第11話 どんどん繁殖します

 ソウェイルは少しずつ回復しているようだ。起き上がっていられる時間が徐々に増えていった。しばらくは食後に痛そうな様子を見せたこともあったが、いつの間にかそんな姿を見ることもなくなっていった。


 ある日突然みんなが食事をしているところにふらっと現れた。

 最初ユングヴィはソウェイルの行動に戸惑った。けれど極力顔に出さないようにした。黙って本人が食べたいと言うものを食べさせた。あたかもソウェイルが食べに来ることを予測していたかのように振る舞った。

 ユングヴィだけではない。誰も騒ぎ立てない。大人たちはもちろん、子供たちもあれこれ言うことはなかった。

 まるでずっとこの面子で食事をとっていたかのような日々が始まった。


 ソウェイルがこの家にいて、家族の一員として暮らしている。


 嬉しくて、嬉しくて、三年間の断絶がすっかり消えてなくなったかのように感じられて、ユングヴィは夜こっそり泣いたこともあったが――サヴァシュが言う。


「未来はいくらでも作れるけど、過去は作り直せないからな」


 失った時間を取り戻したわけではないのかもしれない。宮殿から離れたことや規則正しい生活を始めたことで身体が回復しているだけなのかもしれない。食事を取れるというただそれだけのことなのかもしれない。


 それでもユングヴィはそれこそが家族の愛なのだと信じたかった。自分の愛がソウェイルを蒼宮殿という恐ろしい空間から守ってあげているのだと思いたかった。


 だからこそ、言葉を、気持ちを、しまい込んだ。

 愛情を押し付けることで委縮させたくなかった。愛情を負担に思ってほしくなかった。突き返されるのも怖かった。


 過去は消えない。

 死んだ赤ん坊も帰ってこないし、死んだフェイフューも帰ってこない。


 でも、未来は作れる。


 ソウェイルが部屋にこもって黙々と何かを作り続けている。


 木の板に彫刻を施している。つる草が絡まる薔薇の紋様はアルヤ絨毯によく用いられる意匠だ。ソウェイルは昔から手先の器用な子で、こういう作業がうまい。

 ただ彫り物をしているだけではないらしい。時々板に彫った溝にまた別の板をはめ込んで何かを組み上げようとしている。木の板以外の、たとえば金具のような材料などはないのだが、彼はいったい何を作っているのだろう。

 彼の頭の中には何があるのだろう。


 正直なところ、ユングヴィには時々ソウェイルが分からない。彼は他の誰とも違う独特な世界観をもっており、ユングヴィには想像もつかない論理と感性で物事を進めることがある。どこかで身につけてきたのか、それとも、生まれつきのものなのか。彼の両親にも双子の弟にもなかった、不思議な不思議なソウェイルの世界だ。


 だからと言ってユングヴィはそれをどうこうしようとは思わない。ソウェイルは一人遊びに夢中だ。楽しそうだからいいだろう。他人に迷惑をかけることでもない。ソウェイルにはソウェイルの世界がある。それでいいではないか。


 しかし、それが通用しなくなってきたのが今なのかもしれない、と思う。

 ソウェイルは自分の世界観を守るために戦わなければならない年齢になってしまったのかもしれない。あるいは、そういう身分、そういう立場になってしまったのかもしれない。

 むしろ彼は王として民の世界観に干渉しなければならない存在なのかもしれない。


 外は春だ。もうすぐ正月ノウルーズである。ソウェイルは十九歳になる。即位三周年だ。


「ダリウス」


 ある朝、ホスローたちが学校に行った後のことだ。


 朝食で使った匙を気に入って手放そうとしないダリウスと匙を取り上げて洗ってしまいたいユングヴィが微妙な攻防を繰り広げていたところに、ソウェイルが割って入ってきた。


 彼は軽々とダリウスを抱き上げると、「ちょっと借りる」と言って食事の間を出ていってしまった。


「なに、何するの? どこに連れてくの?」


 重い体を持ち上げるようにして立ち上がり、ソウェイルの後を追い掛ける。ソウェイルは振り向くことなく階段を上がっていってしまう。ダリウスは何が起こっているのか分からない顔でソウェイルに抱えられたまま匙の先端を咥えている。


 ソウェイルが向かった先は彼自身の部屋だった。


 部屋の中に入って、部屋の真ん中にあるものを見て、ユングヴィは目を丸くした。


 四輪の車だった。触れる者を傷つけないよう縁を丸く削った箱に、後ろから押すための手すりと、前から引っ張るための取っ手、それから木製の円盤を車輪として取り付けた、大型の荷車だ。


「何これ」

「乳母車」


 ソウェイルはダリウスを箱の中に下ろした。座ると箱からダリウスの胸から上が出るくらいの大きさだ。中には座布団が敷かれている。


 匙を左手につかんだまま、ダリウスが箱の縁に手を掛けた。


「おっきいがらがら!」


 ソウェイルが手すりをつかんでゆっくり押すと、車輪が回転して、乳母車が前に進んだ。

 喜びのあまりかダリウスが大声で叫んだ。


「がらがら! がらがら!」


 確かにダリウスが普段遊んでいる荷車は車輪が金属で動かすとがらがらと音を立てるが、ソウェイルが作った乳母車は木製で静かだ。しかしダリウスにとって車輪で動くものはすべてがらがらなのだ。


「がらがら!」


 ソウェイルが押したり引いたりするたびに、ダリウスが興奮して大声を上げる。


「ずっとこれ作ってたの?」


 問い掛けると、ソウェイルはこともなげな落ち着いた顔で「そう」と答えた。


「ダリウス、車が好きそうだったから」


 そして、ダリウスに向かって「仲直りだ」と言った。ダリウスは満面の笑みで手すりをつかんでいるソウェイルの手を叩き「もっと! もっと!」と騒いでいる。


「い、いいの!? こんなすごい綺麗な彫り物して、たくさんたくさん時間使って作ったものなのに、ダリウスにあげちゃうの!?」

「うん」


 執着心のない子だ。だがソウェイルの日常生活に乳母車が必要かと言われれば疑問だ。


「って言っても、すぐ小さくなって使えなくなると思うけど。入らなくなるし、重さで割れるかもしれないし。でもすぐまた生まれるから、そしたら次の子も使えるだろ」

「ありがとう……! ほんとにほんとにありがとう!」


 乳母車のすぐ傍にしゃがんで、「よかったねダルくん」と話し掛ける。ダリウスが

「おっきいがらがら」と繰り返す。


「嬉しい?」

「うん!」

「嬉しいねぇ、ほんとに嬉しいねぇ。よかったねぇ、お兄ちゃんがダルくんのために作ってくれたって。嬉しいねぇ」

「うれち! がらがらうれち!」


 ソウェイルの手が、ダリウスの頭を撫でた。


「ダリウス、いくつだ? 二歳と、何ヶ月くらい?」


 ユングヴィは即座に「二歳六ヶ月」と答えた。


第六の月シャハリーヴァル生まれ」


 言ってから、はっとした。


 ソウェイルが、蒼い瞳でユングヴィの顔を見つめている。


「……なんか……、思ったより早く生まれてる……」

「ご……、ごめん」


 恥ずかしくなって斜め下を見る。


「実は……、あんたの即位式の時、もう、お腹にいて」


 ナーヒドが、よく、お前は大事な時に限って妊娠する、と怒っていたのを思い出す。子供は授かりものなので仕方がないと割り切っていたが、さすがにフェイフューが死んだ翌月には四番目がお腹に入ったと思うと不謹慎な気がしてくる。

 ソウェイルが人生で一番大変だった時期に自分はできたての我が子のために外出を控えていたのだ。

 優先順位がめちゃくちゃだ。

 それでも自分には次の赤ん坊が必要だった。


「ごめん。どうしても産みたくて」


 言うと、ソウェイルが「なんで」と呟くように言った。


「謝ることじゃなくない……?」


 心底安堵して息を吐いた。


「俺は、」


 手すりを押し、乳母車を前に進める。ダリウスがまた奇声を発する。


「俺がクソみたいな生活してても、新しい命がちゃんと育ってた、っていうのは、嬉しい」


 いったいどれほど荒れ果てた生活をしていたのだろう。


「それに――」


 長い睫毛を伏せる。


「アナーヒタが、来月で、満二歳」


 はっとした。

 ユングヴィは一度も会ったことのない、見たこともない、風の噂で聞いた程度の存在の、ソウェイルの娘だ。本当にいるのかどうかも疑わしい、幻の存在だ。


「ダリウスより、ひと回り小さいくらい」


 ダリウスの黒髪を撫でる。


「……カーチャは、どんな気持ちで産んだんだろうなぁ」


 しばらくの間、ユングヴィは何も言えずにソウェイルの顔を眺めていた。ソウェイルも、斜め下のダリウスを見つめて黙っていた。ダリウスだけが、箱の中で跳ねて自分の力で乳母車を動かそうと頑張っている。


 何とも言えなかった。何せユングヴィにとっては知らない子だ。関係性としては孫に近いのだろうが、あまりにも縁遠い。


 それでもソウェイルからしたらダリウスを見ていて思い出す我が子だ。


 ソウェイルとアナーヒタは――ソウェイルとエカチェリーナは、いったいどんな関係なのだろう。

 聞いたこともない、見たこともない、ユングヴィの知らないソウェイルが、そこにいる。


 大丈夫だ。

 未来は作っていけばいい。


「見せてあげようか」


 ソウェイルが「えっ」と呟きながら顔を上げた。


「人間がどんなふうに生まれるのか。見てみたら女が子供を産む時どんな感じになるのか想像できるかもしれないよ」

「どういうことだ?」

「そろそろ生まれるから、産むところ見せてあげる」


 数秒ほど、ソウェイルはユングヴィの顔を眺めた。


「今お腹にいる子の話?」

「そう」


 そして、苦笑した。


「今日の午後には出てくると思うし……」

「……えっ?」

「いや……まだ痛みの間隔が長いから当分先だけど……」

「え……え? 待っ――今?」

「今」


 ソウェイルが目を真ん丸にした。


「だって今ふつうに朝ご飯食べてただろ!!」

「本格的に痛くなったら食べられないから今のうちに食べるの」

「なんでそんなにふつうにしてるんだ!?」

「まだ生まれないからだよ。って言いたいけど、ダリウスの時は昼前に産気づいて夕方に生まれたから今日もお昼には出ちゃうかもしれない」

「出ちゃうかもしれない!?」


 彼は珍しく慌てた様子で「ひとを呼びにやらなくちゃ」と言って部屋を出ていこうとした。その背中に「もうサヴァシュが産婆さんを呼びに行ってるからだいじょうぶだよ」と投げ掛けて止めた。


「もっとちゃんと大変そうにしろ!! 今まさに陣痛があるんだろ!?」

「ないんだなぁこれが。もっとヤバいくらい赤ん坊が下りてきてからが本番だからね、今はまだ家事ができるくらいなんだなぁ」

「あーっ、あっ、あーっ!!」


 初めて見る様子かもしれないと思うほど動転しているソウェイルの手首をつかんで「出てくるところを見せてやるから一緒にいなさい」と言う。


「あんたも覚悟して――あっ、いたたた……きたきたきたきた……」

「ああああああああ……!!」




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