第14話 その部屋はまるで吹雪いているかのような

「あのな、一個お願いがあるんだけど……、宮殿では好きに過ごしてくれてぜんぜん構わないんだけど、カーチャと喧嘩することだけはよしてほしい。ほんとに……他はぜんぜん構わないんだけど……」


 いざ実際に後宮ハレムの第一王妃の区画に辿り着いてから、ソウェイルは怖気づいたらしい。麗梅リーメイは眉を釣り上げて「喧嘩などしておらぬわ」と応じた。


「わらわは子供ではないぞ。気に入らぬ人間だからとて因縁をつける真似はせぬ」

「ほ、ほんとかなぁ……ずいぶん意気揚々みたいに見えるけど……」

「繰り返し言うておくが、わらわは戦をしにゆくのではない。子を引き取りに行くだけぞ。何ぞ争うことがあろうか、産んでくれたことに感謝しこそすれ」


 歩きながらソウェイルの顔を見上げる。華奢で薄い体躯をしているので威圧感はないが、こうして見てみると頭ひとつ分以上背が高い。立った状態で目を合わせて話すのにはなかなか骨が折れる。一瞬、縮めばよい、と言おうとしたのを呑み込む。王は体も器もできる限り大きく見えた方がいい。


「やっぱり正妃が何人もいるのっておかしいか? カーチャと同等の扱いというのは気に入らない?」

「おかしゅうない。妃に格付けがないのには多少驚いたが、そなたに息子がないからであろう。すべてはわらわの産んだ子が立太子すればよいだけの話」

「立太子!? 俺たぶんもうちょっと生きるからまだだいじょうぶだと思う!」


 彼から目を逸らして、真正面を向く。床を踏み締め堂々と歩く様は確かに意気揚々に見えるかもしれない。麗梅からしたら念願の姫君を入手しに行くので仕方がない。そうは言っても子を手放したくないと駄々をこねるようなら強引に奪う気でいるのだ。


「案ずるな、わらわは夫を独占しようなどという愚かな女ではない。たくさんめとって確実に子を残すのは王の義務である。王の血脈が絶えれば天下が荒れる」

「そっか……」

「それにわらわは世界一可愛いので放っておいてもそなたの寵愛を得るであろうからな。自ら他の女と対立する必要はない、ただ待つあるのみ」

「そ、そっかぁ……」


 一歩を踏み締めつつ、「向こうから対立しようと言うのならば迎え撃つ覚悟はある」と言うと、ソウェイルが「やっぱり……」と呟いた。


「カーチャはな、繊細な人なんだ。繊細って何だか分かるか?」

「分かるわ、馬鹿にしておるのか?」


 長い廊下を行く。

 壁に西洋画が掛けられている。いわゆる油絵というものだ。荒れ狂う海に雪のちらつく曇天はエカチェリーナの故郷の風景だろうか。


「それにしてもそなたやけにあのロジーナ女の肩をもつ。そんなにあの女が好きか」


 何の気なしに言ったつもりだったが、ソウェイルは悩んだ様子だった。次の言葉はすぐには返ってこなかった。

 ややしてから、小さな声でぼそぼそと「こういうことはあんまり女の子に言うことじゃないと思うけど」と付け足すように言う。


「俺にとっては初めての女性だから……。肩入れ、というか、思い入れ、というか……、捨て置けないだろ……」


 麗梅はあえて一歩下がった。そして思い切りソウェイルの背中を叩いた。ソウェイルが「うわっ」とのけぞった。


「さように自信のなさそうな喋り方をするでない! もっと堂々とせよ!」

「でも――」

「おなごの一人や二人抱いた経験を持たぬで何とする! そなたは一国の王ぞ! 千人の美姫を侍らすつもりで生きよ!」


 ふたたび前に歩き出し、胸を張って「そしてわらわはその千人を束ねる女となるのだ」と宣言する。ソウェイルが「はいはい」と応じる。その声に少し笑った様子を感じ取って麗梅は鼻から息を吐いた。


 その、次の時だ。


 急にソウェイルが立ち止まった。先ほどよりほんの少しだけ――本当にわずかだけ、表情の変化に乏しい彼らしく非常に分かりにくい変化だが、何となく雰囲気が――真面目に、もっと言えば険しくなった。


「いかがした」


 口の前に人差し指を立て、「しっ」と短い声を出す。


「話し声が聞こえる」


 麗梅も口を閉ざした。そして耳を澄ませた。


 確かに女の声がする。誰か二人の女が話をしているようだ。どちらも楽しそうではない。


 無言で歩みを前に進め、廊下の向こう側、声のする方を目指した。


 明るい広間の方に近づく。いつかエカチェリーナと対面したあの広間だ。いかにもロジーナ風の嫌味な間である。


 話をする声がより大きく聞こえる。

 異国語――おそらくロジーナ語であろう。エカチェリーナが侍女と話をしているのだ。


 ソウェイルが立ち止まった。


「やっぱり引き返そう」


 麗梅はその手首を思い切りつかんで引っ張った。


「何ぞ恐れることがあるか。堂々とせよと言うておる」

「でもここでカーチャと出くわすのはまずい。この先はあの広間を通らないと次の部屋に進めないから、彼女の目の前を通過することになる。戻って他の小部屋から見ていく」

「子の母に居場所を聞けばよい。探す手間が省ける。まさか二歳の我が子がどこで何をしているか知らぬということはあるまい」

「リーメイ!」


 彼がその場で足を踏ん張ったので麗梅も立ち止まらざるを得なかった。細身とはいえ相手は自分より年上の男性だ、ここまで力を込められては負けてしまう。


 どうしようか考えていたところ、また別の音が聞こえてきた。

 たとえるなら、ひゅ、であろうか。何かが空気を裂く音だった。

 次に、ぱん、という音が響いた。何かを打った音だ。

 誰かが何かを鞭打っている音に聞こえた。


 その音を聞いた途端、今度は麗梅を押し退けるようにしてソウェイルの方が先に前へ進んだ。


 広間の出入り口に差し掛かった時、彼の足が止まった。


 彼の肩から覗くようにして広間の中を見た。


 麗梅は思わず目を丸く見開いた。


 先日エカチェリーナが茶を飲んでいた卓の傍に、一人の幼子がしゃがみ込んでいた。

 その幼子の背中に、年かさの金髪の女が乗馬用と思われる鞭を振り下ろしていた。

 また、ぱん、という鞭打つ音が響いた。


 窓際にはエカチェリーナと他二人お付きの金髪女たちが立ってその様子を眺めている。三人とも憐れんでいるわけでも楽しんでいるわけでもなさそうだ。ただ淡々となすべきことがなされるのを見つめているだけのように見えた。


 まだ三つにもならぬ金髪の幼女が、何度も何度も、背中を打たれている。


 しかし幼女は声ひとつ上げなかった。痛みを感じていないのだろうか。自分の置かれている状況の異常さに気づいていないのだろうか。

 泣きもしなければ笑いもしない。凍りついたような、生きているのかどうかも怪しい冷たい表情をしている。


 顔のつくりも表情も、母親に瓜二つだった。

 ただ、母親は冷たい氷色の瞳をしているが、幼女の方は太陽と同じ蒼い瞳をしている。


 この状況で金髪の女たちと会話が成立するとは思えなかった。

 麗梅はとっさにソウェイルの方を怒鳴った。


「そなた何をしておる!」


 ソウェイルの肩が震えた。


「早う止めよ! 自分の娘が鞭打たれておるのだぞ!」


 麗梅がそう言い終わるや否や彼は飛び出した。

 麗梅も彼の後を追い掛けた。場のあまりの異様さに警戒して彼の背に隠れるようにして近づいた。


 駆け寄ってから気がついた。


 幼子の足元や衣装の下半身が濡れている。どうやら粗相をしたらしい。

 失禁したかどで責められている。

 麗梅は驚いた。前情報が確かなら、この幼女――アナーヒタは二歳と数ヶ月のはずだ。三歳にもならない子供が下の制御をできなかったことでこんな罰を受けるとは、さすがに恐ろしい。口頭で叱ることぐらいはあっても、鞭で繰り返し打つというのは考えられなかった。


 ソウェイルが腕を伸ばした。

 アナーヒタを抱え込んだ。

 打つ対象が移動したことで的を外れた鞭がソウェイルの手を打った。

 狙ったわけではないのだろう。さすがに王を鞭打ったとなればばつが悪いらしい、女は一歩下がって首を垂れた。


 ソウェイルがアナーヒタを抱き上げる。

 彼は娘の尻の下に左腕を、背中に右手を当てた。衣装の左腕部分が濡れたが意に介していないようだ。それを見て、麗梅は、偉い、と思ってしまった。他人の子の尿に触れるのは麗梅にはできない。汚れるのを厭わなかったのは我が子だからか彼の性格ゆえか。


 彼の右手に赤い蚯蚓みみず腫れができていた。その真ん中にはうっすら血も滲んでいた。

 同じ傷がこの幼女の背中にもできていやしないか。


「よしよし。怖かったな。もう大丈夫だ」


 ソウェイルがアナーヒタの耳元でそう囁く。

 だがアナーヒタは何の返事もしなかった。相変わらず泣こうとしない。ただ何となく体が強張っているのが分かる。ひどく緊張している――それが痛々しく見えた。


 麗梅は拳を握り締めて覚悟を決め、ソウェイルの隣に立った。


「無礼者! 王の意に背いて何をしておる!」


 エカチェリーナが「無礼はどちらです?」と唇だけを動かして応じた。


「親子の教育の場に許可なく踏み込んで。私が産んだ子供をどうしつけようと私の勝手ではありませんか」


 そう言われると麗梅は少したじろいでしまった。彼女の言うとおり、産んだのは麗梅ではない。


「この子はもう充分大きくて聞き分けができるのです、失敗は厳しく正す必要があります」


 しかし次に口を開いたのはソウェイルだ。


「俺の子でもある。俺は子供に痛い思いをさせるのは嫌だ。俺が拒否しているものを勝手に与えるな」


 いつになく強い語調だった。先ほどまでの小声で頼りなく呟いていた彼とはまるで結びつかない毅然とした態度だった。

 麗梅は胸を撫で下ろした。


「と、王が仰せである。王命に背く者はたとえ王妃であろうとも罰せられねばならぬ」


 そう言うと、エカチェリーナは「あらそうですか」と淡泊な声で返事をした。


「では、あなたがたが思うようにお育てになればよろしいのでは?」


 しめた、と思った。


「望むところだ! 貰ってゆくぞ」


 麗梅はソウェイルの服の脇腹をつまんで引っ張った。広間の外に出ていこうという訴えだ。ソウェイルはすぐに察したらしく、「ああ、行くか」と言って一緒に歩き出した。


 エカチェリーナは止めなかった。ただ冷たい目で広間を慌ただしく出ていく三人の姿を見つめていた。



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