第12話 安産で元気な赤ちゃんですよ

 痛みの間隔が長く、痛み自体もまださほど強くなかった頃、ユングヴィは時々我に返って真顔になっていた。


 見せてあげると言ったのはいいが、はたしてどうしたものか。

 赤ん坊をどこからどうやって出すのかまで見せてやるのだろうか。一緒に暮らしていた三年間でさえ全裸までは見せたことはなかったというのに、よりによってその部位をソウェイルの眼前に晒すのか。サヴァシュと産婆しか見たことのないところである。

 出てくる瞬間そこがどうなっているのかはユングヴィ自身ですら見たことがない。きっとすごいことになるはずだ。そんなものを見せてソウェイルはおびえないだろうか。

 どういう形で、どんなふうにかかわらせるべきか――


 と冷静に考えていられたのも最初のうちだけで、日が高くなり、破水して赤ん坊が下りてくるのを感じ始めた頃にはそんな悠長なことを言っていられる余裕などない。


 痛みより焦りの方が先に立つ。出てきてしまう、今にも出てきて落としてしまう、内臓ごとずるずると外にこぼれ落ちてしまう――そんな恐怖で何も考えられなくなる。


 裸の下半身を丸出しにして、四つん這いになって唸り声を上げる。

 腰が壊れそうだ。

 痛い、とは、あまり思わない。そこはすでに超越しているのだ。何かが体の中で爆発して砕け散る感覚だけがある。早く出さないとすべてがおかしくなる。

 怖い。

 四人目、四回目なのにいつもこの感覚に襲われる。慣れない。毎回もう二度とこんなことはしたくないと思う。


 ソウェイルが背後で膝立ちになって産婆にあれこれと指図されている。そのぐずぐずした様子に苛立ってユングヴィはソウェイルを怒鳴った。初めてのことだった。ソウェイルが目で見て分かるほど委縮した。

 だがユングヴィはもはや自分が何という言葉を発して怒鳴ったのかすら分からないのだ。ほんの一瞬前のことなのに自分がどう叫んだのか思い出せない。言葉になっていたのかすら分からない。


 何も分からない。

 早く出したい。


 それが、引っ掛かっていた何かが抜け、ずるり、ずるりと内臓の中を通って出てくる感覚に変わると、急に楽になる。


「あ、もう出る」


 たまらずそう呟いた。

 産婆が「ほれ」と楽しそうな声で言う。


「さあ陛下、お手を。気をつけないと落としまするぞ」


 背後のことなので四つん這いのユングヴィには何も見えない。もう信じてり出すしかない。


 抜けていく。


 その瞬間、ユングヴィは、気持ちいい、と感じた。

 すっきりした。


 体の中から熱くて大きなかたまりが出ていった。


 数秒後、耳をつんざくような泣き声が聞こえてきた。


 尻を床につけ、後ろを振り向いた。


 羊水だの血だの何かよく分からない液体だのでぐちゃぐちゃに汚れているソウェイルが、今まさに生まれたばかりの赤ん坊を抱えて、呆然としている。


 赤ん坊がソウェイルの手の中で泣いている。


 産婆がソウェイルのその手を下から支えつつ、「おお、おお」と笑った。


「元気な男の子ですぞ」


 大きく息を吐いて、その場に横たわった。


 何とか無事に済んだらしい。


 産婆が手際よく臍の緒を結ぶ。それに引っ張られてまた腹の中がずるずると動く。文字どおり内臓が剥がれ落ちている。ユングヴィは正直赤ん坊を捻り出す時より強い痛みと不快感に襲われるのだが、胞衣えなの本体が完全に外に出るともうこの仕事は終わりだ。


「さて、お切りくだされ」


 視界の端で、産婆がソウェイルに小刀を持たせようとしているのが見える。ソウェイルが戸惑った顔で「いいのか」と訊ねている。


「いつまでも臍の緒や胞衣えなをぶら下げて生きるわけにもいきますまいに」

「でもそんな大事な仕事俺にやらせていいのか」


 ユングヴィは「とっととやっちゃってよ」と告げた。ソウェイルが「ええ」とあからさまに動揺した声を上げる。

 本当はここで何か気の利いたことが言えたらいいのだが、疲労困憊のユングヴィが言えたのはこれである。


「もーつべこべ言わずにやって」


 ソウェイルが部屋の出入り口の方を見た。


 そこではサヴァシュがしゃがみ込んでいる。


 彼も一応一部始終を見ていたが、今回は手を出さなかった。産婆とソウェイルがせわしなく動き回っているところに入っていく必要はないと思ったのだろう。ユングヴィも正直最中は誰がいて誰がいないのかなど認識していないのでどうでもいい。


「俺がやっていいのか? サヴァシュの子なのに」

「いい。ユングヴィはお前にやらせたかったんだろう。それがユングヴィの遺志だ」

「私ゃ死んでねぇよ」

「それに俺は上三人もやったし、今後も機会がある」

「まだ産まされるの……」


 ソウェイルが、左手に赤ん坊を抱え直し、震える右手で臍の緒に小刀を押し付けた。産婆が臍の緒を切りやすいよう引っ張って伸ばした。

 ぷつり、と切れる。

 この子もこの世のものになったということだ。


 そっと、ユングヴィの傍らに下ろされた。

 まだ泣き喚いている。元気だ。声が大きい。


 抱き締める。


 産んでよかった、と思う。

 きっとまた産む直前のあれこれを忘れて次を産むのだ。同じことを四回もやってしまった。たぶんこれからも繰り返す。


「今回も安産ですなぁ。あっと言う間に出てきてしもた。今回もわたしゃ何にもしてませんよ。お産が上手だ」


 片づけながら、産婆が言う。


「出血も少なくて、赤子がきれいですぞえ。もう少ししたら産湯うぶゆに浸からせてやりますがね」


 サヴァシュが立ち上がって「それは準備してある」と告げる。産婆が「旦那様も慣れたものですな」と言う。


 ソウェイルがユングヴィのすぐ傍に座り込んだ。


「すごいものを見せてもらった」

「どうだった?」

「俺も疲れた」


 ユングヴィは声を上げて笑った。確かにソウェイルはどこかぐったりして見える。ユングヴィに言わせれば彼は何もしていないが、きっと緊張したに違いない。


 産婆がやって来て、赤子を取り上げる。産湯に浸からせてくれるのだろう。洗ったらきっとまた連れてきてくれる。そうしたら乳を含ませてやるのだ。


 サヴァシュがやって来てソウェイルの隣に座った。


「みんなこうやって生まれるんだ。まあ、こいつは特別簡単そうに産むが――」

「簡単じゃねぇよ私だって死に物狂いだよ」

「世の中にはこれで死ぬ母親もごまんといる」


 そう言われると、ユングヴィはお産で死ぬかもしれないと思ったことはないので、楽な体質なのかもしれない。ありがたいことである。


「そっか……」


 ソウェイルが神妙な顔をして小声でぼそぼそと言う。


「女性観が変わる……。なんか……、俺、今まで、女の子の、可愛いところ、ふわふわして柔らかいところしか見てなかった気がしてきた……。いや、ずっと、ユングヴィとかシーリーンとか、強い女の人ばかり見てきたはずなんだけど……なんかちょっと違うな……」


 その真意が気になったが、問い掛ける気力は残っていない。


「そしてこの三年間の所業を心から反省した」

「お前この三年間本当にどんな生活をしてたんだ」

「言えない……」

「親に言えないようなことするな。お天道さんや親に見られて恥ずかしいことはするんじゃない」

「この国ではお天道さんは俺なんだけどな……」


 ややして産婆が赤ん坊を連れて帰ってきてふたたびユングヴィに手渡した。ユングヴィは寝転がったまま腹の上に赤ん坊を載せ、服の前を割り開いてその小さな口に乳首を含ませてやった。まだ母乳にありつけないほど下手くそだが、何となく吸い付く。それがまた愛しいのだ。


 たまらなく可愛い。


 新しい赤ん坊だ。また家族が増えたのだ。


 遠く出入り口の方から声が聞こえてくる。ホスローの声だ。


「赤ちゃん女だった!?」


 サヴァシュが「男だった」と投げ掛けるように答える。


 一瞬間が開いた。

 そういえば、ホスローは妹が欲しかったのだった。


「弟だろうが妹だろうが無事に生まれたことを喜びなよ!」


 ホスローが素直に「はい……」と言う。寝転がっているユングヴィからはホスローの顔が見えないが、きっと微妙な顔をしていることだろう。


 ソウェイルが「ホスローは妹が欲しかったのか?」と問い掛けた。ホスローが少し口ごもって答えた。


「おれ、かわいい妹に、お兄ちゃんのおよめさんになるって言われたかったんだ。かわいい服着せていっぱいいっぱい友達にジマンして、こんなかわいい妹に大好きって言われてるって言いたい」


 とんでもない野望だ。


 ユングヴィは呆れたが、ソウェイルは斜め上を行く回答をした。


「弟に可愛い服を着せて女の子として育ててお兄ちゃんのお嫁さんになると言わせればいいんじゃないか?」

「兄ちゃん天才じゃない!?」


 子供たちの将来が心配だ。


 だがユングヴィは今日はもう疲れたのでここで店じまいだ。




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