第16話 立ち上がらなくちゃ。立派な王様にならなくちゃ

 それからも、何人かの男がソウェイルに挨拶をしに来た。いずれも平凡なエスファーナ市民で、だいたいは中央市場に店を構える職人のようだった。

 皆、最初はひざまずき、時にはぬかずきながらだった。しかしソウェイルが面を上げて普通に接するよう言うと破顔し、緊張を解いて少年時代のソウェイルの思い出話を始める。

 ソウェイルとサヴァシュはよほど通い詰めていたらしい。

 白軍兵士をしているオルティからすると胃の痛い話だ。テイムルはどれだけ心労を重ねただろうと思うと涙を禁じ得ないが、話をするたびにソウェイル自身も少しずつ緊張が解けていっているように見えたので、複雑な心境になる。


 やがてひととおり挨拶が済んだのだろうか、近寄ってくる人間がいなくなった。浴室にいた人間がソウェイルの存在に慣れ、それぞれ体を洗ったり別の浴室に移動したり茶を飲んだりし始める。


 サヴァシュとオルティの間で膝を抱えていたソウェイルが、はあ、と大きな息を吐いた。


「俺、もっと嫌われてるかと思ってた」


 ぽつりぽつりと、小さな声だ。


「いくらなんでも宮殿の外にも俺が酒飲んで腐った生活をしているのは知られているだろうと思ってて。政治を放り出してクソみたいな王をやっている俺に不満を抱いていると思ってた」


 オルティには何とも答えられなかった。


 そう思っている人間はわざわざソウェイルに挨拶に来ないだろう。この場にいないだけだ。あるいはいたとしても大陸最強の男が隣にいたら何もできまい。


 もしくは、サヴァシュは最初からこの公衆浴場ならソウェイルに好意的な人間しか来ないことを予想して連れてきたのかもしれない。ここに来る人間は皆少年時代の可愛らしかったソウェイルを知っていて心配してくれると分かっていたのかもしれない。


 さらに深読みするなら――誰もソウェイルが悪いとは思っていないのかもしれない。


 『蒼き太陽』が乱れたのは邪神に匹敵する存在だったフェイフューのせいであり、『蒼き太陽』は何も悪くない。太陽神は無謬の存在なのである。少し酒浸りの生活をしたくらいで民草の信仰が揺らぐことなく、審判の日には復活してアルヤ民族を導いてくれると思っている。


 オルティはフェイフューが嫌いだった。チュルカ人を見下し、女性や貧しい人々を迫害する、自称高貴なアルヤ人の悪徳を凝縮した傲慢の象徴のように思っていた。

 しかし、アルヤ人の中には善なるソウェイルと悪なるフェイフューの二項対立があってソウェイルを批判することはないのだ、と思うと、複雑な心境になる。

 はたして、悪を倒したら世は平和になるのか。

 フェイフューの死は、悪の滅亡であり、宗教的に適う浄化の儀式だったのか。


 フェイフューも、人格のある、自分たちと同い年の少年だった。


 オルティという一個人がフェイフューという一個人を嫌っていたのとは規模が違う。


 フェイフューは、本当に、滅ぼすべき悪だったのか。


 そこまで考えていないのか、サヴァシュは「そんなもんだろ」と言った。


「みんなお前が十かそこらから見てるからな。近所の子供が大きくなってたら嬉しいだろ。多少道を踏み外していても更生の余地ありと思えば安心する」

「更生の余地かぁ」

「王っつったって当時は十六だ。十六の若者なんて子供と一緒だ。無理をすれば道を踏み外す。多くの人が通ってきた道だ」

「みんなそうは思ってなかったと思うけど」


 ソウェイルの言うとおり、それはサヴァシュが基本的にソウェイルを神として信仰していないチュルカ人だから言えることだ。軍学校で教育を受けたオルティはアルヤ人がソウェイルをどう見ているか知っていた。何も言えない。


 少し、間が開いた。


「――ちょっと、俺の話してもいい?」


 ソウェイルが口を開く。


「愚痴みたいなものだ。気持ちの整理をしたいだけ。だから、助言とかはしてくれなくていい。いや、しないでくれ。相槌だけ打って、何となく胸に留めておくだけにしてほしい」


 サヴァシュが「おう」と答えた。オルティも「ああ」と頷いた。


「俺、努力というものをしたことがないんだ」


 噴水の湯を噴き上げる音が響く。


「子供の頃からそうだ。俺は『蒼き太陽』として祭事ができればよかったし、体がそんなに丈夫じゃなかったこともあって、血がつながっている方の両親も俺にたくさんのことをやらせようとはしなかった。乳母たちやシーリーンも俺が疲れたといえば飲み物や甘いものを用意して昼寝のための支度をしてくれた」


 シーリーンというのはソウェイルが小さい頃に宮殿にいた子守りの女官のことだ。ソウェイルのお傍付きにふさわしく高度な教育を受けた貴族の娘である。今は嫁いで宮殿にいないが、ソウェイルからすれば親しみのある女性の一人だ。


「ユングヴィと暮らしていた頃もそう。ユングヴィは俺が何をしても褒めてくれた。本当に、ほんのちょっとしたことでも。だからこそ俺はできることしかしなかった。ユングヴィが絶対褒めてくれるっていう確信を持てる得意なことだけした。失敗したくなかった。……今思えば、失敗しても慰めてくれたんだろうし、挑戦したことを褒めてくれただろうな、と思うけど。俺は新しいことに挑戦したくなかった」


 ソウェイルが極端に料理や図画工作に特化している理由がここにある。ユングヴィがソウェイルに得意なことだけをさせて伸ばしたのだ。


「サヴァシュと出会って、それからテイムルと一緒に過ごす時間が増えて、初めて、剣術をやれだの勉強しろだのと言われた。初めて、俺は苦手なことに向き合うことになった。でも結果は知ってのとおりで、武術の稽古は途中で辞めちゃったし、テイムルも無理強いはしなかった」


 その辺からは、オルティも知っている。確かに、ソウェイルは一応大勢の家庭教師をつけられて勉学をしているていになっていたが、そんなに必死になっている様子は見受けられなかった。ユングヴィが使っていた小さな部屋でシャフラとカノに挟まれてだらけているソウェイルしか見たことがないのだ。


「フェイフューは違った」


 その名が出た時、オルティは心臓の辺りが少しひやりとした。


「フェイフューはずっと努力してきた。小さい頃から行儀作法の勉強をした。ナーヒドに厳しく鍛えられて白軍兵士並みの剣術を身につけた。分からないことがあったら何でも自分で調べた――図書館にも通ったし学校や大学の先生を質問攻めにしてた。自分から外に出て人と交流した――まあこれは最初から得意分野だったんだと思うけど、王宮に出仕する官吏や諸侯に限れば、誰とでも仲良くできた」


 ソウェイルが、大理石の上に座ったまま、膝を抱える。


「フェイフューは努力家だった。俺が一番苦手なことをフェイフューはやり続けた。フェイフューは偉い、俺は今でもそう思ってる、他の誰が何て言ったって、俺はフェイフューはすごく頑張って生きていたと思っている」


 ソウェイルが、助言はせずただ相槌を打ってほしいと言った理由が、分かった。

 ソウェイルはフェイフューを否定されたくない。

 ここには、フェイフューを肯定する人間はいない。ソウェイルたった一人しかいない。


「あのバカ、死にやがった。だから俺はもう永遠にフェイフューを越えられない」


 そして、小声で、「でも」と呟く。


「そろそろフェイフューを追い掛けなきゃいけないんだ。フェイフューを見習って頑張らなきゃいけない時が来たんだ。俺も努力しなきゃいけない時が来たんだ」


 聞いているだけで、胸が熱い。


「立ち上がらなくちゃ」


 いつの間にか辺りは静かになっていた。浴室にいる皆がソウェイルの声を聞いているかのように感じた。

 皆が、ソウェイルを見守っている。


「俺がフェイフューの死を意味あるものにしなくちゃ。俺が頑張ることで、俺が結果を残すことで、俺がフェイフューに追いつくことで――フェイフューは強くなった俺に匹敵する存在だったということを俺が宣言することで、フェイフューは悪として滅んだわけじゃないことを示さなくちゃ」


 語る言葉に、涙が滲んでいる。

 一瞬、嗚咽で言葉が止まった。


「俺はフェイフューが好きだったんだ。俺もフェイフューぐらい頑張れる強い男になりたい。だから、これから、努力ということを、する。フェイフューを見習う」


 サヴァシュの手が伸びた。ソウェイルの蒼い頭を撫でた。


「立派な王様になる。フェイフューの分まで」


「分かった」


 そこで、「実はな」とサヴァシュが口を開いた。


「俺たちは王都を出ていこうと思っていた」


 ソウェイルが弾かれたように顔を上げた。涙で濡れた頬のままサヴァシュの顔を見た。


 サヴァシュはまっすぐ真正面だけを見ていた。ただ、手だけはソウェイルの後頭部を支えるように撫でていた。


「覚えてるか? お前がまだ九歳の時だ。あの時俺は草原に帰りたくて帰りたくてたまらなくて、ふらふら平原と王都を行ったり来たりしていた。それをお前が見抜いて、将軍を辞めて帰ってもいい、と言ってくれた」


 そんなことがあったのかと驚いたが、オルティはあえて口を挟まなかった。


「将軍を辞めて帰るつもりだった」


 オルティの角度からだとソウェイルの顔は見えないが、どんな表情をしているのかは何となく分かる。


「もうアルヤ王国を捨てていこうと思った。嫁と子供たちを連れて、遠い草原に帰ろう、と。ここにいても俺はもう必要とされないだろうから。田舎に帰ろうと思った」

「サヴァシュ……っ」

「延期してやる」


 ソウェイルがサヴァシュに縋りついた。


「お前が立派な王様になるまで。もう少し、アルヤ王国にいてやる」


 ソウェイルの泣き声が産声のように聞こえる。


「永遠にいるとまでは約束できない。草原で風に吹かれて気ままな生活を送りたい、という気持ちは、絶対、一生消えない。だが、まだまだ先の話になりそうだ。きっと、もっとずっと、十年とか二十年とか、ソウェイル王の治世が盤石のものになるまで、俺はここにいるんだろう」


 オルティも、ほっと胸を撫で下ろした。

 同じ草原の出身者として――草原への旅愁を抱える騎馬民族の人間として、その決意がどれほど苛酷ですさまじい覚悟を求められるものなのか、知っている。それを乗り越えてソウェイルに寄り添うサヴァシュの強さを思う。彼はきっと永遠に最強で、オルティなどには越えられない存在だ。


 サヴァシュがいるということは、ユングヴィもいるということだ。

 それもありがたいことだ。

 ソウェイルには、まだ、ユングヴィが必要だ。


「ありがとう」


 ソウェイルが言った。


「サヴァシュが安心して帰れる時が来るまで、俺、頑張る」




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