第9話 台所でぼんやり過去回想するユングヴィ
「――ちゃん。母ちゃん!」
はっとして顔を上げると、いつの間にか台所にホスローがいて、壁際に座るユングヴィの目の前で膝立ちをしていた。
「ひょっとして、母ちゃん、寝てた?」
「ちょーねてた」
少し目をやると、使用人の一人がかまどで米を炒めていて、その娘である十一歳の女の子が作業台で野菜を刻んでいる。床では敷き物の上でアイダンがすりこぎを使って胡麻をすり潰していた。
恥ずかしくなって自分の口元を押さえた。
「ちょ……っ、ちょっと私、寝すぎじゃない!? 床に座っただけで寝るとかありえなくない!?」
使用人の女が大鍋の中を掻き混ぜながら「いいんですよ奥様は」と言う。すぐに「よくないよ」と応える。
「ほんのちょびっと休憩するだけのつもりだったんだよ」
「妊娠ってのは
十一歳の娘も「そうですよ、あたしももう働けますからね」と健気なことを言った。
「ねてもいいけど、ねるんならふとん行けよ。こんなトコでねるなよ」
「寝ない。起きる」
「むりすんなよ。赤ちゃん出てきちゃうだろ」
「今はそういう感じじゃない。ほんとに立ってられなくなったらまた座るからだいじょうぶ」
この家の人間は何かあるとすぐユングヴィを甘やかそうとする。息子のホスローまでもがこんな言い方をする。それがまた居たたまれなくてユングヴィはつらい。ユングヴィは働きたいのだ。
「そうじゃなくてさー、つかれてんじゃねーの」
ホスローが不機嫌そうな顔をしている。
「ずーっと兄ちゃんの世話でさ。母ちゃんめっちゃ兄ちゃんに振り回されてない?」
彼にそんなことを言われるとは思ってもみなくて、ユングヴィはまばたきをしながら彼を見つめた。
「え……、でも、夜はがっつり寝てるし」
「夜はねれてもさぁ、朝から晩まで兄ちゃんの相手でさぁ。ダルより手ぇかかるじゃん」
考えたこともなかった。自分は好き好んでソウェイルの世話をしている。ソウェイルがこの家に戻ってきたことを心から喜んでいて、たまたま今はソウェイルが昼寝をしているので夕飯作りをしようと思い台所にやって来たところだったが、起きているならずっとつきっきりでもいいと思っているのだ。
「そんなことないよ。いよいよヤバくなったら父ちゃんがだめって言うと思うし」
「まーた父ちゃんキジュンかよ。父ちゃんがいなきゃジコカンリできねーのかよ。母ちゃんほんと父ちゃんがいなくなったら死ぬぜ」
返す言葉がなくてユングヴィは口を閉ざした。
ホスローが大人ぶってユングヴィからするとちょっと笑えてくる態度で言う。
「まあ、ちょっとわかってたけど」
その、次の台詞だ。
「母ちゃんはおれより兄ちゃんがかわいいもんな。兄ちゃんがもどってきたらおれがなんか言ったってソウェイルソウェイルソウェイルーなんだ」
思わず「なんてこと言うの!?」と声を荒げてしまった。
「母ちゃん一度もあんたよりソウェイルだなんて思ったことないよ! そんなこと一回でも言った!?」
「言ってないけどさー、たいど出る」
「たまたま今はお兄ちゃんが病気で弱ってるからしょうがないの、お兄ちゃんが元気だったらこんなことはないの!」
「ええー」
「それに――」
普段の何気ない生活の中で、ふとした時に、九年前の記憶がよみがえってくる。
こんなことは子供には言わずにおくべきかもしれない。けれどホスローにだけは知っておいてほしいという気持ちがある。ホスローもすでに八歳、だいぶ自我が強くなって分別もつき始めた。そろそろ分かってくれるのではないか。
理解してくれなくてもいい。納得してくれなくて構わない。むしろユングヴィはホスローに責められたかった。馬鹿な母親だと思って、自分が将来親になった時の反面教師にしてもらいたい。
「母ちゃんね、あんたを守るためにお兄ちゃんを捨ててどこか遠くに行こうと思ったことがあって」
ホスローが目を真ん丸にした。
「いつ!?」
「あんたが生まれる前のことだよ。あんたが母ちゃんのお腹にいた頃」
驚いたのか、使用人親子までユングヴィの顔を見た。アイダンだけが一人無心で胡麻をすり続けている。
「何もかも嫌になって、どこかに逃げて、あんたと二人きりでひっそり生きていこうと思ってさ。その時いた十神剣の仲間にすごい反抗して、なんていうかもう、今思うとほんと意味不明なめちゃくちゃなこと言って出ていこうとしたことがあるんだよ」
使用人の女が改めて「いつですか」と訊いてきた。「妊娠したことが分かった直後」と答えた。
「って言っても自分で自分が妊娠してることが分かんなくて結構お腹の中で育ってからの話なんだ。あの後すぐに胎動を感じるようになったってくらい。それくらい私は自分の体のことに無頓着で、お腹の赤ちゃんのこと考えてあげれてなかったんだよなあ」
「その時旦那様はどうしてたんですか」
「すぐ傍にいた。仕事でタウリスに戦争に行かなきゃいけなくてちょっとの間離れて暮らしてたんだけど、あの時はもう合流してて、タウリス城で一緒に生活してたんだよね」
彼女は「ああ、タウリス戦役の時ね」と納得した様子を見せたが、子供たちはきょとんとしている。アイダンは胡麻をすっている。
「旦那様何もおっしゃらなかったんです?」
「ううん、私のこと超心配してくれてた。私がつわりと戦闘の傷でへろへろで何にもできなかったから、ずーっと私の様子を見てて、何かあると手ぇ出して助けてくれてた」
「じゃあ、どうしてそんなことに」
「なんか、言えなかったんだよね。妊娠したってことを言いたくなくて、黙ってさよならしようとした」
そこから先は言葉にできなかった。さすがにホスローを前にしてお前がいたらサヴァシュに迷惑をかけると思ったとは言えなかったのだ。そこから先については説明せず、結論の、ホスローに伝えたかった部分について話し始めた。
「すごい追い詰められてて、疲れてぼろぼろで、誰も信用できなくて。自分はひとりぼっちで、ひとりで赤ちゃんを守らなきゃいけないんだと思い込んでて。今思うと、サイテー、って思うんだけど。疲れてるからってやっちゃいけないことってあるでしょ、って感じなんだけど」
ホスローが目を真ん丸にしたままこちらを見つめている。
「母ちゃんはねぇ、あんたをその時の私のそういう気持ちに巻き込もうとしたことめちゃくちゃ後悔してるから、あんたのことは特別ちゃんとしてやらなきゃ、って思ってるし、同時にね、ほんとにそうなってたらエスファーナで待ってるソウェイルにはもう二度と会えなかった、ソウェイルを捨ててホスローを選ぼうとしてた、っていうのが、心の底からソウェイルに申し訳ないから、ソウェイルに寂しい思いをさせないようにしなきゃ、って、めっちゃ思ってるんだよ」
アイダンだけが夢中で胡麻をすり続けている。
「もしかしたらあんたよりソウェイルってしてるように見えるかもしれないけど、ほんとは、一瞬、ソウェイルよりあんた、って思ったことがあって、母ちゃんはそれをずっと反省してるんだ。だから……、だから、もう二度とどっちかだけをえこひいきしたりしないよ。どっちも同じくらい大切にするよ」
次の時だ。
いきなりホスローが飛びついてきた。
抱き締められた。
「母ちゃん」
驚いた。ホスローがこんな行動に出るとはまったく予想していなかったのだ。
ユングヴィまで動揺してしまった。やはり言わない方がいいことだったのではないかと思った。
八歳の子供には重くてきつい話だったのではないか。不安にさせてしまったのではないか。恐ろしい過去、恐ろしい罪の話を聞かせてしまったのではないか。
急いで抱き締め返した。彼が少しでも安心できるようにと強く強く抱き締めた。
「ごめんねホスロー、あのね、母ちゃんね――」
「おれはいいんだけどさ」
ホスローの体が、温かい。
あの時は胎内にあった命が、抱き締めてくれるくらいの大きさになった。
「兄ちゃんのことを捨てようとしたのは兄ちゃんに言わない方がいいと思うし、でも、兄ちゃんに寂しい思いはさせたくないって思ったっていうのは言った方がいいと思う」
ずいぶんと大きくなった。
ユングヴィはホスローを抱き締める腕にさらに力を込めた。彼の華奢な肩に顔を埋め、涙を隠しながら「ごめんね」と告げた。
「母ちゃん、もっと頑張るからね。あんたたちをがっかりさせないように」
「んーん、がんばるのをやめるのをがんばってほしい。あと父ちゃんにすきっていっぱい言ってほしい」
それ以上は何も言葉にならなかった。
ただただ、ホスローを抱き締めていた。
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