第15話 母性は天賦の才か
アナーヒタをソウェイルの私室に連れ帰ってから、ソウェイルは取り急ぎとある女性を呼び出した。
飴色の髪と瞳のアルヤ人女性だった。年はユングヴィと同じか少し上、三十代前半だろうか。豊満な胸に凹凸のしっかりした顔立ちはいかにもアルヤ人で、おっとりとした上品な物腰からは高貴な身分の夫人であることが窺える。名はシーリーンというらしい。
裕福な家庭の貴婦人であるにもかかわらず、彼女は手際よくアナーヒタの服を脱がせて汚れた体を拭った。
服を脱ぐと、アナーヒタは全身痣だらけで、先ほど鞭打たれていた背中には血が滲んでいた。こんな幼子に、と思うと
すぐにおしめをつけ、
その間アナーヒタは一言も発しなかった。
「おかしいですね、これくらいの子は普通言葉を覚えたところで話すのが面白くなってくる頃なんですが」
全身に薬を塗り終えてから、頭からかぶる形状の服を着せた。そして、一度シーリーンの膝の上に座らせた。
あやすように軽く揺さぶる。
それでも、アナーヒタは声を出すことも表情を変えることもしなかった。
大きな蒼い瞳はどこか一点を見ているようでもあったが、その視線の先にあえて移動して視界に入ろうとしても目が合うことはない。
何のやり取りもできない。
正直なところ、麗梅も自分に子育てができるとは思っていない。むしろ小さい子供は苦手だ。癇癪を起こして暴れ出したら手に負えないと思っている。早めに乳母をつけて自分はおいしいところだけ可愛がって育てればいい、ぐらいの考えでいた。
しかしこうも泣かないのは気楽さを通り越して不気味だ。子供がどういう段階を経て発達していくのかは知らないが、確かに二歳から三歳にかけてぐらいだと拙い言葉で喋る印象がある。それが声も出さないとは、と思うと、それこそどうしたらいいのか分からない。
「アルヤ語が分からないんだろうか」
ずっと無言で様子を見ていたソウェイルが、シーリーンにそう問い掛けた。
「カーチャがアルヤ語を教えていないのかも」
シーリーンが「そうであっても何か喋り出しそうなものですけれど」と首を傾げる。
「話し掛けなかったんじゃないでしょうか」
「あれだけロジーナ人の取り巻きがいて、誰も?」
「さあ、そこまでは、ご本人たちに確認しなければ分かりませんが。シーリーンは今日久しぶりにお召しがあって、ここ数年の宮殿のご事情が分かりませんので」
シーリーンの真向かい、アナーヒタの正面に膝をついて座る。
アナーヒタは斜め下を見ている。やはり、目は合わない。
両手を伸ばした。
右手で左頬を、左手で右頬を包んで、指先で揉むようにして両方の頬を撫でてみた。
アナーヒタは貧民の子かと思うほど痩せていた。頬が何となく硬い。
こうしてみてもアナーヒタが反応することはない。
麗梅は一人ぽつりと「どうしたものかの」と呟いた。
「そうだな、急に悪かった。ユングヴィがヒマそうだったらユングヴィを呼び出したんだけど、あそこはまだ赤ん坊がいるし少ない人数で大勢の子供を育てているから、家の外に呼び出すのは気が引けてしまった」
「いいんですよ、いいんですよ。むしろ、シーリーンのことを思い出してくださってとても嬉しく思います。陛下とは、主人のお葬式以来でしたから。お忙しくてお忘れになったかと思いましたよ」
シーリーンは相変わらずの穏やかな笑顔だったが、麗梅は苦いものを感じた。どうやら未亡人だったらしい。
「忘れるわけがない、俺にとってシーリーンは特別なんだ。ただ……、俺のかっこ悪いところを見られたくなくて」
「あらあら、もう、何をいまさら。私たちはかっこいい陛下が見たくて陛下をお育てしたわけではないというのに」
アナーヒタの肩まである金髪を指で掻き上げ、小さな耳に掛けさせた。
「どう致しますか、陛下」
相変わらず、アナーヒタはされるがまま、何の反応もしない。
「なんなら、姫様をうちでお預かりしましょうか? 少し宮殿を離れて、我が家でお世話致しましょうか」
麗梅は悩んだ。シーリーンは子守に慣れているようだし、こういう時に呼び出すということはソウェイルもよほど信を置いているものと見た。具体的には分からないが、きっと亡くなった夫が位の高い家臣であったのだろう。そう思うと、勝手知ったる相手に託すというのは悪くないことのように思う。
大事なのは麗梅が自分の手で育てたかではない。麗梅によって都合のいいように育つかだ。後宮では一人でも多くの味方をつけた者が勝利する。アナーヒタが自分に懐いてくれればよい。
ソウェイルも悩んだようだった。彼も即答しなかった。
ややして、彼は呟くようにこう言った。
「俺が育てたいな」
ソウェイルもまた麗梅の隣にしゃがみ込んだ。
ゆっくり、アナーヒタに向かって手を伸ばした。
その指先が、震えている。
「俺の子なのに。俺、まだ何にもしてあげられてない」
シーリーンが「大丈夫ですよ」と苦笑する。
「まだ二歳でしょう。大きくなったら今日のことは忘れます。いつの日か迎えに来てくださればいいとシーリーンは思います」
「でも――」
アナーヒタの小さな頭をこわごわと撫でつつ、聞き取れるかどうかの小さな声で、
「サヴァシュは自分で育ててるし――テイムルだって、子供は自分の家に置いていた」
シーリーンが黙った。ほんの一瞬、彼女の表情から笑みが絶えた。
麗梅は察した。テイムル、というのはおそらくシーリーンの死んだ夫だ。ソウェイルにとって特別な家臣だったのだ。
「そうですねえ」
また、穏やかな笑みを浮かべる。
「陛下がどうしてもお手元でとおっしゃるなら。シーリーンの方が、姫様のお世話のために上がりましょうか」
「でも、シーリーンの子供もまだ小さいし……」
「あら陛下、なんだか陛下はシーリーンを遠ざけておきたいようですね。シーリーンは寂しいです」
ソウェイルがアナーヒタから手を離してうつむく。
「そういうわけじゃ……ないんだけど……」
その態度がどうも暗くて湿っぽいので、麗梅はだんだん苛立ってきた。この男にはどうもこういう煮え切らないところがある。
思い切りソウェイルの背中を叩いた。
「いったぁ……」
「もっと大きな声を出せ! しゃんとせよ、皆そなたにかかっておるのだぞ?」
「そうは言うけどな――」
「何ぞためらうことがある? お言葉に甘えさせていただけ、これほどまでによくしていただいているのに何が引っ掛かっておるのか。いずれにせよすぐ乳母を探さねばならぬのだ、どうせならばできる限り信の置ける者の方が良かろう」
するとシーリーンが明るい声で笑った。
「まあ、元気なお妃様ですこと。私どもも安心でございます」
そう言われるのは子供扱いされている感じを受けるのであまりいい気分ではないが、だんだん彼女こそ本物のソウェイルの乳母であったのではないかという気がしてきたので、麗梅は言わなかった。王の母とは対立してはならない。
「今はっきり決めよ。すべてそなたの一言で済むのだぞ」
「決定権俺になくない? なんだかだんだんリーメイが決めたことを俺が言うみたいになってきた」
「そなた余計な一言が多いようだな。わらわの機嫌を損ねても良いことはないぞ」
大きく息を吐いてから、ソウェイルは頷いた。
「シーリーン」
「はい」
「申し訳ないが、しばらくこの子の世話のために宮殿に通ってくれないか? どうしても俺がテイムルの子供たちのことが気になるから、日中だけ。日が落ちたら帰って、夜は自分の子供の世話を焼いてほしい。夜の子守はまた別の人間を探す」
シーリーンが「はい、承知しましたよ」と答えた。
「すべて太陽の思し召しのままに」
麗梅もほっと息を吐いた。
「シーリーンですよ、姫様。私はシーリーンです。これからどうぞよろしくお願いしますね」
アナーヒタの耳元でそう囁く姿は母性のかたまりのように見える。天性の母親であり、子供を育てるために存在しているかのようだ。
世の中の人間には向き不向きというものがある。
麗梅は自分が子供の世話に向いている気はしない。実際に産んでみたらまた感覚が変わるかもしれないが、今の自分は幼子に対して可愛く思うという程度の感情を抱くことはなく、激しく自己主張をされたら投げ出してしまうだろう。
一言で母親といっても、母親にもいろんな種類がある。
エカチェリーナは本当に一切アナーヒタに話し掛けずに育てようとしたのだろうか。
ふと、自分の母親を思い出した。
麗梅の母親はおとなしい人だった。若い頃得た皇帝の寵愛だけを信じて生きてきた、弱い女だった。年を取り、皇帝の
仲が悪かったわけではない。
しかし、麗梅は自分が母親に理解されていないのを常々感じていた。
母親が説く普通の女の子の幸せというものがまったく分からなかった。向こうも麗梅の世界進出という大いなる夢をやんわりと否定した。永遠に分かり合えない。
今もまだもしかしたら皇帝がまた訪れるかもしれないと言いながら暮らしているのだろうか。
哀れだ。
そんな思考をどうにか追い払った。唇の端を吊り上げ、笑みを作ってシーリーンに話し掛けた。
「わらわのこともよろしく頼む。わらわもシーリーンに甘やかされたいぞ」
するとシーリーンはまたころころと笑って、「こちらこそお願い致します」と応えるのだ。
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