第13話 ソウェイルなら強い王様になれるからね

 赤ん坊に乳をやっていたところ、戸を叩く音が聞こえてきた。


 ユングヴィは赤ん坊に乳首を咥えさせたままぶっきらぼうに「なに」と答えた。ただでさえ出産の疲労に加えて一日に何度も不定期で泣く赤ん坊の世話が上乗せされているところだ。そこに時々母親を赤ん坊に奪われたことで機嫌の悪いダリウスの話が舞い込んでくる。今のユングヴィは赤ん坊以外の相手はしたくない。


「誰」

「俺」


 ソウェイルだ。

 余裕のないユングヴィはつっけんどんに返した。


「何か用? 今おっぱいあげてるからお父ちゃんの方に行ってほしいんだけど」

「お昼ご飯持ってきた」

「よし通れ」


 戸が開く。ソウェイルが入ってくる。


 彼が掲げ持つ大きな銀の盆には、鶏肉、煮物、野菜の盛り合わせ、そして焼きたてのパンが盛られていた。おいしそうだ。ユングヴィは先ほどの不愛想な対応を忘れて「おお、おお、ありがとね、ありがとね」と繰り返した。


 生後四日目だ。ユングヴィは産後のために特別にしつらえた小さな寝室に赤ん坊と二人きりで引きこもっている。乳児の世話のためだけに準備した部屋だ。家事も上の子供たちの育児も何もかも放棄して、お手洗い以外のすべてをこの部屋で済ませるのだ。上の子供たちは誰一人として近づけさせない。サヴァシュですら遠慮するほどである。


 これも毎度出産するたびにやる儀式のようなものだ。


 提案したのは使用人のうちの一人だ。遊牧チュルカ人の家庭では、産後一ヶ月は専用の小さな幕家ユルトにこもって赤ん坊と一対一で向き合う時間を設けるのだという。そうすると、体の回復も早いし、赤ん坊とのきずなも深まる、とのことだ。

 アルヤ人の家庭でも、そこそこのまともな家なら、出産直後の嫁は最低一ヶ月は働かせず姑や夫の姉妹が世話をするのが普通だ。貧しさのきわまったユングヴィの実家にそんな優しい習慣はなかったが、今現在はそれができる環境なのでそうさせていただきたい。


 ユングヴィは部屋から出られないし出る気もない。当然ながら、上げ膳据え膳だ。食事を持ってくる人間はその時々だったが――赤ん坊の顔を見たがるサヴァシュであることが多いが――それも支度だけしたらとっとと出ていってくれる。

 ソウェイルが来たのは今日が初めての気がする。


 サヴァシュが言うには、彼もお兄ちゃんらしく振る舞えるようになり、この二、三日は機嫌の悪いダリウスを乳母車に乗せてうろうろしていることが多いらしい。ついでに上の女の子たちやその母親たちともいちゃついている話も小耳に挟んだが、さすがに手を出しはしないだろうと信じている。


 乳房は相変わらず丸出しだ。しかし赤ん坊を出す場面まで見せておきながらいまさら恥ずかしがるのも変な感じがする。ソウェイルの方も顔色ひとつ変えない。そのままの状態で会話を始めた。


「悪いね、食事の支度までさせちゃってね。サヴァシュからあんたが女の子たちとよく料理してるって話は聞いたよ。ありがとね、すごく助かる」


 ソウェイルが首を横に振る。


「俺、料理、好き。宮殿にいるとなかなかやらせてもらえないから、ここにいる時はやる」


 忘れがちだが、彼は『蒼き太陽』で、アルヤ王国国王である。彼が普通に家事に携われるのは、この家に住んでいるのが、ソウェイルを育てたと自負しているサヴァシュとユングヴィ、二人の子供たち、それから『蒼き太陽』を神だとは思っていないチュルカ人たちだからだ。チュルカ人たちは主人の息子を働かせることに負い目を感じているようだが、あくまで主人の息子だからであり、『蒼き太陽』だからではない。


「毎日女の子たちとお菓子焼いてて楽しい」


 表情こそ笑顔ではないが、蒼い瞳はどことはなしに輝いて見える。

 ソウェイルは昔から表情の変化が淡泊だ。本来の彼は、素直な子だからこそ、無理して笑ったりはしない。ユングヴィは目つきや声色から彼の感情の動きを推し測るようにしていた。これが意外と分かりやすいのだ。

 今のソウェイルは寛いでいる。きっと本当に楽しくて負荷を感じていない。


 帰ってきたばかりの頃の表情を思い出す。

 固く強張った頬、寄せられた眉根、自虐的に笑う口元――ああいうソウェイルはソウェイルらしくない。

 今の、なんとなくぼんやりとした、どこを見ているかよく分からない目のソウェイルの方が、ユングヴィのよく知っているソウェイルだ。


「そう。女の子たちもあんたとお料理できて楽しいって言ってるって聞いたよ。ありがとう」


 ユングヴィはそこまで言うと、ちょうどよく乳首を離した赤ん坊を左腕に抱えたまま、右手で膝の上に盆を置いた。そして「いただきます」と言って食べ始めた。ソウェイルは元気だ、安心だ。無理をして相手をする必要はない。まずは母乳を搾り取られている自分の栄養の補給である。


 ユングヴィが食べ始めても、ソウェイルは部屋を出ていかなかった。しばらくその場に突っ立ってユングヴィを眺めていた。


「……なに?」

「あのな、」


 顔を見ると、表情筋こそ動いていないが、目や口元がどことはなしに落ち込んで見えた。


「俺、この家で、お料理してる時、楽しい」


 それはさっきも聞いた、と言いたいのをこらえた。子供が何度も同じ話をするのを聞いてやるのも親の務めだ。


「いいんじゃない? こっちも助かるし」

「俺は、料理とか工作とか、ものづくりをしている時が一番楽しいんだ。その気になれば一人でも完結するような手作業だ」


 空気の流れが変わった気がする。ユングヴィは一度食事をする手を止めた。


 ソウェイルが、少し苦しそうに、吐き出すように語り続ける。


「黙って作業するのが好きだ。頭はあまり使わない。いや、使ってはいる。計算することはたくさんある。長さ、重さ、厚さ、比率――たくさんたくさん計算してはいるけど、それは勉強したことじゃなくて、自分でなんとなくつかんできたことで、頑張らなくても身についたこと。俺が一人で勝手にやって、一人で始まって一人で終わる」

「そ……、そう」


 最近のソウェイルはやたらと自分のことを語りたがる。そういう年頃なのだと思うが、どう反応すればいいのか分からず困る。とりあえず相槌を打っておけば勝手に喋ってくれるが、こういう反応が正解なのか時々不安になる。子育てに正解が欲しい。


 ソウェイルは何が言いたいのだろう。何の話をしたいのだろう。


 もっと言ってしまうなら、そんなことはユングヴィにとってはとっくの昔に分かっていることだ。ソウェイルは小さい頃からユングヴィがいなくても自分の部屋に一人で家具を作って遊んでいたのだ。なぜそんな当たり前のことを話しているのだろう。ソウェイルはいまさらそれを認識して自分を再発見したのだろうか。


「まあ……、うん、私にもソウェイルがそういうことをしてる時楽しそうなのは伝わってるよ。ソウェイルは小さい頃からそういうことが好きな子だったよ」

「それじゃだめなんだ」


 ユングヴィは目を丸くした。


「ホスローに、兄ちゃんは王様向いてないよ、って言われてしまった。ひとと喋るのが得意じゃないから、って」


 心臓を射抜かれるような痛みを覚えた。

 寝たふりをしていたが、ユングヴィは二人のその会話を聞いていた。確かにホスローがそんなことを言っていた。

 ホスローのやつ、と唸った。ホスローの一言がソウェイルに深く突き刺さっている――これは大変なことだ。ユングヴィ自身も半ば冗談として受け止めていて深く考えていなかったのを反省する。


「正直ホスローはよく見てるんだなって思った。確かに、俺、一人で遊んでばかりでひとと遊ぶことは得意じゃない」


 そして「王様に向いてないんだ」とうわごとのように繰り返す。


「俺、なっちゃだめなのに王様になってしまった。フェイフューに譲ればよかった」


 ユングヴィは悩んだ。必死に考えた。赤ん坊に栄養を搾り取られたあまり回らない頭を高速回転させた。ホスローの不始末をどうにかしなければならないとも思ったし、ソウェイルの心の傷の手当てをしなければならない。今こうしてわざわざユングヴィに告白してきたのだから、何とかしてあげなければならない。


「ごめんねソウェイル。一番最初、私、王様がどんな仕事をするのか知らないで、ソウェイルに王様になってほしい、って言ったよ。ソウェイルは私が育てた子だから安心だと思ったし、『蒼き太陽』だからアルヤ人みんなが受け入れてくれると思った。そのふたつだけ。私が育てた『蒼き太陽』を国中の人に愛してもらえると思って王様にしようとした」


 素直に打ち明けると、ソウェイルが顔を上げた。その表情には確かな動揺が表れていて、ユングヴィは胸が痛んだ。ソウェイルは本当は『蒼き太陽』がどうこうと言われるのが何よりも嫌なのだ。ソウェイルにとって一番嫌なことをユングヴィは口にしている。

 けれど今こそ言わなければならない。


「私がものを知らないせいで、ソウェイルを苦しめてしまった。それは、本当に、申し訳ない。あんたにひどいことを言っちゃった。王様がどんなことをする人なのか知ってたらあんなこと言わなかったかもしれない」

「ユングヴィ……」

「だから、ソウェイルには、どうしてもつらくて、向いてない、合ってない、って思うんなら、辞めてもいいよ、って言いたい。無理しなくていいよ。私に押し付けられたことを、忘れて――はありえないかもしれないけど、反発してくれていいんだよ」

「俺――」

「ただね」


 腕の中の我が子を、ぎゅ、と抱き締めた。


「私はね、どうしてソウェイルがひとと喋るのが苦手なのか知ってるから、できるなら、王様を続けてほしい」


 ソウェイルが「えっ」と素っ頓狂な声を上げた。


「なんで? 俺、自分では意識してないんだけど」


 ユングヴィは、あんたのことなら何でも知っている、と言いたいのをこらえて、微笑んだ。


「ソウェイルが優しいからだよ」


 ソウェイルが、目を真ん丸にした。


「ソウェイルはね、相手が何を言われたらどう感じるか、考えちゃうの。これを言ったら傷つくだろうな、とか。これを言ったら悲しむだろうな、とか。とにかく、喋る時、たくさん気を遣っちゃう。で、めちゃめちゃ疲れちゃうから、一人で頭の中を整理する時間が必要になるんだ」


 腕の中の赤子を揺らす。この子はどんな子になるのだろう。


「ぶっちゃけ、気にしすぎだよ、生きにくくなるに決まってるよ、って思うけど。テイムルはそれを、カンジュセイが豊か、って言ってて、ソウェイルのいいところだから、わざと、ほっとこう、って話をしてたんだ」

「……そうなんだ……」


 まるで今知ったかのような反応をするのがおかしかった。


「私はね、ソウェイル。アルヤの王様には、ひとの痛みの分かる優しい王様であってほしいよ。……王様が何をする人なのかよく知らないからこんなことが言えるのかもしれないけどね」


 次の時だ。

 ソウェイルが駆け寄ってきた。

 ユングヴィは慌てて食事の盆を寝台の足元の方にやった。

 ユングヴィの肩に、ソウェイルが顔を埋める。


「俺はすごく弱いんだ。ひとに嫌われたくないから、俺自身が傷つきたくないから考えてる」


 声が震えている。


 そっと、彼の肩を撫でた。


「弱いことが分かるのって強みだよ。弱さは強さと表裏の関係だから、自分のどこが弱いのか知っている人は強くなれるよ」


 そして、抱き締める。


「ソウェイルなら、強い王様になれるからね」



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