第7話 フェイフューにも生きていてほしかった

 ユングヴィには特別なことはできない。

 ソウェイルはずっと痛そうにしているが、胃の穴をふさいでやることもできないし、痛みを肩代わりしてやることもできない。もっと言えば、ユングヴィは過去に病気らしい病気をしたことがない上、痛みには人一倍鈍感だ。どんな苦しみを味わっているのかを想像することすらユングヴィには難しかった。


 病気をした時はとにかく栄養をつけさせた方がいい――そう頑なに信じているユングヴィは消化に良さそうなものを選んで汁物スープを作った。すり潰した鶏肉と人参ニンジンを煮込んで、胃にいいとされる鬱金ターメリックを入れた。


 しかしソウェイルは食べなかった。ユングヴィに食べ物を与えられることを嫌がり、皿をひっくり返してしまった。


 最初は驚いた。悲しいと思った。ソウェイルの体のためを思って作ったのに、ソウェイルはそれを布団の上にぶちまけた。彼は徹底的にユングヴィの愛情を拒絶している。


 だがそれほど落ち込まなかった。ソウェイルが明らかに普通の状態ではないからだ。それに、ホスローもアイダンも、二、三歳の頃にはよく食べ物をひっくり返していたものだ。おとなしく言うことを聞くダリウスが特別なのである。子供という生き物はそういうこともある。黙々と敷布を替えた。


 汚れた寝間着も替えさせなければならない。ユングヴィは着替えを取りに一度部屋を出た。


 戻ってきた時、ソウェイルは寝台の脇に所在なさげに立っていた。


「怒らないのか?」


 その言葉に責める響きを感じた。まるでユングヴィが怒らないのが気に入らないかのようだ。


 ユングヴィは苦笑して、「一人で着替えられる?」と訊ねた。ソウェイルは不愉快そうな顔のままユングヴィの手から着替えをひったくった。


「怒らないよ」

「なんでだよ。怒れよ。俺はお前のそういうところが嫌いだ。何をされても我慢してにこにこしてひとに気に入られようとする。お前のそういうところに腹が立つ」


 生意気な口を利くようになった。何が、お前、だ。だが、十八歳の男の子である。そういう年頃なのだろう。


「いやぁ、それが、今はほんとに怒ってないんだよ」

「今まで怒ってこなかったからだろ。ちゃんと怒るということをしてこなかったから悪いんだ」

「んーん、違うよ。赤軍兵士とか、お手伝いさんの子とか、私に怒られたいんだなぁ、って感じの子をいっぱい見てきたから、慣れ? もう、この程度じゃ怒らないから安心しなよ、っていう気持ち。母の広い愛を感じなよ」


 とにかく何かにぶつけたい気持ちを持て余しているらしく、ソウェイルは着替えを床に叩きつけた。しかし布製品なので床に落ちたくらいでは傷むこともない。


 ユングヴィは黙って着替えを拾うと小脇に抱えた。そして、ソウェイルが身につけている帯をほどき始めた。

 ソウェイルはそれを無言で受け入れた。

 ずいぶん偉そうな態度だ。王になったからだろうか。まだ預かったばかりの小さかった頃一人では着替えもできなかったことを思い出す。あの頃がなつかしくて自然と笑みがこぼれる。


「最近は、怒る時はちゃんと怒るようにしてるから、だいじょうぶ。私が怒らないことで、心配したり、いらいらしたり、しなくてもだいじょうぶだよ。最近はね、そういう子を見ると、こいつは私に構われたいんだな、甘えたいんだな、って思う。可愛い奴めって思う。めんどくさいって思うこともあるけど、基本怒らない。特に今はソウェイルは病気だからね、いっぱい構って、甘やかしてあげる」


 そして、ソウェイルにつきっきりで着替えまでさせてやっていることにうっとりとするのだ。

 ずっとこうしたかった。

 代替品のオルティではなく、本物の息子であるソウェイルが手に入ったのだ。


 よくない、とは、思う。自分が望んでいるのはようはソウェイルの依存だ。ソウェイルの自立を妨げている。ソウェイルのためにもよくないし、他の子供たちにとってもよくない。サヴァシュにもまた叱られるだろう。


 でも今は、病気だから、仕方がない。


 肌着一枚になると、骨張った肩が目に付いた。痩せすぎだ。もっと食べさせなければならない。だが胃が悪いというのにたくさん食べさせるのか。悩む。


「……なあ」


 ソウェイルが、ぽつりぽつりと言う。


「フェイフューには、本気で怒った?」


 その名前が出た時、ユングヴィは手を止めた。


 この三年間一瞬たりとも忘れたことはなかった。だが、口に出してひとと話すことはなかった。口にしてはいけない名前のように思っていた。禁忌であり、呪いだった。


 ややして、これは呪いを解くための儀式だと思うことにした。


 ソウェイルの機嫌が悪い原因はそこに詰まっているのだ。


「……うん。怒った」


 早く着せてやらないと風邪をひく、と思っているのに、手が、動かない。


「本気で怒ったよ。できることなら殺してやりたいと思った」

「フェイフューを?」

「そう。だから――」


 封印してきた気持ちを、初めて、言葉にする。


「誰にも助けてもらえなくて、ひとりで呆然としてるのを見た時、いい気味、って思ったよ。ざまあみろ、って。たくさん人を傷つけてきたから、嫌われてもしょうがないね、って」


 ソウェイルの声は、細く、消え入りそうだった。


「そこまで……?」


 震える手で、着替えを広げる。


「――本当は、」


 ソウェイルの顔を見ることができない。


「私が悪いんじゃないか、って思った」

「何が?」

「私があの時あの子に会いに行かなかったら、私の赤ちゃんは死ななかったんじゃないか、って。私が馬鹿だったから赤ちゃんは死んだんであって、あの子は別に悪くなかったのかもしれない、って。思ったことがあって」


 服の襟から飛び出ている糸を意味もなく引っ張った。手慰みに何かに触っていたかった。


「もっと言えば、最初にテイムルがあの子に武術を教えてほしいって言い出した時、私はもっとあれこれ察してあの子に踏み込んでいかなきゃいけなかったんじゃないか、って。あの子をあんなにしたのは私が馬鹿だったからなんじゃないか、って」


 声も震える。


「私、初めてひとを憎んだ」


 ソウェイルはしばらく黙って聞いていた。


「あの子が悪いんだと思わないと気が狂いそうだった。怒らないと私は死んでしまうって思ったんだ。怒りたかったんだ。自分が悪いって思いたくなかったから」


 そして、小声で「だから」と付け足した。


「生きていてほしかった」


 今でも最期の瞬間が目に浮かぶ。

 暗く冷たい地下牢で、汚物と蛆虫にまみれ、腐った手と焼けただれた腕を晒して、世界に絶望し切った目をしていた。

 大勢の人に囲まれ、高貴な身分の人々に愛され、自信に満ち溢れた顔をして、広く明るいところで堂々と立ち振る舞っていた彼の姿は、そこにはなかった。

 ただただ、気持ちが悪いと思うほど、臭くて汚かった。


「死ぬのなんて卑怯だ。生きて私に恨まれ続けてほしかった。私が悪いんじゃないって、あんたが悪いって、あんたが悪いことにすれば私は楽になるって、言い続けさせてほしかった」


 憎んでいたかった。

 怒っていたかった。

 やりすぎたなんて思わせてほしくなかった。この件に関しては自分は絶対に悪くないと思い続けていたかった。


「生きて償ってほしかったとか、生きてたらいつか分かり合えるとか、そういうきれいごとじゃなくて。私は、私が怒り続けるために、生かさず殺さずの状態でずっと生かしておきたかったよ。みっともなく私に命乞いして、みじめに生きていてほしかったよ」


 この三年間、誰も、彼の名前を口にしていない。ユングヴィの知る範囲では、彼をいたんでいる人間は一人もいない。どうやら墓らしい墓もないらしい。


 後味が悪い。


 ユングヴィは言葉を切った。


 着替えを広げ、ソウェイルの肩に掛けた。視界にソウェイルの顔が入ってしまったが目は合わせない。


 反応が怖い。

 ソウェイルはフェイフューが死んだことについてユングヴィに責任があると思っていて、ユングヴィを不愉快だと感じたからこそ、この三年間絶交状態だったのではないか。

 彼は三年間一緒に暮らした思い出の家を潰したのだ。


 袖を通して、帯を巻いた。着替えは終わった。


 目を合わせないようにしながら、「もう布団に入って」と言った。


「横になって。ご飯はもういいから、薬湯だけはちゃんと飲んでね」

「ユングヴィ」


 名前を呼ばれて、視線を動かした。


 ソウェイルは、悲しむでもなく、怒るのでもなく、かといって喜ぶのでもない、複雑そうな硬い表情をしていた。


「それを、もうちょっと早く、聞かせてほしかった」

「え?」

「やっぱり、ユングヴィの赤ん坊を殺したのは、フェイフューだったんだな」


 動揺のあまりどもりながら、「そっ、そうだよ」と答えた。


「話をしたくて――オルティくんにあんな態度取るのはよくないと思って、説教垂れてやろうと思って、蒼宮殿に会いに行って、それで――階段で、揉み合った、っていうか何て言うか――」

「ユングヴィは悪くないと思う」


 言った途端、ソウェイルの蒼い瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。


「あいつが悪いんだと思う」

「ソウェイル……」

「でも俺も生きていてほしかった」


 言いながら、彼は両手で自分の目の辺りを押さえた。


「どんなクソ野郎でも、俺はあいつが好きで、大事な弟だった」

「……そっか……」

「生きて償わせたかった。あいつが分かるまで説教を垂れてほしかった。分かり合ってほしかった」

「そうかもね。ソウェイルからしたら、そうだよね」


 そう言うと、ユングヴィも涙が溢れてきた。

 何もかもがもうどうにもならないのだ。

 それが、ひとが死ぬ、ということだ。


「でも、ごめんねぇ……。私にも、できることとできないことがあるんだよぉ……」


 次の時、腕が伸びてきた。

 強く、強く、抱き締められた。


「もう、いい。ぜんぜんすっきりしないけど、あいつが勝手に死んだんだってことはよく分かったから、もう、ユングヴィを責めるのはやめにする……」


 ソウェイルにもいつの間にかこんな腕力がついたのだ。


「何にも解決しないけど……、ユングヴィに怒ったってしょうがないことはよく分かったから……。だから、もう、俺はやめにする……」


 ソウェイルのがりがりに痩せた体を、抱き締め返した。


「……ありがとう……」



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