第9話 初夜失敗の原因

 後宮ハレムは蒼宮殿のもっとも奥、北の果てにある。王の住まいはそのひとつ手前、宮殿の北側を構成する建物の中で唯一宮殿最大の中庭に面した建物である。――ということは、知識としては知っていた。

 いつの日かは行く用事ができるかもしれない、とは、思っていた。

 だが、こんなに早くこちらから訪問する日が来ようとは思っていなかった。


「おやめください! リーメイ様! お立ち止まりください!」


 いつも冷静で微笑むことすら稀なシャフラが大きな声を出して、衣装の裾をつまんで早足で後ろを追い掛けてくる。めったにないことに周囲の人間は驚いているようだ。麗梅リーメイもまさかこの女が慌てふためく様を見るとは思っていなかったが、今日の麗梅にはそんなシャフラをじっくり鑑賞する心のゆとりはない。

 ちなみに小鈴シャオリンは置いてきた。彼女はこういう状態の麗梅は止められないことを知っている。早々に諦めて「いってらっしゃいませ」と見送ってくれた。


 シャフラが本気で慌てている様子だ。

 ようやく悟った。シャフラは麗梅を王に会わせたくなかったのだ。


 王というものはだいたい一番いい部屋で暮らしている。しかもシャフラがこの様子ということは今確実にそこにいる。


 南端にある、一番豪奢な彫り物の施された部屋の扉を蹴り開けた。


 すぐそこは蒼い絨毯の敷かれた大きな広間で何もなかった。


 だが、麗梅が大きな音を立てて扉を開けたので警戒したのだろう、向かって右の戸が開き、中からチュルカ人風の顔立ちに白軍兵士の恰好をした若い男が顔を出した。麗梅の顔を見て「あ」と呟く。


「陛下はいずこか」


 男は「ここにはおりません」と即答した。

 麗梅は確信した。

 きっと男の背後にいる。この男も王を隠そうとしているのだ。


 麗梅が顔を突っ込むようにして男に向かっていくと、男は恐れをなしたのか一歩分身を引いた。シャフラが後ろから「ちょっと、オルティさん! 止めてください!」と叫んだ。彼の名はオルティというらしい。


 オルティが退くと、そこには短い廊下があり、奥に戸が一枚あるのが見えた。


 その戸もぶち破る気持ちで開けた。


 中は先ほどの広間に比べると二回り小さな部屋であった。壁際に棒が渡され、そこに数々の蒼い衣装が引っ掛けられている――衣装部屋だ。


 部屋の真ん中にソウェイルが立っていて、小姓と思われるアルヤ人の少年が二人傍に付き従っている。一人はソウェイルに蒼い上着を着せており、もう一人は片手に鏡を、もう片方の手に櫛を持って立っていた。


 麗梅はソウェイルに向かって突進した。小姓二人もオルティ同様逃げるようにさっと身を引いた。

 ソウェイルの胸の辺りに体当たりをする。ソウェイルが呻きながら床に仰向けに転がる。


 腹の上に馬乗りになった。布をたっぷり使った衣装なので分かりにくいが、こうしてみるとこの男は存外華奢で腹が薄いように思う。頼りない体だ。

 蒼い目を真ん丸にして麗梅を眺めている。言葉は出てこない。口が利けないのだろうか。そう言えば華燭の典でも宣誓の言葉を述べただけで長々とした口上は述べなかった。口を開いたら馬鹿であることが割れてしまうとでも思っているのかもしれない。

 頼りない男なのかもしれない。

 顔立ちの良さ、身なりの良さに騙された。


「そなた何ゆえおとないをしなかった?」


 問い掛けると、彼は一瞬口を開きかけた。しかし次の時自分の両手で自分の口を押さえた。その仕草は子供っぽく、十九の男がとる態度とは到底思えなかった。


 胸倉をつかんで上半身を引っ張り上げる。ソウェイルが上半身だけ起こす。

 表情こそさほど変わらなかったが、蒼い瞳が落ち着きなくさまよっているところを見ると相当混乱しているものと思われる。表情が変わらないというのは得な性質だ。しかし口を利けない阿呆では王は務まらない。


「リーメイ様、落ち着かれませ」


 シャフラが言う。けれど腕力の面では非力な彼女は近づくことすらできない。


「ちょっと、オルティさん、止めてくださいませ」

「白軍兵士が王妃に触れるわけがないだろ!?」

「王の身に危険が及んでいるのですよ、仕事です、さあ早く」

「厄介事を俺に押し付けるのやめろ!」


 シャフラとオルティの押し問答を聞いて助けは来ないことを察したらしい。ソウェイルがその美しい面を苦痛に歪めながらようやく「逃げないから離してくれ」と言った。呟くような、囁くような、小さな声だった。


「腹から声を出せ!」

「そのお腹の上にお前が乗ってる……」

「つべこべ言うな! ただわらわの質問に答えよ!」

「むちゃくちゃだぁ……」


 言葉の端々に高貴な身分の者らしからぬ訛りのようなものがある。おそらく庶民の言葉遣いだ。なるほど家臣の者たちは彼に喋らせたくないわけである。


「そなた徹底的な再教育が必要と見たぞ」

「ええ……早……まだ会ってから丸一日経ってないのに……」

「まずはきちんとしたアルヤ語を話せ」

「ど、ど、ど、どうしよう……俺はとうとう大華人にまでアルヤ語を矯正されてしまうのか……」


 後ろを見ながら「何だこの男は、情けない!」と叫ぶと、シャフラが両手で自分の顔を覆い、オルティが大きな溜息をついた。


 もう一度前を向く。ソウェイルが麗梅から目を逸らす。


「そなた何ゆえ昨晩わらわのもとへ足を運ばなかった? 何か事件事故でも起こったのか?」


 斜め下を見つめて「そういうわけじゃないけど」と呟く。


「ちょっと……いろいろ……思うところが……」

「話してみよ、わらわが聞いてやろう」

「この姿勢で?」

「何ぞ文句があるのか!? 早う話せ! 聞いてやると言うておる!」

「どうしても知りたい……?」


 煮え切らない男だ。鬱陶しい。腹が立つ。叶うことならば頬を張り倒してやりたい。しかしそれこそ王への反逆である。ぐっとこらえて彼の顔を見つめる。

 黙っていれば整った造作をしているのに、口を開けば「やっぱり怒ると思うから言わない」だ。


「怒らぬぞ。わらわは心の広い女である」

「嘘だ、現時点でもう相当怒ってる」

「早うせい! はよう! はよう!」


 ソウェイルがようやく顔を上げた。麗梅の顔をまっすぐ見つめた。ようやく目が合ったように思う。


「そんなに来てほしかった?」


 麗梅は即答した。


「当たり前であろう! わらわはそなたの息子を産むと心に決めておるのだ! 男女の仲にならねば子ができぬではないか!」

「……シャフラちゃん……、なんだか……すごい女の子を呼んじゃったな……」


 シャフラが遠くから「想定の範囲外でございます」と答えた。


「いや、だめだ。やめよう。良くない」

「何がだ」

「女の子なんだから自分の体を大事にして」

「己を最大限尊重した結果女としての矜持をそなたに踏みにじられたことを怒っているのだ」

「あ、そういうことか……すみません……」


 ふたたび目を逸らしながら、「でも……だって……」とぼそぼそ続ける。


「その……、まだ、若そうだから……」

「若そう? どういうことだ。若いは若い、若いに決まっておろう、嫁に行く年頃ぞ」

「そういう意味じゃなくて……、その……。まだ子供みたいだから……」


 眉間にしわを寄せた。

 ソウェイルも、眉間にしわを寄せていた。


「十一歳くらいに見え――」


 右手を振り上げた。思い切りソウェイルの頬を打った。ぱん、という小気味よい音が鳴った。打ってから臣下の者の前で王を打ってしまったことに気づいたがいまさらだ。


「いったぁ……」

「わらわは齢十九ぞ!」

「ほんとに? どう勘定して十九歳なんだ?」

「華民族は数えで年齢を数えるのだ」

「満年齢で言うと……?」

「母上が華の太陰暦で七月に生まれたと言うておった。アルヤの太陽暦では第五の月モルダードであろう。次の第五の月モルダードで誕生から丸十八年ということになる」


 ソウェイルが目を真ん丸にして「俺と二つしか違わないの!?」と言う。やっと大きな声を出したが内容が内容なので麗梅は喜べなかった。


「ユングヴィのところにいる召し使いの娘たちがこれくらいなんだ」

「よう分からんがその娘たちは何歳なのだ」

「二人とも十二歳」


 もう一度手を振り上げた。ソウェイルが両手で自分の顔を庇いながら「ごめんなさい、ごめんなさい」と悲痛な声を上げた。


「無理だ、俺にはこんな小さい子にそんなことはできな」

「何が小さい子か! わらわはもう充分に子を産める体ぞ!? 一刻も早う種をつけよッ!」

「た、つかなぁ」


 結局もう一度頬を打った。


 半泣きでうめくソウェイルを見つめながら、麗梅はいつかシャフラが言ったことを思い出していた。曰く、前にいた側室はシャフラより豊満な胸をしていたという。シャフラでさえ麗梅からすると相当豊満なのだが、これ以上とはこれいかに――万事休す――と引き下がるわけにはいかない。


「わらわはもうこれ以上成長せぬわ! 何が何でも今すぐ抱け!」

「もしかしたら、もしかしたら二十代になればもうちょっと――」

「待てぬ!」

「勘弁してくれ……!」


 押したら根負けしそうな気もしたが、この一線だけは譲れないらしい。結局しばらく行ったり来たりの押し問答が続いて頷きはしてくれなかった。頑固なのだか軟弱なのだかよく分からぬ。

 しかし麗梅は深く思い知った。

 自分はかなり厄介な男と結婚してしまった。調教せねばなるまい──否、育てがいがあるということにする。



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