第7話 後宮《ハレム》における女の戦いの火ぶたが切って落とされた

「退屈であるな」


 寝台に身を投げ出し、足を持ち上げては下ろす腹の体操をしていた麗梅リーメイだったが、飽きた。小鈴シャオリンが、最初にこの部屋に来た時にはすでにあったらしい漆塗りの盆に鬱金香チューリップの花を飾りながら、「そうおおせになられますな」と応えた。


 シャフラの言うところによると、結婚式のようなものは行なわないしきたりになっているらしい。何人もの妻を囲うべき王が婚姻のたびにいちいち婚儀を挙げていたらきりがないし、その式次第によって格付けされたと思われるのもよろしくない。重臣たちや各国の来賓を招いて簡単なお披露目会のようなものをやるらしいが、それも本来は女の顔を他者に晒すのはよくないと考えられている砂漠では必要最小限にとどめられ、花嫁は更紗の布を頭にかぶり、ちょっと出てすぐ後宮ハレムに帰るしきたりになっていた。


 その辺りの事情については不満はない。麗梅は堅苦しい儀式など好まない。そんなことよりもっと大事なことがある。


 しかし、お披露目会のための支度もなく、またシャフラに「しばし」と言われてアルヤ王と面会することも叶わない今、麗梅は時間を持て余していた。小鈴を連れて後宮ハレムの中を探検してみたがところどころで女官たちに引き留められなかなか前に進んでいる感じがしない。


 もっとこの国のことを知りたい。もっと見聞を広げて、自分が力を得た時のための足掛かりをつかんでおきたい。この国はいずれ麗梅のものになるのだ、ここでくすぶっているわけにはいかなかった。

 焦っている、というほどでもない。本番は息子を王にしてからなので、最悪何十年先にもなる。まずは産んでみることだ。麗梅はその日を気長に待つことにしていた。


 ただただ、退屈だ。


「つまらぬ。お披露目会とやらの前にもう少し女官などと親しんで情報を集めておくべきか」


 小鈴が「およしくださいな」と溜息をつく。


「姫様のような身分の高い方が下々の者とそう気安く接するものではございませんよ」

「しかしアルヤ女は気の強い女が多いぞ。ましてわらわは女どもからすれば異邦人なのだ、一人でも多くの味方を囲って――」


 そこまで言ってから、はっと気づいた。


「そうだ。今のうちに挨拶に行くか」

「どなたにです?」


 上半身を跳ね起こした。


 麗梅はにたりと笑った。


「王の側室を追い出して平気で暮らせる女の顔を拝んでこようぞ」


 小鈴の顔が蒼ざめた。

 麗梅はそんな小鈴を構うことなく、姿見で二つ団子にした自分の髪の乱れを整えると、自らの手で扉を開けて部屋を出た。


「お待ちください! お待ちください姫様、シャフラ様にも止められているではございませんか!」

「シャフラはしょせん王の使いの者、わらわはじきに正妃となる身ぞ。なんぞ気遣う必要があろうか」

「ですがここで事を荒立てるわけには――」

「わらわがへまをすると申すか。なに、こういうのは早ければ早いほど良いのだ」


 後宮ハレムの廊下を進む。いくつもの部屋が並んでおり、部屋の奥にまた部屋がある、という構造は少し複雑だが、廊下自体は広くて一本で途中途中に広間があるため歩きにくいということはなかった。


 目的の人物がどこにいるかも分かっている。周りの人間の慎重な配慮により、麗梅の部屋とは正反対、麗梅が後宮ハレムの東側に住んでいるとしたら彼女は西側に住んでいる。おかげで西側の探索がままならず唇を噛んだこともたびたびだ。

 今日はそこを突破する。


 小鈴は自分の主人が一度言い出したら聞かない性格であることを熟知している。途中で諦めて、「知りませんからね、怒られるなら姫様だけになさってくださいね」とぶつくさ言いながら後をついてきた。


 麗梅が威風堂々と廊下を進む。あまりにも堂々としているので逆に周りの人間も気に留めなかったようだ。途中でようやく麗梅の目的地に気づいた数人の女官が慌て出した。二人ほどがまとわりつき、もう二人ほどがシャフラを呼びに行く。こういう行動に出たことは遅かれ早かれ知られることなので麗梅も気にしない。短時間でも目的を遂げられればよいのだ。


「なりません! そこから先は――」

「笑止。そなたはわらわのすることに口を出せる身の程の者か。わきまえよ」

「いえ、それは――ですが――」

「それほどまでに隠したいものがあるのか? 案ずるな、わらわは口が堅い」

「そういうわけでは――」


 やがて広間が見えてきた。赤い毛氈もうせんの敷かれた広間には西洋風の白磁の花瓶が置かれているのが見えた。無粋な、と思った。磁器の起源は麗梅の地元だ。西洋の磁器は紅毛人の猿真似に過ぎぬ。


 麗梅の足が広間に入った。

 アルヤ人の女官たちが逃げるように姿を消した。


 そこは異空間だった。毛氈と磁器だけではない、壁に掛けられた油絵も金の房飾りのついた重そうな窓掛けも何もかも西洋風で、ここだけ違う国かのようだった。


 広間の真ん中に大きな白い卓が鎮座しており、それに添えられるように四脚の赤い布付きの背もたれの椅子が置かれていた。

 使われているのはひとつだけであった。一番窓に近い席に高貴な身分の女が一人座り、その周りに四人の使用人の女たちが控えている。


 椅子に座っているのは、長い金の髪を高く結い上げ、雪よりもなお白い肌に彫りの深い顔立ちをした、西洋の陶器人形のような女であった。

 麗梅は超常現象など信じていないが、何となく、この女からは気のようなものが立ちのぼっているように見えた。禍々しい、この国に呪いを巻き散らさんとする気だ。あるいは極寒の地に投げ出された気分だ。空気が凍りついている。


 彼女の方は麗梅を見ようともしなかった。ただ白く華奢な取っ手付きの茶碗で茶らしきものを飲んでいる。まるで何事もなかったかのように、午後の茶の湯の時間を満喫している。


 だが恐れるものは何もない。

 凍てつく氷など麗梅の燃え滾る炎の前では溶けて消えるものだ。


 さらに足を一歩踏み出した。


御機嫌ようサラーム


 意外なことに、返事が返ってきた。


御機嫌ようズドラーストヴィチェ


 強烈な女だ。

 麗梅は肩をすくめて「您好嗎ニンハオマ?」と付け足すように言った。


「何か、私に御用ですか」


 こいつが、ノーヴァヤ・ロジーナ帝国皇女、アルヤ王国第一王妃エカチェリーナか。


 しかし――残念なことだ。

 後宮ハレムの女は弱肉強食、愛想のない、可愛げのない女は淘汰されるのである。


 麗梅はにこりと微笑んだ。

 そして、その場にひざまずき、拝手した。


「ご挨拶に上がりました、姉様。わらわは英麗梅インリーメイと申す者、さいの国の現皇帝英宇インウーの第四皇女にございまする」


 エカチェリーナが目を見開いた。

 勝った、と思った。


「この国に着いてまだ五日で右も左も分からぬ小娘にございますれば、先達である姉様におかれましては何とぞご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げまする」


 麗梅が膝をついたのを見てすぐさま小鈴も隣に膝をついた。そして拝手して深く首を垂れた。


 頭を下げてから、持ち上げる。両目をさらに細め、唇の端を持ち上げて、エカチェリーナの蒼ざめた顔を見つめる。


「この世で唯一同じ立場の者同士。手と手を取り合い、協力して、国を興してまいりましょうぞ」


 もちろん方便だ。麗梅は世界を誰かと二分するつもりはない。

 だが正面衝突するのも得策ではない。争いとは莫大な気の要ることだ、必要最小限にとどめておくべきだ。

 本気にして寄り掛かってきた時はしめたものである。目の前の女を見ているとそこまでは期待できなさそうだが、少なくともこちらには仲良くやる意思があることを見せつけることができた。

 充分だ。


 誰が後宮ハレムの女主人なのか、分からせてやる。


 我こそはアルヤ王の寵愛を受けこの国の女王となる女だ。


「重ねてよろしくお頼み申し上げまする」


 エカチェリーナが皿に茶碗を叩きつけた。がしゃん、という、一瞬割れたかと思ったほどの乱暴な音が鳴った。


「馬鹿馬鹿しい。貴女あなたの顔など二度と見たくありません」


 椅子から立ち上がる。広間の向こう側へ出ていこうとする。

 その背中にたたみかけるように言う。


「わらわはいつでも姉様のお言葉を拝受する心づもりがございまする。姉様はお好きな時にわらわにお会いくださればよろしい」


 にらまれた。このような目でにらまれることなど人生において何度もないであろうというほど強烈に攻撃的な目であった。けれど麗梅にとっては追い詰められた獣の目に見えた。弱い犬ほど吠えるものだ。


「ご機嫌を害されたようでたいへん申し訳ございませぬ。では、これにして失礼致しまする」


 麗梅の方もまた立ち上がり、広間を出て廊下に戻った。エカチェリーナより先に広間を出たことになる。

 エカチェリーナがとんでもない形相で自分の背中を見つめているのは分かっていた。

 麗梅の心は広く澄み渡り爽快感で満たされた。



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