第15章:花柄の龍と蒼き太陽
第1話 シャフラ姫の戦いはまだまだこれからだ
シャフラが回廊の真ん中を歩いていると、反対側、シャフラから見てちょうど正面から数人の青年たちが歩いてきた。いずれもアルヤ王国の交通網に関する省庁の官吏たちだ。
アルヤ王国は大陸の中央部にあり、どこもかしこも交通の要衝だ。特に王都エスファーナは、東洋と西洋の交差点とも呼ばれ、多くの
土木作業は貧民の地味な仕事だが、役所で図面に金を分配する官僚たちの手が墨以外のもので汚れることはない。
彼らはこの省庁に勤めることに誇りをもっていた。
もっと言えば、鼻にかけていた。
シャフラは涼しげな顔で前に進む。
シャフラに気づいた青年たちも、まるで気づかなかったかのような顔で前に進む。
そのうち、さすがに自分より頭ひとつ分くらい背の高い青年に正面衝突されるのは危険だと判断したのだろう。シャフラはほんの少しだけ不愉快そうな顔をして、一、二歩
ところが、だった。
うち一人が、あえて一歩シャフラ側に足を踏み出した。
シャフラと青年が衝突した。
しかも、かなりの勢いで、だった。
当然ひと回り以上体重の軽いシャフラの方が吹っ飛ぶ。
シャフラは回廊の柱に右半身を叩きつけた。痛みに顔をしかめながらずるずるとその場に座り込んだ。
青年たちが回り込む。地面に座ったままのシャフラを取り囲み、手を伸ばす。
「ごめんね、シャフラちゃん。痛くなかった?」
うち一人が下卑た笑みを浮かべながら手を伸ばした。
「どこが痛い? 教えてくれたら手当てをしてあげるよ。ほら、こっちにおいで――」
男の手が、シャフラの腕を、肩を、なぞる。
シャフラは言葉に悩んでいるようだった。彼女は知っているのだ。ここで彼らと喧嘩をするのは得策ではない。可愛くないと言われた回数はすでに星の数ほどだったが、彼女は相手次第では喧嘩が出世に響くことを理解している。
唇を引き結び、睫毛を伏せる。
男の手が、肩から胸の方へ下りてくる。
あともう少し――というところで、後ろから声を掛けられた。
「そこに何かいるのか?」
青年たちが顔色を変えて一斉に振り返った。
「猫か?」
回廊の真ん中に立ち止まっていたのは、すらりと背の高い青年だった。
華奢だが背筋の伸びた体躯を、蒼地に金糸の刺繍の施された膝丈の服で包んでいる。革の長靴には服と揃えた
帽子の下の蒼い髪が、さらりと揺れる。
「シャフラ?」
青年たちがひざまずき、首を垂れた。そして口々に「女性が倒れていたので」「心配に思い」「何事かと」と適当なことを早口でまくし立てた。
「ふうん。まあ、別にいいけど」
彼らの王が、蒼い目を細めた。
「下がれ」
その言葉を待っていたかのように、青年たちが一斉に立ち上がって駆け出した。
「失礼致します」
ソウェイルの周りを取り巻いていた白軍兵士のうちの一人が、シャフラに手を伸ばした。
「大丈夫ですか? どうぞ、お手を」
しかしシャフラは今度こそ男の手を振り払った。彼女の中では白軍兵士は乱暴に扱ってもいいことになっているらしい。
「結構。殿方の手をお借りしなければ立てないほど弱い女ではございませんので」
「たいへん失礼致しました」
兵士がすごすごと三歩下がる。
シャフラが立ち上がり、服についた砂を払った。
そのシャフラのいでたちは彼女がやんごとなき家柄の姫君であるとは思えないほど地味であった。
首を覆う高い襟からくるぶしまでを覆う丈の長い服は誰かの喪に服しているのような濃い灰色で、その上に身に着けている
唯一若い娘らしいのは白く美しい顔を縁取るような前髪だけだが、その毛先が傷んでいる。
頬は痩せこけ、口元が動くたびに厚く塗られた
「シャフラ、ちょっと」
ソウェイルがそう言って回廊の向こう、中庭の方を指した。小さめの噴水がささやかな水音を立てながら噴き上がっている。
「はい、何でございましょう」
「少々お時間いかが?」
「王のご用命以上に重大な用事がこの世にございましょうか」
「またそうゆう心にもないこと言う」
「そう申し上げねば周囲にいる近衛兵の皆様方の心証が害されましょう」
「なるほど」
彼は中庭の方へ向かって歩き出しながら白軍兵士たちに「少し離れていてくれるか」と言った。丁寧な依頼の口調だが実質命令だ。兵士たちは一度ひざまずいてから素早く立ち上がり、ソウェイルとシャフラの視界から消えた。
狭い中庭の噴水のほとりに立つ。小さな噴水が噴き上がる音はたとえるならば小鳥のさえずり程度で、二人の会話を妨げるものではない。
「お化粧変えた?」
何の前置きもなく、ソウェイルがそう訊ねた。
次の時だ。
シャフラの頬が、ほんのり赤く染まった。
きっと
「シャフラはさ、そんなぺたぺた塗らなくてもさらっとした肌をしてた。と思ってたな。俺の勘違いだったらごめんなさいだけど」
「す、少し」
彼女の声が、珍しく、上ずった。
「肌荒れが。それと、吹き出物が、いくつか。みっともないので、厚く塗っております」
「ふうん。そりゃ大変だ」
「本当に、大したことではございませんけれども」
大きな黒曜石の瞳が、わずかに潤む。
「まあ、大したことではございませんわ。このわたくしにだって吹き出物くらいできます。人間ですもの」
「でも、前はあんまりないことだった」
ソウェイルは少しだけ微笑んだ。だがその笑みはけして愉快そうでも、あるいは嘲るようでもない。ほんのり困ったような、そして、悲しむような笑みだった。
「……はい。こんなこと、学生の頃はございませんでした」
シャフラの声が、震えている。
「そりゃあ、大変なことだ」
ソウェイルが右手を伸ばし、シャフラの左腕をさすりながら「よしよし」と言った。
「女性にとっては大事件だ。そうだろう?」
下唇を噛む。赤く塗られていた唇の紅が剥がれ、荒れた白い唇が顔を出す。
「それから?」
「それから、最近――いえ、大したことは――」
「うん。だいじょうぶ。俺しか聞いてないから。怖くないから、一回言いかけたことは最後まで言ってほしい」
「その……、この半年かそこら、……その、」
彼女にはまったく似つかわしくない小さな震える声で、
「何もしていないのに……、体重は減るばかりでお腹が膨れるわけでもないのに、月のものが来なくなってしまって……」
「大大大大事件だろ。すごく言いにくいことだと思うけど、俺にだけはもうちょっと早く言ってほしかったなぁ」
ソウェイルの「だって今のシャフラちゃんの見た目、どう見ても病気だもん」と呟く声を無視して、シャフラがすがりつく。
「ですがあの、信じていただきたいのです。わたくしは純潔で、未婚の身で不道徳なことは。あの……、お願いでございますから――」
「だいじょうぶだからな。俺しか聞いてないし、オルティには絶対言わないから」
その言葉を聞いた途端だった。
シャフラがその場で崩れ落ちた。
ソウェイルもすぐその場にしゃがみ込んだ。そして包み込むようにシャフラの体を抱き締めた。
分厚い布で覆われた体は布を押さえつけると半分ほどまで縮んでしまう。
「ユングヴィが言ってた。戦争が始まると来なくなっちゃうんだって。シャフラの体は今戦争をしているのと同じくらい大変なことになってる。事件だ事件だ。でも、まあ、環境が変わればまた来るだろ、ユングヴィなんかその後五回も妊娠してるんだし」
「陛下……っ」
「お休みしなくちゃ。そう、お休みだ。おうちでのんびりして朝から晩までちやほやされた方がいい」
「そのようなこと……っ」
「言いにくいこと、教えてくれて、ありがとう。俺が分かったから、もうだいじょうぶ。アルヤ王国は今どことも戦争していない。俺は蒼宮殿にいる。だから、もう、我慢はやめて、いっぱい泣いて発散した方がいいと思う」
だがそれでも彼女は言うのだ。
「わたくし、泣きませんわ」
今にも消えてしまいそうな、壊れてしまいそうな脆い声で、
「わたくし、この仕事に就く時に決めましたの。絶対絶対泣かないと。わたくしはこれしきのことで泣いたりなどしませんのよ」
「うん。わかる。シャフラは強い女だからな」
「そう。わたくしは強い女ですの。だから大丈夫でございます」
痩せ細った硬い体で、
「でも、だめ。俺はしばらく執政といちゃいちゃしなきゃいけなくて、シャフラちゃんといられないから。シャフラちゃんは宮殿にいてもヒマなんだということにして、お休みしなくちゃ」
「そのようなことがございますか」
「じゃあ国王命令だ。下がれ。次の命令があるまで出仕するな」
「卑怯者っ」
ソウェイルが少し体を起こすと、シャフラも体を起こした。
彼女の大きな黒い瞳の周りは真っ赤になっていたが、確かに涙までは流れていなかった。
「まあ、俺の読みがはずれなければ年内には呼び戻すと思うけどな。ううん、もって半年――もしかしたらもっと短いかもしれない。そしたらすぐ宮殿に呼び出すから、それまで何ヶ月か自宅で静かにしていてくれ」
「読みがはずれなければ? 何が起こるのですか?」
「ちょっとな。勘みたいなもので根拠はないから言わない。俺が、執政と喋っていて、なんとなく、あ、と思ったことだから。シャフラは根拠のないこと嫌いだろ」
「さようではございますが」
シャフラが大きく息を吐いた。そして少しだけ間を開けてから、「下がらせていただきます」と頷いた。力なく、こくり、と頷く様は幼女にも似て弱々しいものだった。
「ところで、さっきなんか囲まれてたみたいだけど、ああいうのよくあるのか? 俺が帰省する前、宮殿で酔っ払ってた頃にはなかった気がしてたけど、俺の目が届いてないだけ?」
「あ、いえ」
ふいと目を逸らす。
「オルティさんがいると、こういうことは、ないのですが」
「あー……ごめんな、俺がオルティに別の仕事を頼んだせいか」
オルティは今現在蒼宮殿にいない。人が抜けて荒れた黒軍を立て直すため、エスファーナのごろつきと化しているチュルカの戦士たちを掻き集めているのだ。
平原出身者同士で話が合うかもしれないから、というのはソウェイルの判断だ。元来平原の遊牧チュルカ人は別の部族と喧嘩をするものだが、この三、四年では、ノーヴァヤ・ロジーナ帝国の南下で故郷を追われてアルヤ王国に来た者たちが多い。似た経歴の者が多いということだ。実際オルティもそうだった。ソウェイルには、探せばグルガンジュ王国の生き残りにも出会える、という確信もあるようだ。
逆に言えば白軍兵士としてのオルティにしかできなかった仕事には穴が開く。
「じゃあなおのことシャフラにはおうちにいてもらわないと。今の宮殿はシャフラにとって安全なところじゃない」
「……かしこまりました」
「ごめんな。本来はそこのとこ、俺がちゃんとしてればちゃんとするんだろうけどな」
彼は「俺は今執政といちゃいちゃしなきゃいけないから」と繰り返した。シャフラが初めて笑みをこぼした。
「さっきの兵士たちを呼び戻して家まで送らせる。どうせまたすぐ忙しくなるから、束の間のヒマを満喫してくれ」
「その時を心より楽しみにしております。それではしばし、御機嫌よう」
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