第5話 みんな知らないうちに成長している

 雨でぐっしょりと濡れていたソウェイルを、サヴァシュと使用人の息子が二人がかりで着替えさせた。意識のないソウェイルの体は重く、女性ばかりの使用人たちや身重のユングヴィでは対応できなかったのだ。使用人の子たちも召し使いにするつもりで育てているわけではなかったが、男の子たちが大きくなってきた結果、ここのところずいぶんと助けられている。ユングヴィはもう貧しかった頃には戻れないだろう。


 ソウェイルの体が重い。


 冷静に考えれば当然だ。彼は現在十八歳、あと一、二ヶ月で十九歳になる立派な成人男性だ。むしろ大きくなっていてもらわなければ困る。


 しかし、サヴァシュが途中でふと漏らした「こいつたぶんもう俺より背が高いな」という呟きを聞いた時、ユングヴィは目の前が真っ白になるのを感じた。座り込んだまま立ち上がれなくなってしまった。


 そんなに大きくなるまで、自分は何もせずに放っておいたのか。


 とりあえず、無事にサヴァシュの服に着替えさせることはできた。


 ソウェイルが、彼のために取っておいた部屋の寝台で眠っている。その、掛け布団からはみ出た手首を見る。


 手首が袖から出ている。サヴァシュの服だと微妙に小さいのだ。サヴァシュの言ったとおり身長はソウェイルの方があるのだろう。今は掛け布団で覆われているが、先ほどは足首も見えていた。

 しかしソウェイルはぞっとするほど華奢で胸には骨が浮いている。サヴァシュの服だと肩幅や胸回りが余る。筋肉量にはまだ圧倒的な差がある。見た目の雰囲気で言うなら今もサヴァシュの方が大きい。


 左手でソウェイルの手首をつかんで、右手で掛け布団を持ち上げ、中にしまってから、掛け布団を下ろした。

 細い。

 そして冷たい。

 生きているのかどうか不安になる。


 蒼白くやつれた顔には生気がない。丸く小さく少女のようだった面立ちはだいぶ雰囲気が変わっていたが、ユングヴィが思っていたような成長とは異なり、育ったというよりは老けたように見えた。


 見ているだけなのに呼吸が苦しい。


 不意に視界の端に小さな手が伸びてきた。小さく柔らかい幼児の手だ。それが枕の傍らに丸めておいたソウェイルの長く蒼い髪に触れようとしている。

 ダリウスだ。


「触るんじゃない!」


 ダリウスが慌てた様子で手を引っ込めた。目を真ん丸にしてユングヴィの顔を見上げる。

 ユングヴィは後悔した。反射的に大きな声を出してしまった。一切怒鳴らずに育てたいのになかなかうまくいかない。

 急いでダリウスを抱き締め、優しい声を意識しながら、「こらこら、いたずらしたらだめだよ」と言い直した。同じことを言うのでも言い方というものがあるのだ。


「お兄ちゃん起きちゃうでしょ。触らないの」


 ダリウスが「ねんねなの」と呟く。


「でなちゃの」

「……うーん、ごめんね、お母ちゃん今の言葉はちょっとよく分かんなかったよ……」


 すると彼はユングヴィの腕に抱かれたままソウェイルの方を向いた。短い人差し指でソウェイルの髪を指した。


 蒼い、蒼い、蒼穹そうきゅうの蒼だ。

 天を染める太陽の色だ。


 ふと、ダリウスからしたら不思議な色の髪なのかも、というのが頭に浮かんだ。こういう色の髪をした人間を見たことがないのかもしれない。

 見たことがないのだ。

 ダリウスが生まれたのは、ソウェイルの即位後しばらく経ってからだった。

 ソウェイルはその時から今日に至るまで一度もこの家に来ていない。

 ダリウスにとって、ソウェイルは、知らない人なのだ。


「……そっか」


 じわりと、視界が滲む。


「あんたのお兄ちゃんだよ、ダリウス。あんたの、一番上の、お兄ちゃん」


 ダリウスの反応がない。理解できないらしい。彼にとっての兄はこの世で唯一ホスローだけなのだろう。

 それがたまらなく悲しい。


「すごい髪の毛だねぇ。ダルくん、これ、何色? なーにーいろって言うのかな?」

「なーにーろ!」

「そうじゃなくて……」

「なーにーろ?」

「お母ちゃんが訊いてるんだけどさ……」


「母ちゃん」


 呼ばれて振り向く。

 扉を少しだけ開けて、ホスローとアイダンがこちらを覗き込んでいた。


「ちょっとだけいい?」


 珍しいことに、ホスローが部屋の中の様子を窺って小声で話し掛けてきている。やんちゃな彼のことだ、いつだって空気を読まずにとんちんかんなことをするものだとばかり思い込んでいたが、見くびっていたようである。ちょっとだけ申し訳なく思いつつ、同じく小声で「なに?」と問い返した。


 ホスローの、いつもは溢れ出る元気で輝いている瞳が、少しだけ、曇っている。


「兄ちゃん、生きてる……?」


 ユングヴィは言葉が出なかった。胸の奥が詰まって何も答えられなかった。


 嬉しかった。

 ホスローはソウェイルのことを覚えているのだ。

 ホスローは、自分が五歳になるまでソウェイルに可愛がられて育ったことを、まだ、覚えている。彼にとっては、まだ、ソウェイルは兄なのだ。


 しかし生きているのだろうか。分からない。呼吸はしている。だが息をしていることと生きていることは必ずしも同じではない。ユングヴィは安易に大丈夫だとは言いたくなかった。

 死にそうだからそっとしておいて、と、言ってしまっていいのだろうか。八歳のホスローに何をどこまで説明すべきか。


「……ごめんね。とりあえず、静かにしててほしいな」


 ホスローは素直に「わかった」と頷いた。


「おれ、ダリウスむこうにつれていこうか?」


 ユングヴィは胸を撫で下ろした。彼は大きくなって兄らしく振る舞えるようになったのだ。


「ありがとう。お願いできる?」


 言いながらダリウスを抱えて扉の方を向かせた。ホスローが忍び足で部屋の中に入ってきてダリウスに手を伸ばした。


 ホスローの後ろにアイダンがついてきた。


 アイダンはそれまで一言も発しなかった。


 普段から口数の多い子ではない。アイダンが喋らないことはさほど気に掛けるものではない。


 だが――


「このへや、つかうひとがいたのか」


 ユングヴィは、血の気が引くのを感じた。


「ずっとだれのへやかとおもっていた」


 部屋の中を見回す。


 ソウェイルが自分で木工をして据え付けた棚、髪の色に合わせて特注した蒼い窓掛け、壁の鷹の絵はソウェイル自身が描いたものだ。

 ソウェイルが何年も使い込んできた、ソウェイルのための部屋だった。ソウェイルのために個室を残しておいてやりたくて、どんなに子供が増えても片づけずにおいた部屋だった。


 それを、アイダンは、誰の部屋なのか分からなかったと言う。


 アイダンは、ソウェイルを覚えていないのだ。


 無理もない。最後に話した時アイダンは確か三歳だった。たかが三年、されど三年だ。


 アイダンは、知らない人を見る目で、ソウェイルを見ている。


「おい、よけいなこと言うなよ」


 ホスローがそう言って妹をたしなめた。アイダンが「なにが?」と首を傾げる。


「じゃあな。おれ、ダルとアーつれてどっか行くわ」


 普段ならここで、どこに行く気だ、もう遅い時間なのだからこの辺にいろ、と言うところだったが、今ばかりは「うん、ありがとね」と流した。


 その時だ。


「俺もちょっといいか」


 扉の向こう、アイダンの背後から声がした。落ち着いた青年の声だ。オルティだろう。


「どうぞ」


 ユングヴィがそう応じると、上半身裸で、片手で手拭いを持ってまだ濡れている髪を拭きながら、オルティが入ってきた。彼は時々こういう野性的な行動を取る。鍛えられたたくましい筋肉の胸と腹を見るに、彼もサヴァシュ同様見せたい人種なのかもしれない。男の子は分からないものだ。


「白軍の宿舎に帰る。事のあらましはだいたいサヴァシュさんに説明したから後で聞いてくれ」


 ユングヴィは頷き、「分かった、ありがとう」と答えた。


「ごめんねオルティくん、大変なことさせて。私ら、いつもオルティくんにめんどくさいことさせてるね」


 彼はにこりともせず「いまさらだ」と言った。


「ソウェイルには命を救われた恩がある。チュルカの戦士は義を軽んじない」

「そっか」

「だがやはり根は遊牧民だからな。どうにもならないと思ったら荷物をたたんで草原に逃げ帰る。それは止めたって無駄だということを忘れないでいただきたい」


 ユングヴィは苦笑して「分かったよ」と告げた。サヴァシュもずっと同じことを言い続けてもう二十年以上アルヤ王国に住んでいる、とは、言わなかった。もしかしたら本気かもしれないし、そうなった時に止める権利は自分たちにはない。オルティにも――否、せめてオルティだけでも、好きに生きてほしかった。


「また様子を見に来る」


 そう言い残して、オルティが部屋を出ていった。

 それについていくかのように、ホスローが、ダリウスを抱えて歩き出した。さらにその後ろを、アイダンもついていった。


 部屋に二人きりで残された。


 ソウェイルの顔を見る。変化はない。死んでいるかのようだ。


 すっかり青年らしくなった。


 少年から青年に移り変わるところを見たかった。

 知らないうちに大人になってしまった。


「……ごめんね」


 だが子供は小さくならないのだ。



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