第8話 華燭の典、そして初めての夜

 麗梅リーメイは今日の華燭かしょくてん――と呼んでいるのは麗梅と小鈴シャオリンだけだったが、とにかく花嫁のお披露目が済んで婚姻が正式に結ばれる日――を心から楽しみにしていた。


 まず、出席者の顔ぶれを見ることができる。


 今日ここにアルヤ王のしもべたちが集う。

 アルヤ王にとって味方となる者、敵となる者、それぞれの顔と名前を覚えておきたい。誰が打ち倒すべき存在で誰が調略すべき存在なのかある程度把握しておかねばならないのだ。

 特に、誰が駒として利用できるか、は重要になってくる。後宮ハレムに入った女はおいそれとは宮殿の外に出られない。早急に手足となる人間を確保したい。


 国内だけではない。国交のある諸外国からも来賓がある。

 どこの国がアルヤ王国より偉そうで、どこの国がアルヤ王国に対して下手に出るのか。

 何より、この日を先延ばしにする直接要因となったサータム帝国の人間の顔を見られる。天下にその名を轟かせた敏腕の執政イブラヒムの後任者がどんな男なのか知りたい。


 次に、アルヤ王の顔を見ることができる。


 麗梅はこの二週間近くずっと放置されていていまだに夫となる男の顔を見せてもらっていなかった。


 噂によれば、少年時代は邪悪なほどの美少年と呼ばれた禍々しい美貌の持ち主だったそうだが、長じてからは酒色に溺れる暗愚の王になり果てたという。


 阿呆かどうかは面構えを見ればだいたい分かる。どんな目つきをしているか、肌につやはあるか、眉やひげはどうしているか、あちこちを点検して噂どおりの愚鈍ぶりかを確かめねばなるまい。


 阿呆であるならそれでもよい。麗梅にとって制御しやすい、使い勝手のいい男であれば及第点だ。

 願わくばおとなしくて自分の言いなりになってくれる男でありますようにと麗梅は毎夜星や月に祈っていた。弟を殺して王位につくような男に権力欲がないはずがない。主導権の奪い合いになるようでは大変だ。酒浸りになっている間に人格が変わっていることを期待したい。

 あと、同じ阿呆でも乱暴者は困る。多少の武芸は習ったが、麗梅は基本的には齢十九の公主である。己をたのんでおごたかぶり腕力や怒声に頼る男には当たりたくない。


 ついでに言えば、できれば会話のできる男であってほしいとは思う。けれどそれは夫としての必須条件ではない。子さえせば――麗梅に権力を与えてくれれば用事はないのだ。


 一度でいいから、会話はしたかった。

 多くのことは求めない。王位継承者となる息子を授けてくれれば後はどうでもいい。乳の大きな女の尻を追い掛けて暮らしてくれても麗梅はまったく構わない。

 ただ、中原から遠いアルヤ王国まではるばるやって来た花嫁に労いの言葉をかける男であってほしい、とは、思う。彩帝国に未練はないが、麗梅は麗梅なりに張り切って、頑張って異国の地まで旅をしてきたのである。

 アルヤ王国で多くのものを得るために、彩帝国で多くのものを捨ててきた。


 アルヤ風の衣装に袖を通した。足元まで覆う紅の絹の衣装に、膝まで丈のある胴着ベストを纏い、蒼玉サファイアのはまった金銀の首飾りと腕輪をつけ、更紗の布を頭にかぶった。


 いつになく着飾ったシャフラに手を引かれて、蒼宮殿の南側、大講堂へ赴く。


 大きな両開きの扉を開けると、何百、もしかしたら千を超えるかもしれない人々が詰め寄せていた。まるで見世物になった気分だ。

 見たければ見るがいい。自分はこれからアルヤ王国の女王となるのだ、目に焼き付けておくがいい。麗梅は背筋を正して蒼い絨毯を踏み締めた。


 窓から午後の光が斜めに差し入っている。幾何学模様の光は美しく神々しくすらある。


 大講堂の正面奥、三段高くなっている壇上に、大きな祭壇がある。炎が煌々と焚かれている。アルヤ王国を照らす聖なる炎だ。


 その祭壇の手前に、一人の男が立っていた。


 麗梅は目をみはった。


 蒼地に金糸の刺繍の施された外套はアルヤ王国の象徴だ。銀糸の刺繍の施された脚衣シャルワールはすらりと長い脚を強調して見せる。腰にさげられた金の短剣には麗梅が首から下げているものに似た蒼玉サファイアが埋め込まれている。頭を覆うターバンにも金の飾りがついており、蒼玉サファイアに真珠、空石ターコイズ瑠璃ラピスラズリなどがはめ込まれていた。

 肌は日の光など浴びたことがないのではないかと思うほど白く滑らかである。ターバンからはみ出る蒼い髪はさらりとしていて触り心地が良さそうだ。高い鼻筋、巴旦杏アーモンド型の目は西洋人とも東洋人ともつかぬ不思議な容貌を形作っていた――アルヤ王家が混血を繰り返してきた証だ。

 大きな蒼い瞳は、空石ターコイズより濃く瑠璃ラピスラズリより柔らかい。


 想像以上の美男であった。


 美少年など成長したら崩れるものだと思っていた自分が愚かであった。今なお邪悪な美人のままであることを誰かあらかじめ教えておいてほしかった。


 麗梅は一目でこいつを国際的な美人だと評価した。あまり男性的ではなく、むしろどちらかといえば女性的でたおやかな印象かもしれないが、それはそれ、これはこれだ。

 この男は異文化の美醜の基準を乗り越えてしまう。


 シャフラに導かれて男の隣に立った。

 この美しい男の隣にいると自分を世界で一番の美女だと思い込んでいた自分がこの上なく恥ずかしい。


 負けた。


 彼が隣にいる麗梅の顔を見た。

 一瞬、蒼い瞳と目が合った、気がした。

 本当に一瞬のことだった。

 彼はすぐ、顔を逸らし、前を向いた。


 どういう意味だ。


 麗梅が混乱しているうちに、式典は進んでいた。


「余はこの者を妻とすることをここに宣誓する」


 彼がそう言うと歓声が沸き起こった。


 麗梅は慌てて周囲を見回したが、誰が誰なのか分からない。シャフラもいつの間にか壇の下に降りていて家臣の一人としてすみでしらっとした顔をしている。自分の隣にいるアルヤ王に来賓の説明をしろとは言えない。


 隣が神々しい。


 急にアルヤ人が皆アルヤ王を偶像崇拝している民に思えてきた。


 気を取り直した。


 何となく阿呆ではなさそうな気がする。こっそり盗み見た感じ表情が硬く目はどこを見ているか分からない感じだが、不潔な感じはなく、おそらく式典用と思われる豪奢な衣装を着こなし、宝飾品に見劣りせぬ美貌を誇示している。もしかしたら見掛けだけの人形である可能性もなきにしもあらずだが、最低限人前に出せる男であることは確かだ。


 夫が美しいのはいいことだ。絶世の美男である彼と絶世の美女である自分を掛け合わせて生まれる子供が美しくないはずがない。

 美しさは武器になる。今自分が彼に対して感じているような畏怖の念を相手に感じさせることができる。容貌だけでも相手を威圧する――素晴らしいことだ。


 シャフラが戻ってきて、夫と会話させる間すらなく麗梅の手を取って壇の下に引きずり下ろした。


「少し早すぎるのではないか? 何か焦っておるのか」


 麗梅が小声で話し掛けると、シャフがいつものつんと澄ました顔で答える。


「女性は人前に長くその姿を晒すわけにはまいりませんので。ましてリーメイ様は王の所有物となられたのですから」

「そうは言うてもそなたもおなごではないか」


 その言葉には、シャフラは答えなかった。麗梅は直感的に悟った――シャフラは何か都合の悪いことを隠している。しかしこの場で問いただすこともできない。大勢の目がある。


 当初の目的のうちひとつ、周囲の人間関係の把握は果たせなかったが、もうひとつ、夫の顔を見ることはできた。阿呆ではない、乱暴そうでもない、大丈夫、焦ることはない、これから何年もかけて子作り、そして子育てをするのだから――



 阿呆そうではなかった。

 むしろ、絶世の美青年であった。

 これ以上望むべくもない。



 麗梅は、女官たちに念入りに洗われ、毛という毛を抜かれて、香油を塗り込まれた体に薄絹を身に纏った。

 長い黒髪を下ろし、敷布の上で軽く束ねて置いた。そして寝台の白い敷布の上に横たわった。

 蒼と紅の壁掛けが油灯ランプの炎に揺らめく。妖しい香が焚かれる。いつにない雰囲気に意識がぼんやりと薄く柔らかく広がっていく。


 緊張していないと言えば嘘になる。

 十九年――満年齢で言えば十七年と数ヶ月だが――生まれた時からずっと大事に守ってきた花が今宵散る。


 どういうことをするのか、麗梅はあちこちから聞きかじって知識を蓄積していた。いざその時が来た時に慌てふためかないように、だ。

 平然と、しかし男の機嫌を損ねぬよう多少の慎みをもって、落ち着いて臨まなければならない。粗相があってはならない。最初の一回が肝心だ。ここをうまくやって気に入られることで子を孕むまで通い続けてもらうようにしなければならない。


 あの美しい男に抱かれるのか。

 長い指で体をなぞるのだろうか。穏やかそうな雰囲気だったが、やはり夜は雄を剥き出しにして荒々しく迫ってくるのだろうか。

 この白い敷布に赤い破瓜の証が残るのか。


 幻想的な、三日月の輝く美しい夜――今宵、この空気の中で女になる。


「ソウェイル……」


 夫の名を、口に出して呼んでみた。

 あといくばくもせぬうちに、本人にそう呼び掛ける時が来る。


 うっとりと、目を閉じた。

 どんな夜が待っているのだろう。






 麗梅はそのままいつの間にか眠りに落ちていた。


 夫の訪れがないまま新婚初夜が終わったことに気づくのは、翌朝目が覚めてからの話である。




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