第20話 ソウェイルの周りで一番政治がうまい人

「ユングヴィは俺が何をしても褒めてくれた。どんな些細なことでも、ユングヴィは俺のいいところを見つけて伸ばそうとしてくれたんだ」


 廊下を歩きながらソウェイルが語る。


「たとえば、布団に入ってから寝るのが早い、とか。骨付き肉からきれいに肉を剥がして食べる、とか」


 いつもだったらここで、本当にしょうもない、とか、それはそれでソウェイルとユングヴィらしい気がする、とか、何らかの言葉を添えたところだろう。

 しかしオルティはいつになく緊張していて何も言えなかった。


 イブラヒムが呼んでいる。


 執政という、王に代わって政務を取り仕切る立場でありながら――王から政権を預かっている立場でありながら、王を呼び出して自分に挨拶させようとしている。


 ソウェイルより自分の方が上であることを示そうとしているのだ。


 イブラヒムのその行ないは、アルヤ王に対する侮辱であり、アルヤ王国臣民に対する侮辱であり、アルヤ民族に対する侮辱だ。


 だが、ソウェイルに動じた様子はなかった。自分が何をさせられようとしているのか分かっていないかのようだ。


 分かっていないかのよう、ではなく、分かっていないのかもしれない。


 ソウェイルはこの三年間政治の中枢にいなかった。イブラヒムのその行為にどんな政治的な意味があるのか、想像できないのかもしれない。


 止めるべきか、否か。


 ソウェイルは能天気だ。前を行くサータム人官僚は何も言わないが、一切振り向いたり話し掛けたりしないところからするに、彼もあまりにも穏やかなソウェイルの様子に戸惑っているのかもしれない。


「それで、ユングヴィが褒めてくれたことのひとつで、俺自身は当時はそんなちっちゃいことって思っていたけど、今思うと結構大きい、忘れられないことがひとつ」


 オルティもシャフラも何も言わず相槌さえ打たないので、ソウェイルが「どんなことか知りたいって思わない?」と問い掛けてきた。シャフラは「思いません」と即答したが、ソウェイルが「冷たい、訊いてほしい」とごねるので仕方なしに「どのようなところでございますか」と訊ねた。


「ひとに、ありがとう、と、ごめんなさい、を言うことに抵抗がない」


 確かに、そのとおりだ。ソウェイルはかなり簡単に「ありがとう」と「ごめんなさい」を言う。

 子供だったら素直であることの証として褒められたかもしれない。だが、今のソウェイルはアルヤ王だ。感謝も謝罪も国際問題に発展しかねない。言質げんちを取られることの恐ろしさを知らないのだろうか。


 背筋に冷たいものが流れる。


 ソウェイルとイブラヒムは、これから会って何の話をするのだろう。


「執政と話をしなくちゃ」


 何の、だろう。


「……ソウェイル」


 問いただしたくてオルティが口を開くと、ソウェイルは「なんでそんな怖い顔してるんだ」と素っ頓狂な声で言った。


「そんな怖いことじゃない。俺はイブラヒム執政を怖いと思ったことはない」

「本気か?」

「前のウマル総督も俺は可愛がってもらった。俺はサータム人が怖くないんだ」


 執務室の前に辿り着いた。


 執務室の出入り口を守っていた兵士たちがソウェイルに向かって頭を下げた。両開きの扉を開ける。


 部屋に入った。


 部屋の正面奥、柔らかそうな高級な布張りの座椅子に座り、宝石が埋め込まれた螺鈿らでんの文机に向かっているイブラヒムが、顔を上げた。

 その眼光は鋭く、射抜くようだった。威圧的だ。


 オルティは自然と緊張した。警戒した。


 今度は何を仕掛けてくる気だろう。


 ソウェイルが一歩前に出た。


「久しぶりだな。長らく留守にしてしまって申し訳なかった」


 彼の横顔は涼しげで、何も考えていないかのようだった。

 何も考えていないのかもしれない。分からない。オルティにはこういう時のソウェイルがいまいちつかめない。

 おそらく、何かは考えているはずだ。確信を持って言えるわけではないが、いつかソウェイル自身が顔に出ないことで誤解されやすい、と言っていたことがある。顔に出ないだけだ。たぶん本人の内心は表面の顔とは違う。


 そして、思う。


 それは施政者として得な性質だ。

 腹の中で何を考えているか周りの人間に悟らせずに済む。

 たとえば、冷静沈着でいるように見せかけることもできる――今のように、だ。


 はったりが効く。


「久しぶりだな、ソウェイル。もう二度と会えないかもしれないと思っていた」


 そう言うイブラヒムも表情が変わらない。どういう感情をもってその台詞を口にしているのか分からなかった。喜んでいるのか、悲しんでいるのか――十中八九前者だが、それすらも悟らせない。


 オルティは今気づいた。


 ソウェイルもイブラヒムも、表情が変わらない。二人とも、とても冷静そうに見える。落ち着いていて、争いごとは起きそうにないと感じる。


正月ノウルーズをすっぽかしてしまった。今からやってもしょうがない。夏至祭りを正月ノウルーズ並みに大きくやろうと思う。そこにはユングヴィとサヴァシュも出てきてくれると言っていた」

「好きにするといい。それは君たちアルヤ人の宗教行事だ。我々異教徒は関与しない、そういう取り決めだ」

「分かった。俺の思うとおりにする」


 そこで、ソウェイルが、一瞬、にこ、と笑った。


「ありがとう」


 イブラヒムが初めて片眉を持ち上げた。これもまた一瞬のことだったのでその真意はつかめなかったが、彼の中に何らかの変化が生じたのはオルティにも分かった。


「何がかね。皇帝陛下がお認めになった法に則ってのことで礼を言われるようなことではないと認識していたが」

「それだけじゃなくて。俺が宮殿を留守にしていても、民衆が勝手に正月ノウルーズをやることを許してくれた。宮中行事としての正月ノウルーズはなかったけど、庶民は七つの縁起物を飾ってふつうに新年を迎えてた」

「止められるものではなかろう。そこを制限していたら弾圧であり私は圧政者とのそしりを受ける」

「でも、やろうと思えばできる」


 イブラヒムがそこで初めて手にしていた葦筆ペンを机の上に置いた。


「君はアルヤ王でありながらアルヤ民族を過小評価しているようだ。君たちアルヤ人が本気を出すことを我々がどれほど警戒しているかもう少し意識した方がいい。それを手放して我々にゆだねたいと言うのならば別だが――そこは相談に乗ろう」

「相談に乗ってくれるのか」


 胸の奥が冷える。


「嬉しい」


 ソウェイルが、一歩、前に出た。


「アルヤ民族とサータム民族は兄弟だ。そうだろう?」


 どこかで聞いたことのある言い回しだったが、そうと指摘できる余裕はない。


「俺は、あんたたちの言うとおり、何も知らない若造だから。サータム皇帝を兄として、アルヤ王を弟として。しばらくの間、面倒を見てもらいたいと思う」


 シャフラが「何を言って――」と言い掛けたが、ソウェイルが片腕を掲げてそれを制した。


 ソウェイルが何を考えているのか分からない。

 それは実質主権をゆだねるということに通じるのではないか。アルヤ人が戦って勝ち取ってきた権利をサータム人にゆだねてしまうのか。


 しかしソウェイルも口を挟ませることを許す雰囲気ではなかった。


 彼はさらに続けた。


「教えてほしい」


 イブラヒムが初めて目を丸く見開いた。

 彼がこんな表情をするのは、オルティが知る限り、初めてだった。

 ソウェイルは、イブラヒムから、動揺を引き出した。


「俺はしばらくあんたに師事する。俺に政治を教えてくれ」


 イブラヒムが口を薄く開いた。何かを言い掛けた。だが言わなかった。軽く右手を挙げたがその手はどこにも下ろされることなく空中で硬直した。


「俺が知っている中で一番政治がうまいのはあんただから」


 圧倒的な力を感じた。

 ソウェイルから、だ。

 あの小さくて可愛らしかった少年はもういない。

 ここにいるのは、他人の国で絶対王政を敷く男の獅子身中の虫と化そうとしている、非常にしたたかな若者だ。


「サータム帝国ほどの大帝国だったら、たかだか属国の王を一人育てるくらい、何ともないだろう?」


 その言葉は脅しにも聞こえる。


「俺があんたの弟子としておとなしく勉強している間は、皇帝陛下はサータム帝国に従順な可愛いアルヤ王を廃そうとは思わないんじゃないのか」


 イブラヒムはしばらく何も言わなかった。眉間にしわを寄せ、斜め下の文机の上を眺めていた。

 ややして、溜息をついた。


「自分で自分のことを可愛いと言うのではない」


 首を縦に振ることも横に振ることもなくまっすぐソウェイルを見据えて「いいだろう」と答える。


「アルヤ王である君が、アルヤ王がサータム皇帝の都合の良いような教育を受ける可能性を差し引いてもそうする価値があると思うのであれば、君を一時的に、便宜的に私の奴隷と同じ扱いをして私の政務を傍で観察することを許そう」


 ソウェイルは微笑んで頷いた。


「ありがとうございます。よろしくお願いします」




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