第3話 この頃のサータム帝国の内情

 帝王学、と呼べるものではない。

 イブラヒムは特別なことをしているつもりはない。アルヤ人の奴隷を買ったのと、あるいはサータム人の子弟を預かったのと同じ態度でソウェイルに接しているつもりだ。


 むしろそこまで積極的に教育してやっているつもりもなかった。

 イブラヒムはもともと教育があまり得意な方ではない。

 それに、アルヤ王にあまり知恵をつけられても困る――アルヤ王にはサータム帝国の傀儡かいらいでいてもらわなければならない。


 ただ、イブラヒム宛てに来る書簡を一日一通くらいの間隔で読ませてみている。必要最低限のサータム語と帝国の契約書の書式くらいは教えてやったが、あとは勝手に汲み取ればよい。馬鹿でなければだいたいのことは分かるだろう。


 しかし、常に傍に置いているというのも誇張ではない。


 イブラヒムは執政としてアルヤ王のすべきことを代行している。

 つまり、法官たちとともに裁判に加わる時、また貴族院議員たちとともに議会に加わる時、その他政治上アルヤ王が必要な時に、アルヤ王代行のイブラヒムの付き人としてソウェイルがついてくる。

 アルヤ王の目の前でアルヤ王のためにアルヤ王のすべきことをする――奇妙だが、他にどうしようもなかった。


 その際イブラヒムが自らソウェイルにあれこれ説明してやったことはない。ソウェイルが勝手についてきたのだと言わんばかりの態度で放置している。

 ソウェイルもイブラヒムに説明をねだることはない。基本的には黙っておとなしく目の前で行なわれていることを眺めている。

 一見しただけでは分かっているのかいないのかといった様子だが、時々、ぽつり、ぽつりと疑問に思ったことを口にする。

 その疑問点がたまに事の本質を射抜いている時がある。

 イブラヒムは心臓が縮み上がる思いだったが、顔にも声にも出さぬよう努めた。極力無視してソウェイルをいないものとみなした。

 だが、周りにいる法官や議員がアルヤ人だ。アルヤ王には甘い。必ず誰かは返事をして、彼らの王にまた新たな知恵を授けてしまうのだ。


 アルヤ王国の貴族たちは王が政治に興味を持ってくれたものとみて喜んでいるようだった。それもイブラヒムの頭痛の種だ。

 アルヤ人たちにあまり団結されては困る。適度に分裂したまま、イブラヒムの望んだ時には爆発四散して、協力して反乱を起こすことのない状態でいてもらいたい。もっと言えば、自分たちの王を酒色に溺れた暗愚の王だと思って絶望していてほしい。

 邪教の賢く美しい最高神官が自分たちを導いてくれるものとは思ってほしくない。


 さらに――ひとによっては些細なことだと思うかもしれないが、イブラヒムにとっては恐ろしいことがもうひとつある。イブラヒムにとっては、極めつけに、と言ってもいいかもしれない。


 ソウェイルは自分が他人にどう見えるか意識し始めた気がする。


 もともと少し変わった服装をする子ではあった。奇抜な意匠で素朴な素材の衣服を好んでいたのだ。木綿や麻の服を着せて育てたユングヴィの影響であり、彼自身の職人として、あるいは芸術家としての好みを優先した不思議な恰好をする少年であった。

 その様子は洗練されているとは言いがたく、あの忌々しい番犬にとっては悩みの種のひとつで、外に出す時は彼がソウェイルを着替えさせていた。ソウェイルは、王子らしく見えるよう、ひとに衣装を見立ててもらわねばならなかったのだ。


 それが一転して、彼は自ら高級な服を好んで着るようになった。暑い昼には絹を、寒い夜には毛織物を着る。

 刺繍などの意匠に謎のこだわりがあるのは相変わらずのようだが、王家の色であり彼の色である蒼、高級色である金と銀、彼のすらりとした体躯をより強調する白や黒、蒼とは正反対だからこそ合うのであろう橙や臙脂を選ぶようになった。


 するとどうなるかと言うと、暗くてみすぼらしかった印象から垢抜けて高貴な印象に変わる。


 もともと整った顔立ちをしていて少年の頃は少女のように美しかったものだが、成長期を越えても顔を洗って髪を整えれば美しいのは大したものだ。しかし青年の今はこどもの頃とは違って意識してそうしているはずで、つまり彼は自分がどうすればその美貌を維持できるかどこかで学んできている。


 そういうことは、昔は、フェイフューなら、できていたことだ。


 フェイフューを、思い出す。

 あの、いでたちと立ち振る舞いだけで自らが高貴であることを体現していた少年の面影が、今のソウェイルと重なる。


 髪が蒼いだけだと侮っていた貴族たちが、『蒼き太陽』に自然と首を垂れるようになってしまった――気がする。



 今日もイブラヒムはサータム帝国からやって来た使者の謁見の場にソウェイルを同席させていた。


 今日来た使者は頻繁にイブラヒムと皇帝の間を行き来している伝令役の官吏だ。皇帝からの書簡を預かってきてサータム帝国の内実をイブラヒムに説明し、アルヤ王国の内実をイブラヒムから聞いて皇帝のもとに書簡や口頭の情報を持ち帰る。


 昔だったらこの場にソウェイルを呼ぶことなどなかった。アルヤ王に帝国の弱みを握られるわけにはいかなかったし、本人も興味はなさそうだったからだ。


 少し悩んだが、イブラヒムは思い切って同席を許した。

 今なら、ソウェイルはすでに理解している。

 今のアルヤ王はサータム皇帝の家臣の筆頭だ。外様とざまの部下として最強の立場にある。

 サータム帝国の実情を理解した上で、このまま味方でいてもらうのがいい。


 何を考えているかは分からないが、ソウェイルに帝国から離反する意思はなくイブラヒムに逆らう気はない、はずだ。

 帝国にとっても王国にとっても不利ではない選択をする、はずだ。


『――正直に申し上げまして、これは私の個人的な印象であることをご承知おきいただきたく思うのですが……、』


 使者がそこで一拍間を置いた。そして、イブラヒムの一歩分斜め後ろでおとなしく正座しているソウェイルの方を見た。よほど言いにくい、アルヤ人には聞かせたくないことを言おうとしているようだ。そしてここにいるアルヤ人はソウェイル一人だけであり他は人払いしてある。使者からしたら、よりによってアルヤ王が、といったところであろう。


 イブラヒムにとっても賭けであった。普段は慎重なイブラヒムにしては珍しい博打だった。

 だが、ここで口止めをしても、いずれどこかで知られることになる。

 吉と出るか凶と出るか。


『気にしなくていい。言いたまえ。どうせサータム語の聞き取りはそこまでよろしくない』

『左様でございますか。しかし――』

『案ずるな。これは私の奴隷だ。私が受け取った情報をどう与えるかは私の自由だ』


 使者が首を垂れて『かしこまりました』と言った。覚悟を決めた目で話し始めた。


『皇帝陛下のご病状は芳しくなく、もってこの冬かと』


 イブラヒムは大きな溜息をついたが、ソウェイルは微動だにしなかった。


 サータム帝国第九代皇帝はすでに六十八歳の高齢だ。病膏肓こうもうに入れば助かる見込みはまずない。そうでなくてもいつ何が起きて倒れるか分からない年齢だ。

 その時は、近い将来必ず、来る。

 彼がいかなる賢帝であっても、不老不死では、ない。


『――陛下はイブラヒム閣下の帝都への御帰還を望まれております。最期に、皇子がたのことを託したい、と。直接口頭でご下命なさることがあると仰せになられました』


 頭の痛い問題であった。


 皇帝には六人の皇子がある。しかしどれも優秀とは言いがたい。六人の中で甲乙をつけることはできるが、それぞれの母親が後宮ハレムで権力闘争を繰り広げた結果能力と現在の地位が結びついていない。


 サータム帝国には、皇子はある程度成長したら地方の行政管区や属州に総督として赴任して政治家としての腕を研鑽する、という風習がある。

 そして、父である皇帝が崩御した時、最初に帝都へ戻って玉座に座った者が次の皇帝になる、という不文律がある。

 つまり、帝都から近いところに赴任している皇子が有利だ。

 しかしこれはあくまで不文律で、より強い皇子が即位直前に強引に引きずり下ろすこともできる。もちろん帝都に着く前から他の皇子が帝都に行くのを妨害することも認められている。そうして潰し合い、殺し合い、最後に玉座の上から兄弟殺しを命じるのが、サータム帝国の慣例なのだ。最初に玉座に座り、最後まで玉座に座り続けた者が、帝国の覇者となるのだ。


 その、帝都と総督府の距離が、父である皇帝を悩ませている。

 死ぬ前に入れ替えをしなければならない。より優秀な皇子をより近いところに異動させなければならない。

 だが、誰を、どうやって――と考えた時、皇帝はそういう差配をイブラヒムにやらせたいのだ。もしくは、死後のことはイブラヒムに託すという遺言を残して死ぬ気かもしれない。


『……回答を待ってはもらえぬか』


 イブラヒムがそう言うと、使者は頭を下げた。


『ご苦労であった。今日のところは下がって、来賓の間でごゆるりと休まれたい』

『恐縮にございます』

『近日中に回答する。そう……、次の金曜礼拝までには。しかししばし時間をいただきたい』

『承知致しました』


 そして、『失礼致します』と言って立ち上がり、部屋を出ていった。


 執務室に、イブラヒムとソウェイルの二人だけが残った。


「――どんな話であったか、分かったのであろうか」


 振り向きながらアルヤ語で語り掛けた。ソウェイルは先ほどとまったく変わらない表情で頷き「だいたいは」と答えた。


「そういう、ことだ」


 深い溜息をついた。もはやソウェイルの前では感情を制御するのも難しい。必死に保ってきた鉄面皮ももう終わりだ。


「単刀直入に言おう」

「何をですか」

「私は帝都に帰って親アルヤ派の皇子を推薦しよう」


 ソウェイルの眉が、ほんの少しだけ、動いた――気がした。 


「陛下には六人のお子があるが、アルヤ王国への態度は六人が六人とも違う。必ず一番アルヤ王国に優しい皇子を皇帝にするとは約束できないが、少なくともアルヤ王国を武力で潰そうなどと愚かしいことを考えている皇子は遠ざけるつもりだ」


 少し強い声で、わざと威嚇するように「勘違いするな」と告げた。


「ソウェイル、お前はアルヤ王国がサータム帝国にとってどんな存在かもう理解しているだろう」


 ソウェイルは黙って頷いた。


「私はこれまでアルヤ王国がサータム帝国から離れないよう全力を尽くしてきた。けしてアルヤ王国を潰してしまわぬよう細心の注意を払ってきた。アルヤ王国の裏切りがサータム帝国にとって最大の損失だからだ」

「おっしゃるとおりにございます」

「別にアルヤ人が、それもお前が可愛いからではない。国の運営には金がかかる。アルヤ王国は最強の財源だ。ましてお互いこの状況で戦争など馬鹿げている。ロジーナ人どもをつけ上がらせるだけだ。そう思わないか」

「もちろん、おおせのとおりで」

「これからも、そうでなければならない」


 目を伏せ、ほんのり微笑んで首を垂れ、「はい」と応じた。


「すべて、執政のおっしゃるままです」


 持病の頭痛が悪化する。


 この青年が、何をどこまで理解して、どう感じどう思いどうするつもりでこう言っているのか、イブラヒムには分からない。


 賭けるしかない。


 アルヤ王国は、サータム帝国が――イブラヒムと現皇帝が大事に守ってきたのだ。


「私は、近々、帝都に帰ろうかと思う。ソウェイル、お前、一人でお留守番できるかね」


 ソウェイルは、頷いた。


「はい」



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