第17話 髪が蒼くなくても、俺自身の力で

 懐かしい声を聞いた。


 ――ユングヴィ。


 少年の声だった。穏やかで落ち着いているが、どこかぶっきらぼうで不器用なところもある、まだ幼さの残る若い男の子の声だ。年齢はおそらく、初めて彼の声を聞いた時のユングヴィと同じくらい――つまり、十四歳くらいだろう。


 忘れるはずもない。きっと一生忘れないだろうと思っていた、神剣の声だ。


 初めて彼の声を聞いた十四の時からもうすぐ十五年になる。その間この声を聞くことはなかった。他の将軍たちに聞いても、神剣の声は神剣を抜いた瞬間に聞こえなくなるものだ、と言っていた。


 それが、今、十五年ぶりに話し掛けてきている。


 ユングヴィは目を開け、上半身を起こした。


 声が頭の中に響いている。


 ――来てほしい。


「どこに……?」


 ――俺たちの王を抱き締めてほしい。


 それが最後だった。彼はふたたび沈黙した。


 布団を出る。


 傍らの揺りかごに生まれて半月の三男が眠っている。

 彼が安らかに眠り続けているのを確認してから、ユングヴィはそっと部屋を出た。


 神剣は具体的な場所を言わなかったが、ユングヴィは神剣のあるところに会いに来てほしいのだろうと解釈して、神剣を安置している部屋に向かった。一階の中庭に開けた前面開放広間イーワーンだ。部屋の中庭から見て正面に当たる南側の壁に神剣を置くための突起をつけたのだ。これもテイムルの勧めだった。その辺に転がしておいて怒られたのである。


 この家には神剣が二本ある。

 前面開放広間イーワーンの刀剣掛けは上下に二対あり、上に黒の神剣が、下に赤の神剣が置かれている。


 階段を下り、前面開放広間イーワーンに辿り着いた時だった。


 ユングヴィは目を丸く見開いた。


 赤の神剣が刀剣掛けにない。


 慌てて辺りを見回した。


 前面開放広間イーワーンは居室のひとつだが中庭側の壁がない。北側を見ればすぐそこは庭だ。


 中庭の手前、植樹してからずいぶんと大きく育った木の下に、二人の人物が立っている。


 一人はアイダンだ。彼女は両手で大きな化粧鏡を掲げていた。


 もう一人はソウェイルだ。

 神剣を持ち出したのはソウェイルだった。彼が神剣を握っている。


 何をしているのだろう。


 ユングヴィはしばらく二人の様子を窺うことにした。


 驚愕の展開が待っていた。


 ソウェイルが、左手で鞘を持ち、右手で柄を握った。

 引いた。


 ユングヴィにしか抜けないはずの剣が、抜けた。


 紅蓮の燐光が一瞬辺りに輝いた。


 思わず声を上げそうになった。なぜ、どうして――決まっている、『蒼き太陽』だからだ。


 『蒼き太陽』は、十神剣の上に君臨する。十の軍神の上に立つ、アルヤ民族の最高神だ。


 彼にだけは、将軍にしか許されないはずの神剣を抜くことができる。


 ユングヴィは驚きのあまり腰を抜かしそうになっているが、ソウェイルの前に立っているアイダンは冷静だ。まるで知っていたかのように当たり前の顔をしてソウェイルを見上げている。大した子だ。肝が据わっている。この子は父親に似ている。


 アイダンに神剣を見せてあげているわけではないらしい。


 では、何のために――


 ソウェイルは、まず、鞘を地面に置いた。

 そして、右手一本で剣を握ったまま、左手を自分の首の後ろに伸ばした。

 一本にまとめられた長い蒼い髪をつかんだ。

 腰に届くほど長い三つ編みの毛先が揺れた。


 強く、握り締める。


 紅い刃を、当てる。


 引く。


 じょき、という、強烈な音がした。


 血の気が引いた。


 アイダンの掲げ持つ鏡を見ながら、刃を左右に動かして、蒼い三つ編みを切り落とそうとしている。


「ソウェイル!!」


 急いで中庭に下りた。

 止めようとした。

 だが産後でなまったユングヴィの体では間に合わない。


 ユングヴィの手がソウェイルに辿り着く前に、ソウェイルの長い三つ編みが首の後ろから離れた。


「お前にやる」


 ソウェイルがそう言ってアイダンの方に左手を突き出すようにして三つ編みを差し出した。アイダンが顔をしかめて「いらない」と答えた。


「あんたなんてことしたの!!」


 そう怒鳴ると、ソウェイルもアイダンもようやく顔をユングヴィの方に向けた。いることは分かっていただろうに生意気な子供たちだ。


 ソウェイルの左腕をつかんだ。その衝撃でソウェイルは髪から手を離した。神聖な蒼い髪が無造作に地面へ投げ出された。アイダンが「あー」と真意の分からない声を上げた。


「待ってくれ、しまう」


 ソウェイルは落ち着いている。振り払うというほどでもないゆっくりとした動作でユングヴィの手を押し退けると、鞘を拾い、剣を納めた。

 その様子からするに何か自棄やけを起こしたわけではなさそうだ。傍目から見ていると一種の自傷行為に思えたが、ソウェイル自身に大きな動揺があるようではない。アイダンもおとなしく鏡を持って手伝っていたくらいだ――彼女はここぞという時には父親譲りの行動力で騒ぎ立てる。


 だがその蒼い髪はただの毛ではない。アルヤ民族の信仰と正義の象徴で、何にも代えがたい聖なる髪だ。


 その重みを分かっていないわけではないだろうに、ソウェイルはなぜ、こんな凶行に走ったのだろうか。


 一般人がやったら縛り首になりそうなことをやってのけたソウェイルは、すっきりした顔で微笑んでいた。


「軽くなった。さっぱりだ」


 むりやり断ち切られた髪の裾はざんばらで、毛をむしられた後に見えてとても不格好だったが、本人は嬉しそうですらある。


「もう金輪際伸ばさない。つべこべ言うテイムルもいないし、いいだろ」


 そう言われて、ユングヴィははっとした。

 言われてみれば、ソウェイルが自分で髪を切ってしまうのはこれが初めてではなかった。

 ユングヴィと暮らし始めたばかりの頃、自分はこんな色の髪をしているせいでつらい目にばかり遭うと言って切り落としたことがある。あの時ソウェイルは六歳だった。

 その時のことが鮮明に思い出される。


「自分の髪の毛、嫌い?」


 悲しさのあまり逆に静かになった声で、問い掛けた。


 ソウェイルは即答しなかった。だがその目はどこか優しかった。ユングヴィをなだめるような目つきで、穏やかな声で、ゆっくり話し出した。


「好きじゃないな。でももう嫌いだとも言わない」

「どういうこと?」

「もう自分の髪にこだわるのをやめるんだ。伸ばすことはない。かといって刈り取るつもりもない。普通のアルヤ人男性と同じ短髪で生きる。ごく普通の、みんなと同じ――フェイフューと同じ髪形で」


 力強い、まだ若いがおとなびた、青年の声だった。


「髪が蒼くなくても。お前が王で良かったと、言われるように。誰もが俺の髪の色なんか忘れて、アルヤ王国の歴史に連なるただの王の一人として、見てくれるように」


 そして、一人で頷く。


「もしも、フェイフューが王になっていたら、そうであったように。髪が蒼くなくても王であろうとしたフェイフューのように――それでもフェイフューではなくお前を選んでよかったと言われるように」


 ユングヴィは、自分の頬に涙が流れていくのを感じた。


「俺自身の力で。蒼い髪のおかげではなく。俺の言動が。俺の努力の結果が。フェイフューと同じ条件で。認められるように」


 ソウェイルは、穏やかに微笑んでいる。すべてを受け入れた強さを感じさせる笑顔だ。


「将来俺は、『蒼き太陽』とは呼ばれなくなるかもしれないけど。むしろ、そうであるように。そのために、俺はこの髪と決別する」


 改めて腕を伸ばした。

 ソウェイルを強く抱き締めた。

 涙が止まらなかった。


「俺。これから、頑張って、立派な王様になるからな」


 あの時の小さな王子様はもう大人になった。

 今度こそ悲しくなかった。

 自分の育てた小さな可愛い王子様が、立派な王様になろうとしている。

 嬉しかった。

 幸せだ。


「頑張ってね」


 そして思うのだ。


「ずっと応援してるからね」


 自分はもうこの子を一人前の大人として認めて送り出さないといけないのだ。


 ソウェイルの目の前には砂漠に似た厳しい未来が広がっているはずだ。

 でも、旅立とうとしている。歩き出そうとしている。

 その一歩を踏み出すために、彼は髪を捨てたのだ。不要な荷を捨てて身軽になったのだ。

 未来は厳しいが広い。可能性に満ち溢れている。

 砂の海を乗り越えた先に彼の王国が待っている。


「だいじょうぶ。あんたはできる子だからね。あんたは強くて優しい子だから、きっとだいじょうぶだからね」


 ソウェイルが「うん」と頷きながら抱き締め返してきた。


「がんばる」


 二人が固く抱き締め合っているその脇で、アイダンが「わたしがいるのをわすれるなよな」と呟いた。二人は身を離して、小さく笑って一緒にアイダンの頭を撫でた。アイダンは左右から撫で回されてご機嫌斜めの様子だ。




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