第18話 やっぱり、この国にいたい
その女性はシャフルナーズ・アフサラ・ルーダーベ・フォルザーニーと名乗った。
黒目がちな瞳を守る長い睫毛は濃く密集している。高い鼻筋はしっかりしているが小鼻は小さい。引き結ばれた唇は紅く薔薇の花を思わせた。
後ろ髪は銀糸の刺繍の施された紫の布に覆われていて見えないが、長い前髪は黒々としていて豊かだ。
白地に銀糸の刺繍の服は布がたっぷりと使われているためか体の線は出ない。けれどそのすらりとした立ち姿はまるで糸杉のようでいにしえの神話に出てくるアルヤ美人を思わせられる。
想像以上の、絶世の美女だった。
連れてきた護衛官たちはソウェイルを守るための白軍兵士だったが、ユングヴィの目には彼らがシャフラを守るためについてきているように見えた。シャフラはそれほど高貴で雅な立ち振る舞いで、ともすれば彼女こそ女王であるかのようだった。
よくぞ軽率に呼べなどと言えたものである。
実際にソウェイルがオルティを通じて家に呼んでくれたわけだが、余計なことを言うのではなかった。
彼女はユングヴィとサヴァシュを前にしてひざまずいた。
アルヤ王国臣民として十神剣に膝をつくのは当然のことだ。けれどあまりにも畏れ多くユングヴィは自分をそんな身分の者とは思えなくて激しく動揺した。
サヴァシュは無言でシャフラを見つめている。その横顔は冷静そうに見える。しかし付き合いの長いユングヴィは知っている。彼も彼なりに困惑している。悟られないよう表情に出さないだけだ。
「はい。みんなが見たがっていたシャフラちゃん」
ソウェイルがあっけらかんとした声で言う。
その態度があまりにも軽々しく憎々しかったのでユングヴィは思わず彼の頭をはたいた。ソウェイルが「なんで今俺ぶたれたんだ?」と呟きながらはたかれた部分を撫でた。
「お迎えに上がりました、陛下」
シャフラが落ち着いた声音で言う。あまりにも落ち着き払っていてソウェイルと同い年とは思えない。表情にも変化がなく、ともすれば冷たくも感じられてしまうくらいだ。
つい、まじまじと眺めてしまった。
ソウェイルやオルティの口ぶりからもっと可愛らしい女性を想像していたが、知的な美女で、近寄りがたい。普通にしていたら会話することのない種類の女性だ。
ソウェイルの好みでもオルティの好みでもない。
ソウェイルはおっとりとして柔和で豊満な体型の女性が好きだし、オルティは顔立ちが地味でひとの言うことをおとなしく聞く女性が好きだ。
ユングヴィは首を横に振ってそんな考えを振り払った。若者がみんな色恋沙汰に熱心とは限らない。ソウェイル、オルティ、シャフラの三人ともに失礼だ。口には出さないでおく。
「本当に宮殿にお戻りになってよろしいのですね」
念を押すような言い方には少し厳しさも感じたが、ソウェイルは一切気負うことなく簡単に「ああ」と答えた。
「行く。今度こそ、やらなくちゃいけないことをやる」
シャフラが睫毛を伏せるようにわずかに斜め下を見て「かしこまりました」と言った。
黙って様子を見ていたオルティが口を開いた。
「シャフラ、嬉しいなら嬉しいと言え」
彼女は即時に切り返した。
「貴方の妄想をわたくしに押し付けないでくださいます? このわたくしが陛下のいったい何に喜ぶと?
聞いているだけのユングヴィの胃が痛い。
「シャフラの言うとおりだ。俺はまだ何にも始めてなくて、シャフラに評価してもらえるようなことはない」
ソウェイルが、一歩を踏み出す。
家の敷地を出ようとしている。
玄関から門へと続く石畳を越えて向こう側へ行こうとしている。
胸の奥を、ぎゅ、と握られるような痛みを覚えた。
寂しくなどないはずだった。
蒼宮殿は近い。ここから馬で四半刻くらいだ。十神剣である自分ならいつでも会える。二度と会えないどころか、遠くに行くわけですらない。機会ができればまた泊まりがけの帰省をすることもあるはずだ。
それでも――ユングヴィは確信していた。
ソウェイルがこの家で暮らすことはもうないだろう。
彼は大人になった。巣立ちの時だ。体調も安定していて不安なところはない。
親として喜ぶべきことだ。
なのに寂しい。
腕の中で眠る生まれたての三男を抱き締めた。
「ソウェイル、ひとつお願いがあるんだけど」
言うと、ソウェイルがこちらを向いた。
「この子に名前をつけてくれる?」
ソウェイルの蒼い目が赤子の顔を見る。赤子は顔立ちがころころと変わって今は何となくユングヴィの父親に似ているように見える。
「名前? 俺が?」
「そう。あんたが取り上げた子なんだからさ」
「ホスローも俺がつけた。二人目になってしまう」
「いいの。うちは男の子が生まれたら歴代のアルヤ王の名前を取ってつけるって決めてんの」
「はあ。まあ、言われてみれば確かに、ホスローもダリウスも昔々の王様の名前だな」
少し考えたようだった。間が開いた。真剣に考えてくれるのが嬉しい。
「ヤズデギルド」
「強そうすぎるから却下」
「じゃ、アルダシール」
「もうちょっと庶民でも違和感のない名前ないの?」
「クロシュかな。古語だとキュロスって発音になるんだけど、現代風にクロシュって言えば普通にその辺にいる感じになる――か?」
ユングヴィは大きく頷いた。
「この子はクロシュにする! 決まり!」
隣のサヴァシュの顔を見て、「ね、いい?」と訊ねる。サヴァシュは間を置かず「ああ」と応じて少しだけ笑った。
「そうか。お前は今日からクロシュって名前になるのか」
ソウェイルが微笑む。
「お前の時代こそ、俺の時代にしてやるからな」
安心して、ユングヴィは笑った。
ソウェイルが顔を上げる。
「俺からも、ひとつ、ユングヴィにお願いがある」
軽い気持ちで、ユングヴィは「なに?」と応じた。
叶えられないことなどないと思っていた。ソウェイルのすべてを受け止めてやれる。何を言われても大丈夫だと確信していた。
だが、次の時、ユングヴィは、血の気が引くのを感じた。
「アルヤ王国にいてほしい」
クロシュを産む直前のことを思い出した。
自分たちは――ユングヴィとサヴァシュは、子供たちを連れてこの国を出ていくつもりでいたのだ。クロシュを最後に子作りを控えて、草原で新生活を始めるつもりだったのだ。
ソウェイルは穏やかな表情をしている。まるで何もかも見通している顔だ。
「サヴァシュに聞いた。チュルカ平原に引っ越したいんだってな」
クロシュを抱く腕に力を込めた。そうでなければ震えてしまいそうだった。
「引っ越しを中止してほしい。この家での――この都での暮らしを続けてほしい」
「ソウェイル――」
「死ぬまで永遠に、とは言わない。でも、申し訳ないけど、あと一、二年で、というのはちょっと早すぎる」
苦笑して、「できる限り急ぐから」と言う。
「俺が立派な王様になるのを見届けてほしい。俺が俺の国を確立するまで、ここから見守っていてほしい」
即答できなかった。
それはサヴァシュの二十年にもわたる悲願だ。サヴァシュの故郷であり夢の果てでもある土地を目指して自分たちは行くのだ。今まで、ユングヴィに、そしてアルヤ王国のために尽くしてきてくれた彼へのお礼の気持ちであり、大事にされてきた分大事にするための計画だった。
サヴァシュをこれ以上踏みにじりたくない。
でも――涙が溢れてくる。
ユングヴィは、自分が本当は何と答えたいか分かっていた。
それでもサヴァシュを裏切りたくなくてこらえて呑み込もうとした。
それが苦しくて苦しくてたまらなくて言葉が出なかった。
守りたいものが増えれば増えるほど身動きが取れなくなる。
ソウェイルは、待っている。
きっと、ユングヴィが頷くと信じて、待っている。
苦しい。
ユングヴィの涙がクロシュの肌着に落ちた頃、隣から大きな手が伸びてきた。
そして、ユングヴィの後頭部を撫でた。
「ここにいるか」
その手が、その声が、あまりにも優しくて、
「まだ、もう少し。この国がどうなるのか、ここで見ていることにするか」
我慢できなくなって、クロシュの胸に顔を埋めて泣いた。子供たちが見ている前なのに声を上げて泣いた。
「ごめんなさい」
ソウェイルの傍にいたい。
「ごめんなさい……!」
そんなユングヴィの肩をサヴァシュが抱いた。
「わ……、私、私……っ、」
「大丈夫だ」
「ソウェイルが、立派な王様になるのを、見たい」
「そうだな。俺もだ」
「ここにいたい。この国にいたい……!」
クロシュを抱く左手に誰かの手が触れた。
顔を上げると、三歩分家の敷地内に戻ってきたソウェイルが、ユングヴィの手をつかんでいた。
「ありがとう」
表情は落ち着いているが、声が震えている。
「俺、頑張るからな。二人が安心して旅立てるように」
その言葉を最後に、ソウェイルは手を離し、踵を返して、門の外へ出ていった。
シャフラとオルティが続く。オルティが軽く頭を下げてから門を閉める。
出ていってしまった。
「大丈夫だ」
でも、ずっと、サヴァシュは傍にいてくれた。
「あいつはいつかきっと何かを成し遂げる――何かは分からんが。俺は気が長いからそれくらいは待てる」
ユングヴィは何度も頷いた。
「二人で。最後まで、見届けるぞ」
「うん……!」
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