第2話 執政イブラヒムにとっての最強の敵

 ふわり、と甘い香りがした。肉桂シナモンの香りだろう。

 けして不快なものではない。むしろいい匂いだと思う。アルヤ料理によく使われるので旨いものを連想する。

 さほど強い香りでもなかった。さりげなくてささやかだ。この至近距離だからこそ感じられるのだろう。


 しかし、若い男の体臭、と思うと、イブラヒムは複雑な心境だった。


 肉桂シナモンは胃にもいいと聞いたことがある。彼は胃弱の傾向があるので宮廷薬師の指示で生薬しょうやくとして飲まされているのかもしれない。あるいはただ単に食事の香りなのかもしれない。肉桂シナモンを使った何かを食べてきた後なのかもしれなかった。


 けれど――美しい若者から、甘い香りがする。


 蒼い髪を、さらり、と揺らしながら、ソウェイルがイブラヒムの文机ふづくえに茶碗を置く。

 体と体の距離が近い。


 蒼い睫毛は長く、白く滑らかな頬に影を落としていた。


 彼のその所作は優美だ。余計な音を立てず、余計な動きも見せず、イブラヒムの邪魔にならないよう、だがイブラヒムの手が確実に届くよう茶を運んでくる。


 ただ茶汲みをしているわけではない。彼はイブラヒムの言いつけどおりイブラヒムの着物の着付けもしたし身の回りの掃除もする。普通の小姓と同じだ。


 奴隷とは言ったが、サータム人にとっての奴隷はほぼ家族と同義であり真剣に保護すべき対象だ。通常は下働きをさせながら必要に応じて教育を施す。主人に抗うならば鞭打つこともあるかもしれないが、優秀であれば宮廷に推挙して出仕させてやることもあるくらいだ。

 仕事の内容は出自にもよる。例を挙げると、チュルカ人奴隷であれば武芸を教えて私兵にすることが多い。他方アルヤ人奴隷は秘書にすることが多かった。アルヤ人は見目く、大陸共通語であるアルヤ語を話し、誇り高く生意気だが根は人懐こく明るい気性の者が多いといわれている。アルヤ人奴隷は連れて歩いた方が良いとされているのだ。

 小姓にするには先般十九になったソウェイルはとうが立っている。だが若いアルヤ人の男を奴隷にするとはだいたいそういうことだ。


 イブラヒムは約束どおりソウェイルに奉仕と引き換えに文書の書き方や読み方を教えてやっていた。


 彼の気遣いの細やかさには、酒姫サーキイの経験があるのかと思わされる。第一王子、しかも伝説の『蒼き太陽』がそのような身分に落ちるのなどありえないことだ――が、そのありえないことが今実際に起こっている。しかもそのありえないことを起こしたのは『蒼き太陽』自身だ。


 大勢のアルヤ人に囲まれているところで『蒼き太陽』に虐待を加えるわけにはいかない。奴隷は大事に育てるものであるというシャリア教徒としてのイブラヒムの信条にも反する。

 ソウェイルはそこを逆手に取ったのだろう。彼は自分が乱暴に扱われることなどないと確信した上で近づいてきたのだ。

 そこまでは分かる。


 茶を見た。緑茶だ。しかも透きとおっている。肉桂シナモンは入っていなさそうだ。やはりソウェイルから香っているのだろう。


 ユングヴィの家で髪を切ってきたのもよろしくない。彼の細く柔らかい髪はうつむくと左右に分かれてうなじが見える。毛を処理しているのだろうか、女のように白く細いうなじは煽情的で、見る者の心を掻き乱した。神が女に隠せと言ったのはやはり髪だけではなく頭部全体のようだ。


 美しいアルヤ人の酒姫サーキイを得る――サータム男からすれば至上の悦びだ。


 そうやって道を踏み外させようとしているのか。


 顔を上げた。


 目が合った。


 普段はほとんど表情を変えない、わりあい大きな蒼い瞳はどこを見ているか分からない、そんなソウェイルが、目が合ったことに気づいた途端、にこ、と微笑んだ。


 黙って、おとなしく、イブラヒムの一挙手一投足を見つめている。文句のひとつも言わず、言われるがまま、静かに穏やかに振る舞う。


 ぞっとする。


 ソウェイルはいったい何をしたいのか。

 もう訳が分からない。イブラヒムの理解の範疇を越えた。


 こういう時、イブラヒムはアルヤ王国総督の任務を与えられエスファーナに赴任した頃のことを思い出す。


 この仕事は前任者のウマルから引き継いだものだが、そのウマルはエスファーナで暗殺されている。引継ぎはまったくなかった。


 正直なところイブラヒムは強く警戒していた。ウマルを暗殺したのが誰なのかいまだに分からない。そうでなくとも王国には帝国を敵視する人間がうようよいる。事が起これば万単位の兵を動員して歯向かう。

 もっと白状するなら、怖かった。ウマルは武官の出であることやもともとの能天気な性格も相まって気楽な感じで出ていったが、絵に描いたような神経質のイブラヒムは文官の出でいざという時剣を抜いて戦うことができない。

 だが、皇帝は、だからこそ、イブラヒムを推挙したのだ。皇帝は大胆不敵なウマルとは違うイブラヒムの繊細さをかった。王国を慎重に内政から掌握していくことを求めていたのだ。そうであるならばなおのこと拒むことはできない。


 アルヤ王国には双子の王子がいて、気性はほとんど真逆と言ってもいいほど異なる、という話はよく聞いていた。第一王子は伝説の蒼い髪をしているのでアルヤ王国国内では取り扱い注意、というのも最初から把握していた。


 第一印象では、ソウェイルはおとなしく、どちらかと言えば暗い子で、フェイフューの方のやんちゃで負けん気の強いところが目立った。神だ伝説だと騒いで育てられたソウェイルはどんな化け物なのかと気を張っていたのが拍子抜けした。反抗的なフェイフューの方がいざとなれば鞭で打たねばならぬと思っていた――ちなみに聡いフェイフューは引き際を見極めていたのでそんな機会はなかった。


 しかし、あくまで、第一印象では、の話だ。


 ウマルに引継ぎをしてほしかった。

 ウマルが、ソウェイルには家庭教師をつけて宮殿に軟禁し、フェイフューを寺院付属の学校に放り込んだ、というのは後から聞いた。

 何を思ってそうしたのか知りたい。


 ウマルはソウェイルを外に出すことの本当の危険性を感じ取っていたのかもしれない。


 ソウェイルを危険に晒すのではない。

 ソウェイルの存在が危険だ。


 蒼い瞳は禍々しいほど美しい。まるですべてが見えているかのように見える。彼はおそらく人間には見えないものを見ている。


 悪徳の多神教の最高神だ。

 この子は善良な帝国臣民を闇に引きずり込む魔術師に育つだろう。


 結局イブラヒムはソウェイルを王にしてしまった。

 失敗だ。最初からフェイフューに勝ち目などなかったのに、フェイフューに賭けて試した自分が愚かだったのだ。フェイフューがソウェイルを手にかけてくれたらどんなに楽だったかと何度も何度も考える。

 どうやったらソウェイルを殺せたのだろう。

 即位してしまった。もう引きずり下ろせない。


 それでも最初のうちはよかった。双子の弟の死について責任を追及してやれば動揺したところを見せたからだ。あの忌々しい白銀の番犬を始末できたこと、育て親たちと引き離せたこともよかった。ソウェイルを丸裸にして、酒浸りにして閉じ込めておけば何とかなる。


 それがあのチュルカ人の青二才のせいですべてがとち狂った。


 ユングヴィの家から宮殿に帰ってきたソウェイルは、イブラヒムが恐れたあの邪悪な美少年の延長線上に戻ってしまった。


 ソウェイルが、イブラヒムのすぐ傍に膝をついて、次の指示を待っている。無言で、美しいその面にほんのり笑みをのせて、主人に焦がれる酒姫サーキイのように可愛らしく命令を求めている。


「――ソウェイル」


 イブラヒムは、覚悟を決めて口を開いた。


「陛下から許可が下りた。どうしても扱いに困るのならばエカチェリーナと離縁をしてもよいとのことだ。前々から難儀していただろう」


 しかしソウェイルは顔色ひとつ変えず「いや」と答えた。


「彼女はここにとどめおきます。その方がサータムにとってもロジーナにとっても益になる」


 そして「アルヤにも」と付け足す。


「ロジーナ人たちは彼女を魔女にたとえて恐れていて帰ってこないでほしいと思っているようです。かといって帝国に送り込むわけにはいかない。ロジーナ皇帝ですら手を焼いた娘にサータム帝国で暴れてほしくないんです」


 とろけるような甘い声で「サータム帝国としても困るでしょう?」と確認してくる。


「陛下の後宮ハレムには、奴隷しか入れない。ロジーナ人の高貴な身分の女を入れることはできない――実家の後ろ盾がある女が子を産んだら破滅が待っている……」


 ぞわり、と背筋に悪寒が走る。


「史上最高の国である帝国には、政略結婚など必要ない、と。そう見栄を切った手前、……でしょう?」


 彼は、分かっているのだ。

 今のアルヤ王はサータム皇帝にとって第一の家臣だ。最上の土地と最強の軍隊を持つ一番の子分だ。

 そこに下賜するという形でしか、サータム帝国はノーヴァヤ・ロジーナ帝国と円満な形で休戦協定を結ぶことができなかったのだ。


 蒼い瞳に、邪悪な光を宿っているのを見る。


「今度はどこの女と結婚しましょうか」


 皇帝はソウェイルが自ら膝を屈してきたことを喜んでいる。たまにしか会わないからだと思う。

 イブラヒムは毎日四六時中彼と向き合い続けていて挫けそうだ。何もかも見透かされてしまう――何をどこまで教えていいのか分からない。


 自分は、今、異教の魔術師を育てている。将来故郷をぶち壊すかもしれない魔術師を、この手で育てている。




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