第6話 反抗期がいとおしい
ソウェイルはその日ひと晩目を覚まさなかった。
麻薬だ。
意識を失うほど大量の麻薬を摂取させられている。
侍医の判断でなされたのなら仕方のないことだ。きっと後に残るほどの害はないのだろう。
頭ではそう分かっていても、精神的にきついものがある。
ユングヴィは赤軍の兵士たちが苦痛や恐怖から逃れるために麻薬を乱用しているのを見てきた。そうして廃人になった兵士を過去何人も処分している。ソウェイルにああはなってほしくない。
徐々に朝が近づいてきた。
ユングヴィはソウェイルの部屋の寝台の脇で寝たり起きたりを繰り返しながらソウェイルの傍についていた。
サヴァシュや使用人たちにはさんざん自分の寝室で休むよう言われたが、ソウェイルから離れられなかった。いてもすることがないと分かっていながらも動けなかった。
何かできると思っているわけでもない。そんな思い上がったことを言うつもりはない。
ただ――目を離した瞬間に、息が止まってしまう気がする。
夜が完全に明けたあたりで、ソウェイルの様子に変化が出てきた。
時折うめき声を上げながら寝返りを打つ。腹を抱えるように背を丸める。
その姿を見ていると泣きそうになる。
痛いのだろう。当然だ、胃に穴が開いているのだ。大量に吐血して倒れたと言っていた。腹の中を開けて目で見ることはできないが、きっと大きな穴なのだろう。
ソウェイルはもともと胃が丈夫な方ではない。一度にたくさん食べられないし、少し無理をするともどしてしまうこともあった。
それに、胃、となると、精神的に大きな負荷がかかっていたに違いない。つらい思いをして、我慢しているうちに体に症状が出てしまったのだ。
ソウェイルの食事の管理をしてやれなかったことも悔しいし、ソウェイルの仕事に口を出せなかったことも悔しい。
ここまで来てしまったら、手遅れだ。
自分の存在は無力で、無益で、何をしてもいまさらなのだ。
今ここでソウェイルと一緒にいるのは、ソウェイルのためではなく、ユングヴィ自身の、ソウェイルを見ていたいという自分勝手な欲求のためだ。ソウェイルは嫌がるかもしれない。
先日のサヴァシュの言葉が浮かんでくる。
――この一、二年のことで、俺らにできることがある、としたら、避難所としてこの家を開放することぐらいだろ。俺は家族の愛とかいうぼんやりしたもので癒されたりゆるされたりはしないと思っているが、それでも、宮殿にいるよりはマシってことはあると考えている。
何があったのかは知らないが、宮殿にいるよりはマシだと思いたい。
「母ちゃん」
後ろから小声で話し掛けられた。
振り向くと、ほんの少しだけ扉を開けて、ホスローがこちらを覗き込んでいた。
ちゃんと――と言っても洗いざらしの木綿の生地で膝は擦り切れつつある、とてもではないが良家の子息とは思えない――服を着て、肩にはかばんを掛けている。これから学校に行くつもりなのだろう。
ホスローはいつもどおりの日常を送ろうとしている。
それに、ユングヴィは救われた。
「おれら、もう学校行くけど」
「そっか。いってらっしゃい」
「父ちゃんが、しょくどうに出てきて、ちゃんとメシ食え、って。って言えって言われて来た」
「そうだね、もうみんな食べ終わっちゃったよね、私が行かなきゃ片づかないよね……母ちゃんしっかりしなきゃな。ありがと」
「メシ食ってねるのが一番だぞ」
ユングヴィはちょっと笑った。ホスローは、間抜けな顔立ちもぼさぼさの赤毛も母親のユングヴィにそっくりだが、性格や言動は父親のサヴァシュに似ている。
立ち上がろうとした。
その時だ。
「……どうして……」
うめくような、唸るような、低い声が聞こえてきた。
慌てて振り向いた。
ソウェイルが目を開けていた。
寝台に横になったまま、左手で自分の胃の辺りを押さえて、苦痛に歪んだ顔をしている。
「どうして、俺はこの家にいるんだ」
その蒼い瞳には明るい感情はない。見ていると、ユングヴィは彼に負の感情を叩きつけられているように感じた。どんな意図でそんな目をしているのかは分からないが、何となく責められているのは伝わる。
「ソウェイル」
慌ててふたたび寝台の傍に座り込んだ。
「オルティくんがね、連れてきてくれたんだよ。宮殿から離れて休んだ方がいいって。お医者様や白軍の偉い人もちゃんと把握してるみたいだから、だいじょ――」
「余計なことを」
吐き出される言葉が呪いの呪文に聞こえる。
「俺はそんなことしてほしいなんて言ってない」
ユングヴィは戸惑った。
最初に認識したのは、ソウェイルの声が低くなった、ということだった。
聞き覚えのある声だった。
フェイフューだ。フェイフューの声に似ている。
低くかすれた、少し潰れた声が、死ぬ直前のフェイフューを思い出させるのだ。
冷静に考えれば、二人は父母を同じくする兄弟だ。声質くらい似るだろう。見た目は今でもぜんぜん違うが、二人は確かに兄弟だったのだ。
それはユングヴィにとってはちょっとだけ嬉しいことだった。
つまり元気になればソウェイルにも最盛期のフェイフューのようによく通るがどこか甘い女性にとっては魅力的な声を出せるのではないか。
そう思うと、なんとなく、嬉しい。
ソウェイルが不機嫌なのも、想定の範囲内だった。
彼の言うとおり、彼の望んだことではない。あくまでユングヴィとサヴァシュ、そしてちょっとだけオルティ、この辺のソウェイルの周囲にいる人間が望んだことだった。ユングヴィはそれを確かに自覚していて、自分の家で休むことをソウェイルに押し付けている。
それを責められるのも、ユングヴィは嬉しい。
ソウェイルにはちゃんと意思があって、自分の意思に反してここに連れてこられたことを認識していて、怒っている。
怒る――素晴らしい感情だ。喜怒哀楽がある。ソウェイルにはまだ自我があるのだ。
だがどれもこれも今言うのは空気が読めていない気がする。
何を言うべきか迷っていると、ソウェイルが上半身を起こした。左手で胸の下を押さえたまま、だ。
「勝手なことをして」
唸る声は手負いの獣だ。傷ついた生き物がこれ以上傷つけられまいと警戒している声だ。
寂しくはあったが、当然の反応だ。ソウェイルがちゃんと生きている証拠だ。
「俺が喜ぶとでも思ったのか? いまさら母親面して、俺を助けてやっているつもりか」
ユングヴィはゆっくり首を横に振って「そんなことないよ」と答えた。
しかしユングヴィも強くなったようだ。
逃げようとか、ごまかそうとか、そういうことは考えなかった。
話そう、と思った。
いつかは絶対話さないといけない。このひと晩――否、この三年間、どんな思いでいたかを、ソウェイルに語り聞かせないといけない。
でも、今ではない。
今は疲れが頂点に達しているはずだ。どうせ一日二日で帰すつもりはない。もう数日かけて、痛みがやわらぐまで待とう。
「お前はいつもそうだ。ソウェイルのため、ソウェイルのため、と言って余計なことばかりする」
ユングヴィは笑った。
「そんな風に思ってたんだねぇ」
ソウェイルが目を丸くした。
「いいよぉ、もっとそういうこと言いなよぉ。ソウェイルも大きくなったから、もう自分のお口で説明できるでしょ」
次の時だ。
ソウェイルが右手を振り上げた。
寝台の脇に置かれていた低い棚の上、ユングヴィが彼の目が覚めた時に水を飲ませようと思って用意していた茶碗や水差しを、払い除けた。
床に叩きつけた。
砕けた茶碗を見て、ユングヴィは、興奮するのを感じた。
「……反抗期なんだねぇ……!」
そう呟くと、ソウェイルは怒る気が失せたらしい。頭を抱え、そっぽを向いた。
そこでホスローがしゃしゃり出てきた。
「おい、何すんだよ!」
ユングヴィは驚いた。ソウェイルも驚いたらしく振り向いてホスローの顔を見た。
「いくら兄ちゃんでも母ちゃんにらんぼうなたいど取るの許さないからな!」
ホスローがユングヴィの腕をつかむ。守るようにユングヴィの一歩前に出る。
「あやまれよ! 母ちゃんずっと兄ちゃんのためにじゅんびしてたんだからな。母ちゃんに何かしたらおれめっちゃおこるからな!」
「ちょっと、やだ、どうしたのホスロー」
「兄ちゃんにとっての母ちゃんが何なのかは知らないけど、おれにとっては母ちゃんは母ちゃんなんだぜ。だから、そういうことするのやめろ」
ユングヴィは感動した。泣きそうになった。あの、やんちゃで向こう見ずな、まだ何をしでかすか分からないと思っていた八歳のホスローが、必死に母親を守ろうとしている。愛しくて胸がはちきれそうだ。
「ホスローか……」
ソウェイルが、息を吐いた。
「大きくなったな」
そう言われると、今度はホスローも毒気が抜けたらしい。「おう」と頷いて黙った。
「とにかく、ちょっと待っててね。今、
言いつつ、ユングヴィは立ち上がった。そしてホスローの手首をひっつかんで引いた。
「あんたは学校に行きなさい」
「やだ! 今日は休みにする! 母ちゃんのこと見てる!」
「行きなさいってば! 母ちゃんのことはいいの! お兄ちゃんどうせ起きてられないんだからだいじょうぶなの!」
視界の端で、ソウェイルがまた寝転がって布団をかぶったのが見えた。ユングヴィはほっと息を吐きながら部屋を出た。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます