第19話 フェイフューが積み上げてきたもの

 蒼宮殿に帰ってソウェイルがまず向かった先はかつてフェイフューが使っていた部屋だった。


 ソウェイルは侍従官たちにフェイフューの部屋を片づけないよう命じていた。

 深い意味はなかったようだ。彼自身の感傷とカノのわがまま故だった。


 フェイフューの部屋は彼が最後にこの部屋を出た瞬間に止まったままだ。荒らされているわけではない。しかもソウェイルの言いつけで時々掃除されている。いつ当人が帰ってきても生活できる状態になっていた。


 そこをソウェイルは自分の手で片づけ始めた。


 オルティに手伝わせて、長持ちを二人がかりで廊下に運び出す。

 ふたを開けると、肌着や部屋着の類が出てきた。


「シャフラ、この中身をすべて捨てるよう手配してくれ」


 シャフラは一拍間を置いてから「かしこまりました」と言って首を垂れた。

 彼女はどうやらそんなソウェイルの言葉に少し驚いたようだった。


 シャフラもまた表情の変化に乏しい女だが、オルティには何となく彼女の感情の揺れ動きが分かるようになっていた。今の一瞬、彼女はきっと多くのことを考えたはずだ。

 オルティも、だ。


 居住の間とつながっている衣裳部屋にも入っていき、覆いの布を払った。上着を掛ける棒に王子として常に最高級品を身につけていた彼らしい衣服がずらりと掛かっている。


「これも全部処分だ」

「全部、でございますか」

「ひとにやれないだろ。孤児院や下級兵士に配るのもちょっと考えたけど、並みのアルヤ人だったらさすがに反逆者のおさがりは着れないんじゃないか。布もやたらめったらにいいやつだし、王家の紋章が刺繍されてるのもあるし……、ばらして端切れにした上で何かに使うのがいいかもしれない」


 白地に金の縁取りのある上着をひとつ手に取り、抱き締める。


「俺が着てもいいかな、っていうのも、ちょっと思ったけど――」


 ソウェイルが、哀しそうに笑った。


「俺、今、死んだ時のフェイフューよりちょっとだけ背が高くて、きつそうなんだ」


 オルティは何とも言えない気持ちになった。


 オルティはフェイフューが嫌いだ。憎いとさえ思う。その気持ちは一生変わらないだろう。

 だが、だからといって、ソウェイルがフェイフューを悼む気持ちを否定するのは違う。それはオルティではなくソウェイルの領域の感情だ。そこにずかずかと踏み込んでいくのはフェイフューではなくソウェイルを傷つけることになるのだ。ソウェイルがつらいならつらいままでいいのではないか。

 もうフェイフューの話をするのはやめよう、と思った。ソウェイルの中で美しい思い出になればいい。死者を憎むのも生者の権利で、死者を愛するのも生者の権利だ。


 フェイフューの衣装をすべて部屋の外に出すと、今度は靴も引っ張り出した。


「これは爪先とかかとに鉄が入ってるから解体して再利用」

「はあ」


 シャフラはフェイフューの机から勝手に筆記帳ノートを持ち出した。そして、いつも腰にくくりつけて携帯している極細の筆箱から葦筆ペンを取り出した。ソウェイルの指示を書きつける。


「刀剣の類は宝物庫に移す」


 高級そうな短剣が三本出てきた。いずれも柄に碧玉エメラルドや珊瑚が埋め込まれている。彼も豊潤なるアルヤ王国の王族で成人男性だったのだ。


「そして――」


 物の少ないフェイフューの部屋で、もっとも大きな専有面積を占めている棚に向かった。


 本棚だ。

 大量の本が、積まれている。


「これは、全部、俺の部屋に運んでくれ」


 膨大な冊数だ。十冊や二十冊ではない。少なく見積もっても二百冊を超える本が、棚に納まっている。


「読むのか?」


 オルティが訊ねると、ソウェイルは間髪入れずに「ああ」と答えた。


「全部読む」

「読めるのか?」

「正直なところ読めないと思う。読んでも意味が分からないと思う。アルヤ語じゃない文献もありそうだ。三年前までに家庭教師からサータム語と大華たいか語をちょろちょろと習っただけの俺じゃ訳せないと思う」


 力強い声で「でも読む」と言う。


「ここにあるのはフェイフューが再読したくてあえて手元に置いておいた本だけだ。フェイフューは図書館や大学でこの何倍もの本を読んでいるはずなんだ」


 うち一冊を手に取った。

 表紙に書かれている文字は一見するとアルヤ語に見えたが、文字列から察するに、サータム語だ。慣習的に、アルヤ語、サータム語、チュルカ語は同じ文字を使っているが、文法構造は三言語ともまるで異なる。文法を勉強していなければただの発音記号でしかなく意味は分からない。


「努力しなくちゃ」


 題字を指先でなぞる。


「フェイフューと同じくらい勉強しなくちゃ。いっぱい本を読んで、分からないところは人に聞いて、たくさんのことを覚えていかなくちゃ。でないとあいつと同じ舞台に立てない」


 どれだけ努力したところで、死んだフェイフューと同じ舞台に立てる日は来ない。けれどソウェイルがそこを目指すと言うのなら、オルティには手伝う覚悟があった。おそらくシャフラもだ。むしろ、彼女はそのためにいるのかもしれなかった。


 シャフラも本棚を見上げている。彼女は片づけを手伝う気はなさそうだ。高貴な身分の姫君である彼女は膨大な紙の集まりである本の束を持たない。少し腹が立つが、下手に動き回られて怪我をされても困るし、力仕事は男で兵士のオルティの仕事だ。

 本棚から出して廊下に積み上げる。おそらく最終的には本棚ごとソウェイルの部屋に運ぶことになるだろう。


「あと……、そうだな」


 フェイフューの机のひきだしの中、勉強に使っていたのだろう筆記帳ノートと辞書も引っ張り出す。これもソウェイルの部屋に運べということらしい。


「連れ戻さなきゃ」


 シャフラが「誰をです?」と訊ねた。


「ラームテインだ」


 紫の神剣を持って宮殿から消えたあの美しい人だ。会話をしたことのないオルティは実感がないが、十神剣でもっとも軍才に長け古今東西の兵法に通じていたという。たった十四歳でタウリス戦役を勝利に導いたという天才だ。


「あいつを俺に仕えさせて初めてフェイフューのものを全部俺のものにできたことになる気がするんだ」


 シャフラが「お捜ししますか?」と問い掛ける。


「王立図書館で見掛けたという噂も聞くのでそう遠くに行っているとは思いませんが」

「いや、今すぐじゃなくていい。というか、あえて捜さなくても、俺にはだいたいの居場所が分かるから、いい。むりやり体だけ連れ戻しても心ここにあらずだったら無意味だ。だから今じゃない」

「居場所をご存知なのです?」

「紫の剣がつきまとってるからな。紫は性格がこの上なく悪いからラームの意思を無視して俺に移動先を教えてくれてる、ラームが逃げ惑うのを面白がってるんだ」

「神剣にも性格があるのでございますね」

「そうだ。とても個性豊かだ。だからこそ困ったことになる。たとえば――」


 机の上に、筆記帳ノートを並べる。


「橙は義理堅いからカノを守ろうとしてる。カノの行き先を俺には分からないようにしようとしてる」


 ソウェイルもシャフラもオルティも、一瞬動きを止めた。


「まあ、でも、保留で」


 ソウェイルが溜息をつく。


「カーチャとカノのことはちょっと置いておく。俺が傷つくから。今はお勉強で忙しいので俺のことを好きになってくれない女の子にそこまでの労力は割きません」


 オルティはそれでいいと頷いたが、シャフラは「あらそうですか」と嫌味っぽい声を上げた。


「では、いつになるのでございましょう」


 笑いを噛み殺した。

 シャフラにとってのカノは今でも友達で、本当は大事な友達のためにソウェイルに労力を割いてほしいのだ。


 ソウェイルがシャフラを見据える。


「ごめんな。分かってはいるんだ。俺はカノとカーチャの人生をめちゃくちゃにしてるし、そうでなくてもこの三年間クソみたいな生活をしてきた。今の俺はゼロじゃなくてマイナスからの出発だ」

「畏れながら申し上げますと、まことにそのとおりで、今の陛下は国の内外から酒色に溺れた暗愚の王と呼ばれております」

「ぜんぜん畏れてないだろ、まあシャフラのことだから分かってたけど」


 それでも今日のソウェイルはどこかあっけらかんとしている。


「ちょっとずつ、ちょっとずつ。信頼関係は何年もかけて築き上げていくものだし、人間の心は俺の一方的な働きかけだけではどうにもならないから。あと、俺の今日の目標はお昼寝をしないことだから、すでに達成していて自分で自分を褒めてあげたい気持ち」


 シャフラが「一言余計です」と言いながらソウェイルの側頭部を思い切りはたいた。


 開けっ放しにしていた扉の方から声を掛けられた。


「陛下、いらっしゃいますか」


 三人揃って出入り口の向こう、廊下の方を見ると、サータム人官僚の青年が立っていた。

 オルティは息を呑んだ。シャフラも身を固くしたのが分かった。

 イブラヒム執政の数名いる秘書官のうちの一人だ。


「完全にお戻りになられるのですか」


 ソウェイルが「ああ」と頷くと、青年は「では」と応じた。


「執政がご挨拶をさせていただきたいとのことです。執務室までおいでくださいませ」


 オルティは目を丸くした。

 言葉の上では丁寧だが、イブラヒムはアルヤ王であるソウェイルに挨拶に来いと言っているのだ。自分から出向くのではなく、ソウェイルを自分のところに来させようとしているのだ。

 それは、侮辱だ。


 シャフラも同じことを思ったようだ。


「挨拶をしたいとおおせならば閣下が陛下のもとにおいでくださるべきではございませんかしら。陛下は閣下に御用は――」

「いや、」


 シャフラの言葉を遮ったのはソウェイルだ。


「行く」


 今度こそシャフラが驚いた顔をしてソウェイルを見た。

 けれど、ソウェイル自身は、何のこともない、いつもと同じの、何も考えていなさそうな無表情で、


「執政に挨拶に行く。今すぐ行くから、みんな一緒に来てほしい」




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る