第4話 息子は雨の日に帰ってきた

 雨が降った。かれこれ一年くらいぶりだ。

 アルヤ高原は乾燥していて一年のうち三百五十日くらいは晴れているが、年に数日だけ、冬から春にかけて雨が降る。

 気温はまだまだ低い。けれど日は少しずつ伸びてきた。そしてとうとう雨が降った。

 冬も終わりに近づいてきたのだ。


 窓際に座って、赤子の肌着を縫う。


 途中で一度手を止め、そっと、膨れ上がった腹を撫でた。

 腹の中で赤子がゆるゆると動いている。この子は上の子たちに比べればおとなしい気がするが、確かに生きて動いていることが分かるのでさほど気にはならない。

 春が来たら出てくるだろう。


 男の子だろうか、女の子だろうか。ホスローが人形遊びのできる妹を望んでいるが、女の子だからと言っておとなしくて扱いやすい子になるとは限らない。うちで一番荒々しいのは長女のアイダンだ。

 性別など、もっと言えば性格ですら、ユングヴィにとってはどうでもいい。とりあえず、小さいうちに死んでしまうような病気のない子であってほしい。


 ダリウスは今日もユングヴィの傍でおとなしく遊んでいる。

 大人の手の平ほどの大きさの四輪車を夢中で転がしている。本来はおもちゃの馬に接続して馬車にするための車だ。この子はどうやら車輪のついたものが好きなようだ。木彫りの小さな猫や犬を用意していて、時々載せたり降ろしたりしている。


「がらがらがらがら……がらがらがらがら……」

「ダルくん、楽しい?」

「んし!」


 ホスローやアイダンと比べるとおとなしすぎるが、ソウェイルもこんな感じだった気がするのでユングヴィは特に気にしていない。


 部屋の外から騒がしい声が聞こえてきた。屋内、おそらく玄関の方からだ。

 女の子たちが甲高い声で騒いでいるようだ。何か入ってきたのだろうか。


 ユングヴィは立ち上がった。

 玄関の様子を見に行きたい。

 サヴァシュも使用人たちも家の中にいるはずだが、家の中のどこにいるかは分からない。すぐには対応できないかもしれない。お腹の大きいユングヴィにできることはさしてないが、大人が見ているだけで安心する子もいる。念のためだ。


「ダルくん、一緒行こうか。お姉ちゃんたちのトコ行こ」


 言うと、ダリウスは左手に木彫りの馬を持ったまま立ち上がった。そして右手をユングヴィの方に伸ばした。ユングヴィはその手をしっかりと握り締めた。


 廊下に出た時だ。


 階段を駆け上がってくる姿があった。

 腰に届くほど長い黒髪を数本の三つ編みにしている、丈の長い服に刺繍の入った短い胴着ベストの、切れ長の目の幼女――長女のアイダンだ。


「おかあちゃん」


 彼女はまっすぐユングヴィの方に駆け寄ってきた。それからダリウスの手を握っているのとは反対側、ユングヴィの右手を握って引っ張った。アイダンにしては珍しい。この子はあまり母親に甘える子ではない。


「きて。はやく」

「どうしたの? 何かあったの?」

「いいから。はやく」


 強い力で引っ張られる。五歳と言っても侮れない。

 ユングヴィは思い切ってダリウスを抱き上げた。重いが娘の珍しい真剣な懇願に応えてやりたかった。


 アイダンに引きずられるようにして階段を下りていく。


 案の定、彼女はユングヴィを玄関の方に連れていった。


 玄関すぐ近くの柱の傍に、使用人の娘である少女がひどく不安げな顔で突っ立っている。彼女はユングヴィの姿を見つけるとか細い声で「奥様、奥様」と言いながら歩み寄ってきた。


「大変、大変です。オルティさんが――ええっと――うまく説明できないんですけど――」

「だいじょうぶだよ、落ち着いて。私がすぐ行くから、よかったら私の代わりにダリウスを抱っこしてくれる?」

「はい」


 少女にダリウスを渡して、小走りで玄関へ向かう。


 使用人の女性たちの声が聞こえてきた。歴戦の猛者と言っても過言ではない彼女たちが騒いでいるとなるとおおごとだ。

 何が起こったのだろう。今一瞬あの少女がオルティの名を口にした気がするが、彼が戻ってきたのだろうか。こんな時間に、だろうか。まだ昼過ぎで男の子たちも帰宅していない時間だ。


 胸騒ぎはするが、ユングヴィはこの時はまだ比較的落ち着いていた。

 ユングヴィも数々の戦場をくぐり抜けてきた身だ。人死にが出ない限り大抵のことは何とかなる。そして人死にが出るような事態が起こっているなら使用人の女性たちはまだ心の柔らかい娘たちを放し飼いにしたりなどしないのだ。きっと大したことではない――そう思っていた。


 この時は、の話だ。


 玄関に辿り着いた時、ユングヴィは、自分の中で音を立てる勢いで血の気が引いていくのを感じた。


 玄関にずぶ濡れのオルティが立っていた。

 彼はひとりの人間を背負っていた。


 雨に濡れて、長く蒼い髪が、オルティの服の肩に張りついている。


「ソウェイル!!」


 ここ何年も出したことのない大声を出してしまった。


 堪えきれなかった。急いで駆け寄った。


 オルティがソウェイルを背負って連れてきた。


 オルティはゆっくり腰を落とした。背中のソウェイルを刺激しないよう、滑らかで落ち着いた動作でその場にしゃがみ込んだ。

 すぐ傍にいた使用人の女性がソウェイルの肩をつかんだ。

 ソウェイルは一切身じろぎしなかった。


 また別の使用人の女性が駆け寄ってきて、手拭いでソウェイルの頬を拭きながら、ソウェイルの蒼い髪を掻き分けた。


 頬は蒼白く痩せこけている。蒼く長い睫毛は下ろされていて、そのまぶたが持ち上がる気配はない。唇も真っ白で生きている感じがしなかった。まるで人形のようだ。


「ソウェイル」


 急いで駆け寄った。ソウェイルに手を伸ばした。

 使用人の女性が「いけません」と言ってユングヴィの手をつかんだ。


「奥様が濡れてしまいます! そのお体でお風邪を召したら大変なことです!」


 ユングヴィは泣きそうになった。

 他の子供のために別の子供を抱き締めることができない。子供が何人もいるとこんなことになってしまう。

 ユングヴィは妊娠中に何かやらかすと赤子は簡単に死ぬということを学習していた。力ずくで止めてくれた彼女に感謝しなければならない。


 オルティはソウェイルを完全に床の上に下ろした。それでもソウェイルは一切自分から動こうとはしなかった。


「ソウェイル、ソウェイル」


 見る影もなく痩せてしまった。背が伸びて少し骨が太くなった気がするが、それを上回る痛々しさだ。

 思っていたよりも大人っぽい。三年前のソウェイルはもっと女の子のようだった。

 それを素直に喜べない。

 自分の手元にいない間に、ひどいことになってしまった。


 目を覚まさない。


「きつい痛み止めを飲ませている。麻薬だ」


 使用人から受け取った手拭いで自分の首を拭きつつ、オルティが言う。


「丸一日は意識が戻らないそうだが、専門の薬師くすしの処方だからそのうち計算通りに抜けるだろう」

「痛み止め? この子どこか怪我してるの?」

「血を吐いて倒れた」


 聞いているだけで身を引きちぎられるように痛い。


「たぶん胃に穴が開いたんだろうと医者が言っていた」


 膝から力が抜けて、ユングヴィはその場に座り込んだ。アイダンが「おかあちゃん」と言いながらユングヴィの腕をつかんだ。


「胃に、穴」


 精神的に強い負荷がかかった時にかかる病気だ。


 宮殿で何かとてつもなくひどいことがソウェイルの身の上に起こった。


 守ってやれなかった。


「おい」


 声を掛けられて振り向いた。

 サヴァシュが別の少女に連れられてやって来たところだった。


 彼はすぐソウェイルの傍にしゃがみ込んだ。

 ソウェイルの膝の下に左腕を、ソウェイルの背中に右腕をあてて、横抱きにして抱え上げる。あっと言う間のことだった。


「とりあえずこいつの部屋に連れていく」


 サヴァシュの言葉で我に返った。ユングヴィは立ち上がった。


「早く着替えさせないと別の病気にかかるぞ」

「うん、そう、そうだね。ありがとう」


 サヴァシュが少し振り向いてオルティの方を見る。


「ありがとな。さっそく連れてきてくれたんだな」


 彼がそう言ったのを聞いてから、ユングヴィは、またやってしまった、と思った。ソウェイルのことになるといつも周りが見えなくなる。今度はオルティをないがしろにしてしまうところだった。

 きっとオルティは一人でソウェイルを抱えて宮殿を抜け出してきたのだ。いよいよ完全に潰れてしまったソウェイルを救うために、だ。それも、王の誘拐とみなされても仕方がない状況で、だ。


「ありがとう、ありがとうね」


 オルティはぶっきらぼうに「別に」と答えた。


「とりあえず、オルティくんも上がって。着替え、サヴァシュの服着ていいから、濡れた服を脱いで乾かしてね」

「ああ。お言葉に甘えてそうする」


 階段を上がり、ソウェイルの部屋の方に向かいながら、サヴァシュが「後でゆっくり話を聞かせてくれ」と言った。オルティは使用人に導かれて居間の方へ向かった。




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