ちでフサインと向き合った。ソウェイルの表情が冷たい。彼が今何を思い何を感じてそんな顔をしているのか、麗梅には見えなくなってしまった。
ふと、結婚式に相当するあの式典のことを思い出した。
初めて彼と会った時も、彼はこんな顔をしていた気がする。
感情が、消える。
「申し訳ございませんでした、王よ」
フサインが言う。唐突な謝罪だったので何について言っているのかは分からない。しかもフサイン自身の表情も穏やかな笑みのまま変化しないので本当に謝る気があるのかも分からない。少なくとも麗梅には彼の謝罪は口先だけに見えた。
「例の件が進まないから王はこのような振る舞いをなさるのでしょう」
ソウェイルは何も言わない。
いぶかしんだ麗梅は、出しゃばりすぎないようにと自制する心と何の話か知りたいという好奇心の狭間でしばし揺れ動いたあと、控えめな声で「例の件とは?」と問い掛けた。
フサインが右手を持ち上げた。人差し指を一本立て、自分の唇に当てた。
内緒、と言いたいらしい。
その仕草は麗梅をからかっているようで内心腹が立ったが、極力顔に出さぬよう努めた。女が政治に出しゃばっていると思われてはならない。後でこっそりソウェイルを締め上げて聞き出せばいいのだ。
「イブラヒム閣下がたいへん心配なさっておいでです。王は閣下が目を離した隙に悪さをした、と」
イブラヒムとは、先日サータム帝国の大宰相に着任した男だ。自らが支持する皇子を新帝にした敏腕政治家である。つい数ヶ月前まではアルヤ王国で執政として過ごしていたらしい。
フサインは猫のように目を細めた。楽しそうだった。
「いけない子だ。いたずらっ子はお仕置きをせねばなりませんね」
背筋に悪寒が走る。
隣を見上げる。
ソウェイルはひどく冷たい目で、無言でフサインを見つめている。冷静そうな様子だ。彼はフサインが何を話したくてこんな回りくどいことを言っているのか理解しているのだろうか。
「待っていれば私たちがすべてお膳立てしましたのに」
ようやくソウェイルが口を開いた。
「申し訳ないが、待てなかった。執政から俺がどんな男か聞いていないのだろうか」
「聞いておりますとも、知れば知るほど謎めいてくる神秘の魔術師だとね。何を考えているか分からないともおっしゃっていましたよ」
ずいぶん素直な男だ。しかし実際にイブラヒムがそう言っていたのであろうことも窺える。麗梅も初夜の事件がなければソウェイルをそういう男だと思っていたかもしれない。それくらい、今のソウェイルからは思考が見えない。人間味が消えた。まるで偶像崇拝の対象として尊ばれる人形だ。
「ですが結構。腹の内を探られないようにするのも政治をやる人間に必要なもののひとつです。我々アルヤ人が何百年とかけて築き上げてきたもののひとつですよ」
おこがましい男だ。太陽への信仰を捨てた男をアルヤ人として認めるか否かは議論の余地がありそうである。
しかし逆に言って、アルヤ人とはいったい何なのだろう。太陽を信仰していればアルヤ人だろうか。そうなれば形だけとはいえ改宗した麗梅もアルヤ人だ。ソウェイルを神だとは微塵も思っていないが、世界を手に入れるためなら信仰する対象を鞍替えするくらい何のことはない。
「結構、結構」
麗梅の方を見る。そしてにたりと唇の端を吊り上げる。
「今度は可愛らしいお妃様ですね。年はおいくつかな」
「十七、次の夏で十八でございまする」
「王の二つ下ということかな? お似合いのご夫婦でいらっしゃる」
その言葉からはすぐにぴんと来た。自分は今エカチェリーナと比較されているのだ。
そういえば、ソウェイルとエカチェリーナが結婚したのもサータム帝国の采配だったはずだ。詳しいことはまだ勉強できていないが、サータム帝国とノーヴァヤ・ロジーナ帝国の関係を考えれば何となく想像はつく。
思考がそこまで辿り着いてから、麗梅は天啓のようにフサインとソウェイルが何の話をしたいのかを悟って唇を引き結んだ。
フサインは――サータム帝国は、麗梅ではない、別の王妃を宛がおうとしていたのではないか。
つまり、麗梅が来たことを面白く思っていない。
少し間を置いてから、ソウェイルが口を開いた。
「……手配したのはシャフラだ」
それを聞いた途端、フサインは上品な彼に似つかわしくなく大きな声を上げて笑った。
「よろしい、私たちの可愛いアルヤ王。そうこなくては私も楽しくないよ」
そこまで言うと、彼は「では、御機嫌よう」と言って左手の帽子をふたたび頭にかぶった。弾んでいるようにも見える軽い足取りで部屋から出ていく。
フサインの姿が見えなくなった直後だ。
ソウェイルがその場にしゃがみ込んだ。
麗梅も慌てて床に膝をついた。
「いかがした? どこぞ具合でも悪いのか?」
「――れた……」
「え?」
「疲れた……」
深い、深い、息を吐いた。
「俺、今まで来た人の中で一番あの人が苦手だ……。ウマルおじさんもイブラヒム執政もあんなじゃなかった……」
「何ぞあったのか?」
「何にも。ただ距離感がものすごい近い」
麗梅は眉をひそめた。
「成人男性に対して可愛がってやろうという謎の押し付けが……俺はむり……」
「さようか」
「めちゃくちゃ踏み込んでくるんだ。知り合ってまだ一ヶ月なのに。リーメイより少し早く来たくらいなのに、すごい馴れ馴れしい……」
言われてみればそんな気もする。だがそんなに問題視することだろうか。
「仲ようできるのならばそれでいいのでは?」
「俺、初対面の年上の男が無理なんだよな」
「何ゆえ」
「強そうだから」
思わずソウェイルの後頭部をはたいてしまった。
ソウェイルが顔を上げる。眉間にしわを寄せながらも、眉尻は垂れている。まるで叱られた子犬のようだ。
彼に感情が戻ってきたのはいいことだが、情けない。
「すみません……ちゃんとします」
「そうだ、しゃんとせよ」
手を顔の前で振りつつ、「呆れた」と溜息をつく。
「そなた自分に自信がないのだな。王ならば意味もなく理由もなく根拠もなく堂々とせよ。はったりでよい。常に今フサインと話していた時のように平気な顔をせよ」
「それは――」
「そも、わらわはそなたが生来弱いものだとは思っておらぬぞ」
ソウェイルが目を丸くした。
「そなたはもとよりできるはずなのだから、そういう己を掘り返してみよ」
何か驚いているようだ。何に驚いているのだろう。麗梅は自明で当然のことしか言っていないつもりだ。
「なんで? 何が? 何を見てそんなこと――」
「わらわとちゃんと会話ができるではないか」
一瞬、彼の顔が泣きそうに歪んだ気がした。
その幼い表情が情けなく、だが愛しくもあり、麗梅は大きな声で笑いながらソウェイルの背中を叩いた。
「案ずるでない。そなたはこれからさらに強く立派になるであろう。わらわがそういう王に育ててやる」
突然だった。
ソウェイルが腕を伸ばしてきた。
あまりにも急なことに驚いて麗梅は体を強張らせた。
強い力で抱きすくめられる。
華奢なソウェイルの腕からでは考えられない強さだった。やはり彼も男性だったのだということを思い知らされた。
不思議と落ち着く。一瞬びっくりしてしまったが、いざ彼の腕の中に納まると恐ろしいとは思わなかった。
何か香辛料のいい匂いがする。アルヤ料理の香りだ。おいしそう、と思った。
二人で床に座り込んだままくっついて、少しの間沈黙で過ごした。
「……リリ」
どれくらい経った頃であろうか、ソウェイルが不意にぽつりとそう呟いた。
「何ぞ」
「リリ。リリちゃん」
「人の名前か?」
「そう。今俺がお前につけた」
一瞬何を言っているのか分からなかった。麗梅は眉間にしわを寄せた。
「真面目に言うておるのか?」
「うん」
耳元で囁くように言う。
「前に、エカチェリーナのことをカーチャと呼んだら、女に愛称をつけるのが好きなのか、と訊かれたから。お前も愛称が欲しいのかな、と思って」
麗梅はすっかり忘れていた。
「そういえば、大華帝国では、高貴な女性の本名は呼ばないんだったな、と思って。お前も本名を大勢の人に知られるのは嫌かな、と思って。じゃあ、俺がつけたアルヤ名で呼ばれればいい、と思って」
視界が開けたのを感じた。
彼は、大華帝国で生まれ育った麗梅に、大華帝国を忘れさせまいとしているのだ。
彼が手探りで模索していたのはそういうことだったのだ。
馬鹿な男だ。
麗梅は故郷が恋しくなどない。むしろ古い因習にとらわれた実家を捨ててきたつもりだ。
それでもそのいじらしい厚意をむげにすることもできない。
「リリは、花の名前。梅じゃないけど、梅とおんなじように白や赤の花を咲かせるし、リーメイのリと同じ音」
ソウェイルの背中に手を回した。撫でるように優しく、幼子をあやすのと同じ感覚で叩いた。
「よろしい。では、わらわは今日からリリと名乗ろう」
腕に込められる力がさらに強くなった。麗梅は――リリは思わず「痛い」と言ってしまった。
「いい加減離してたもれ。そのようにせずともわらわはどこにも行かぬぞ」
「次の
「今度は何ぞ」
「
その途端、顔から火が出そうになった。
「リリに男の子を産んでほしい」
自分では何百回も繰り返してきた、この国に来ることを決めた時からの目標で、何にも恥ずかしいことではない、政治的野心のための行為だったのに、今はなぜか妙に気恥ずかしくて――
「……承知した」
それだけを言うので、リリはせいいっぱいだった。
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