第5話 紅龍公主

 大陸の東の果てに巨大な帝国がある。

 世界でもっとも豊かな国と称し、数々の属国を従えたその国を、遠い西方の国の人々は大華たいか帝国と呼ぶ。主要民族である民族から取り、偉大なる華民族の帝国、という意味を込めた呼称だ。


 だがその呼称は少々古く、現在の実態とは合致していない。


 大華帝国の中心部――華民族が中原ちゅうげんと呼ぶところ――を統一し支配する民族はいつの時代も必ず華民族というわけではない。

 現在の王朝であるさい帝国の皇帝は中原の北東部の出である。本来は寒い草原を闊歩する騎馬民族であったが、彩王朝がってから華民族化し、華風の姓名を名乗り、華風の暮らしを始めた民であった。


 そんな彩帝国第三代皇帝英宇インウーには全部で七人の公主ひめがいる。


 公主たちは基本的には化粧領の地名から取って何某公主と呼ばれる。華民族に実の名であるいみなを家族以外の者に知られてはならないという風習があるからである。それはに言わせれば実体のないまじないだが、父である皇帝から、昔からそうと決められているのだからそうだ、と言われればそれまでであった。

 彼女は本人の意思とは関係なく紅龍ホンロン公主と呼ばれていた。


 紅龍自体はただの地名だったが、周囲の人間はその字面の勇ましさを彼女らしいと言って嘲笑った。


『今に見ていなさいよ。わたしは絶対絶対絶対絶対阿耶あやの国の史書にこの優美さと風雅さで名を残してやるんだから。偉大なる彩帝国から来た、たおやかで麗しい良妻賢母として名を刻むのよ』


 輿こし御簾みすを少し上げ、異郷の地の大通りを眺めながら言う。隣に座る彩の国から連れてきた官女の小鈴シャオリンが『はいはい、公主ひめさま。小鈴はもう百万回それを聞きましたよ』と言って肩をすくめた。


『それにしても、意外と栄えているわね。結構都会だわ。道もちゃんと石畳で舗装されているし、建物が等間隔に並んでいて、きちんとした都市計画に則って造られているように思うわ』

『そういうことを言うから紅龍公主は紅龍公主だと言われるんです』


 擦り切れるまで読んだ虎の巻である阿耶語の教科書を開いて、小鈴が言う。


『王都須花那すかなは自称百万都市ですからね、百万もいればそこそこの都市になりますよ。金細工、銀細工、絹織物に毛織物、何だって手に入ります。食べ物だってきっとまともな料理に違いありません。それを喜びましょ』

『大事なのはそんなことじゃないわ。阿耶王がそれをどう運用しているか、よ。百万から何人徴兵できるかしら? 城門を閉じた時籠城できる蓄えはどこ? 今のところ四つ門を通ったじゃない、須花那の城壁は四重ということでいいのかしら』

『もう、公主ひめさまったら!』


 紅龍公主は御簾を下ろして『小鈴、鏡』と命じた。小鈴がすぐさま化粧鏡を差し出した。裏面が漆に螺鈿らでんの梅の化粧鏡は母からの贈り物だ。遠い異国に嫁ぐことになった娘を思って泣き暮らしているであろう母から、である。


 母や兄は西方の王国に嫁ぐことになった彼女を憐れんで胸が張り裂けんばかりに泣いていた。

 彼らに言わせれば、中原の外は恐ろしい魔境だという。しかし彼女からすると自分たちも三代遡れば北方の蛮族扱いだったくせによくぞ言えたものである。まして阿耶王国は大華帝国としてはおおよそ千年前からの付き合いだ。互いに政権の交代や異民族との戦争などがあって政治的には交流できなかったが、中原の西側の周縁にいる阿耶人は今もたくさん帝都に出入りして商いをしている。


 紅龍公主は恐れない。


 彼女はよわい数え十九で公主としては少々行き遅れ気味である。本来降嫁する予定だった相手の文官が紅龍公主のおてんばを恐れてごねたなどという不穏な噂もあったが、噂は噂だ。むしろこの好機を思えば感謝こそすれ恨みはしない。彼と正式な婚儀を挙げていなかったからこそ、自分は中原を飛び出して広い世界に出られたのだ。


 皇帝が娘たちの中から阿耶王国に降嫁する者を選ぶと言い出した時、彼女は率先して手を挙げ、立候補した。


 自分は、後宮に囲われて泣き暮らすばかりだった母とは違う。

 歴史に名を刻む女となってやるのだ。


 しょせん相手は千年前とは異なり小王国に落ちぶれた国、ましてやさらに西の大国である西丹さいたん帝国の周縁国に堕したという――が、王都の栄えようを見ていると聞いていた話と少々違う気がする。


 華民族から西丹人、人から胡人、白い者から黒い者まで、この都には確かに世界中から人が集まっている。


『須花那は世界の半分、か』


 鏡に映った自分の顔を見る。


 日光を浴びずに育った白く滑らかな肌、小さな赤い唇、筆で一本引いたような切れ長で涼やかな目元――このような美女ならば夫となる阿耶王もさぞかし喜ぶに違いない。


 二つ団子にした髪の乱れを整える。香油で艶やかに輝く黒髪は小鈴が結い上げたものだ。彼女の髪結いの腕は大したもので、公主は彼女を重宝していた。

 髪結いの腕だけではない。公主は小鈴をかっている。自分に対して生意気な口を利くところがいい。遠巻きに眺めてわらう異母姉妹たちや他の官女とは違う、真正面から物を言うところが気に入った。しかも遠い異国への嫁入りに付き合ってくれるという。これは一生世話をしてやらねばなるまい。


 旗袍チイパオの立て襟を整え、『よし』と呟く。


『これから先は阿耶語で暮らすのよ、小鈴。いいわね? 普通語とはもうお別れだわ。女たるもの夫に合わせて暮らさなければ』

『またそういう心にもないことをおっしゃる。公主ひめさまのことだから阿耶王に取り入っていいようにしようと思っているに違いありません』

『他の何だと言うのよ! まずは王に気に入られるのが第一よ、子作りをするためにはるばる来たんだもの!』


 公主の過激な発言に小鈴が『きゃあ』と悲鳴を上げた。そんな小鈴に公主は化粧鏡を突き返した。


 輿が止まった。


 御簾を持ち上げて外を見る。


 どうやら花嫁行列は宮殿に辿り着いたようだ。


 蒼宮殿――実に美しい。組み合わされた細やかな石片タイルは蒼を基調に白、青、金で複雑な蔓草つるくさ紋様を描いている。玉ねぎ型の穹窿ドーム、壁に開いた穴のような独特の窪みは日陰になっていて一般市民が座って寛いでいた。

 これから先、自分はこの異国情緒のある美しい宮殿で暮らすのだ。


 ややして、輿がふたたび動き出した。きっと宮殿の近衛兵とここまで公主を連れてきた亜耶人の付き人たちの間で何らかのやり取りがあったのであろう。


 とうとう中に入れる。


『いい? 小鈴』


 公主は隣の小鈴に指先を突きつけた。


『男の子よ。何としてでも長男を――次の阿耶王を産むの』


 小鈴が震え上がった。


『次の阿耶王の母后になるのはこのわたしよ。絶対協力してちょうだいね』


 小鈴はしばらくの間恐ろしいものを見る目で公主を見ていたが、ややして、諦めたらしい。彼女の女主人がこういう人間であることを彼女も分かっているのだ。


『異国語で暮らさないとならないなんて、なんとおいたわしや――という感じではないですね、公主ひめさまの場合は』

『任せなさい』


 中原など自分には狭すぎる。

 阿耶国を――アルヤ王国を足掛かりに、自分は世界へ羽ばたくのだ。


 輿が完全に止まった。


「姫様」


 外から呼び掛ける声が聞こえてくる。アルヤ王国の東方の国境からここまで公主を連れてきた兵士の声だ。


「姫様をお呼びしたアルヤ人の官吏が対面を所望しております。お会いになられますか」


 公主が直接対応する前に、小鈴がアルヤ語で「少しお待ちなさい」と答えた。


「その者は具体的にどのような身分の者ですか。姫さまがお会いしなければならないような相手ですか」

「シャフルナーズ・アフサラ・ルーダーベ・フォルザーニーという女性です」


 公主と小鈴は顔を見合わせた。

 皇帝に書簡を送ってよこした女だ。


『会うと答えなさい』

『承知しました』


 小鈴が「戸をお開けなさい、姫さまはお会いになられるとおおせです」と告げた。


 外から戸を開けられた。


 まず感じたのはその日差しの眩しさであった。アルヤ高原は大地と蒼穹の距離が近い。暦の上では冬だというのに、その灼熱の太陽はまるですべてを焼き尽くすかのようだ。


 先に小鈴が顔を出した。

 兵士たちが小鈴の足元に踏み台を置く。小鈴が踏み台を踏みながら地に降りる。

 彼女は輿の床から傘を引っ張り出して広げた。強烈な日差しのことをあらかじめ聞いていて日除けの傘を用意していたのだ。


 公主も、輿を出て、外に降り立った。


 風が、頬を撫でる。

 乾いた風が、心地よい。


 横を向いた。


 巨大な門を前にして、一人の女が待っていた。正確には、女が一人と白い揃いの服を着た兵士の男たちが数人だが、彼女はまるで女王のように堂々と立っているので目立った。


 女はアルヤ人らしく背が高かった。大きな杏型の目には黒目がちの瞳が埋まっている。加えて、高い鼻や厚めの唇――整ってはいる。きっとこの国の基準では美しい女に違いない。

 襟の高い、足元まである丈の白い服を着て、その上に黒い胴着ベストを着ている。髪はまとめて黒い布で覆っていたが、長い、緩やかな弧を描く前髪が布の外に垂らされていた。


御機嫌ようサラーム


 そう言って、女はひざまずいた。


「遠路はるばるようこそアルヤ王国へおいでくださいました。わたくしがシャフルナーズ・アフサラ・ルーダーベ・フォルザーニーでございます」


 美しい、滑らかなアルヤ語であった。


 公主は頷いた。

 聞き取れる。勉強したとおりだ。

 大丈夫だ。


「出迎え大儀であった」


 にこりと涼やかに微笑んだ。


「わらわは彩の国の第四皇女、紅龍の姫、英麗梅インリーメイである」


 周囲がざわついた。小鈴が『公主ひめさま』と悲鳴に似たか細い声を上げた。

 公主が――麗梅が、何のためらいもなく外の誰が聞いているとも知れぬ場で諱を名乗った。

 だが麗梅からすればそのまじないはこの異郷の地で異民族の女に強制するものではない。現に目の前のシャフルナーズという女は名乗ったのである。


「わらわをリーメイと呼ぶことを許す。これからよろしく頼むぞ、シャフルナーズ」


 彼女もまた微笑んだ。


「わたくしのことはシャフラとお呼びくださいませ。陛下はそうお呼びになられます」

「あい分かった」


 小鈴が近寄ってくるので、麗梅は「アルヤ語で話せよ」と命じた。小鈴が「かしこまりました」とアルヤ語で返事をしながら拝手した。


「では、宮殿の中をご案内致します。もう一度輿にお乗りになられませ」



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