第14章:紅蓮の女獅子と蒼き太陽

第1話 男児はこんな感じで育つ

 ユングヴィははっとして上半身を跳ね起こした。

 隣で寝ていたはずの次男がいない。

 またやってしまった。今日も添い寝をしているうちに一緒に熟睡してしまった。


 このひと月ほど毎日こうだ。現在五人目の子を妊娠して半年を越えたところだが、ここ最近眠くて眠くてたまらない。

 最初のうちは、吐き気らしい吐き気がない分、過去最高に楽な妊娠だと安心していた。しかしなぜかあと二、三ヶ月で出てくるという最近になって眠気に襲われるようになった。世間ではこういう状態のことを寝づわりと言うらしい。ユングヴィにとっては五度目の妊娠にして初めてのことだった。


 こうも毎日寝てばかりだとつらい。日によっては起き上がることもままならないのだ。一日を無駄にした罪悪感がある。


 ユングヴィが一日中寝ていても何かが滞るわけではない。家事は使用人たちだけで回っている。ユングヴィは現在自宅で実子三人と使用人の子供六人の合計九人を育てているが、ほとんどは学校に上がっているので、基礎的な生活行動を手伝う必要はない。家族の誰も責めたり怒ったりしない――みんな理解してそっとしておいてくれる。


 それでも身を粉にして働くことを美徳だと思って生きてきたユングヴィは今の自分が恥ずかしいのだ。


 唯一まだ二歳の次男だけは自分の手で世話をしなければいけないという強い使命感があって、起きている時間のほとんどは彼と一緒に過ごしている。


 今日もそうだった。


 昼ご飯を食べ、眠くなってきたらしい彼がぐずり始めたので、二人で布団に横になった。

 横になるまでは、彼を寝かしつけたら起き上がって上の子供たちが学校から帰ってくる前に子供たちの部屋を掃除してやろうと思っていた。

 ところが気がついたら部屋の中が暗くなっている。日が落ちたのだ。


 次男がいない。


「ダリウス……っ」

「あい」


 名前を呼ぶと、ユングヴィが見ていた出入り口の方ではなく、背後、窓のある壁の方から声が聞こえてきた。

 振り向くと、おままごと用の一輪の荷車に大量の木製の野菜を積んで押して歩いている次男のダリウスの姿があった。

 少し垂れ目気味の目元は母親のユングヴィに似ているが、他の全体的な顔のつくりと直毛に近い髪質の黒髪は父親譲りだ。


「あたおちたてた?」

「……おはよう。一人で遊んでるの?」

「そう。しゅてたの」

「そっかぁ……」


 言葉がまったくアルヤ語になっていない。だがユングヴィはあえて矯正しなかった。多少意味不明でも、単語を二、三つなげて文章を話そうとしているのは伝わる。彼なりの心意気を評価したい。それにユングヴィには何を言いたいのか何となく分かるのでそんなに不便だと思っていなかった。順調に育てば三歳になる頃にはもっと流暢なアルヤ語を話すだろう。


「ダルくんはいっぱいおしゃべりしてくれていい子だねぇ」

「だういいこ。ちゃちゃべでいうの。しゅごーい」

「そうだよ、親孝行なことだよ」

「おーおーおー。おーおーおーよ。おーおーおー」


 思えばホスローは四歳近くなるまで一切言葉らしい言葉を喋らなかった。あの時の、この子は一生会話ができないのではないか、という不安を思うと、これからアルヤ語らしくなっていくだろうと思えるダリウスは安心だ。

 しかしそれを本人たちの前では口に出してはいけない。兄と比較されることがダリウスにとって変な圧力になってはいけないのだ。ホスローに対してもお前より弟の方が成長が早いなどとは絶対に言ってはだめだ。子供は聡い。二歳でも侮れない。余計なことは言わないに限る。


「うりうりー、うりうりー」


 一輪車を押して部屋の中をぐるぐると回る。最初は何のことかと思ったが、おそらく瓜売りのことだ。一輪車におもちゃの西瓜スイカ冬甜瓜ハルボゼが盛られている。二歳と言ってもよく見ている。親馬鹿かもしれないが、この子は賢いかもしれない。


 手招いて、「冬甜瓜ハルボゼひとつください」と言った。

 ダリウスが「あい」と返事をして近づいてきた。


 すぐ傍に来て、一輪車の持ち手の部分を床に置いた段階で、彼の体を抱え上げた。

 尻に顔を近づける。匂いを嗅ぐ。臭くない。


「誰かにおむつ替えてもらった?」

「おたとたよ」

「お父ちゃんかな?」

「そう」

「お父ちゃんにおむつ替えてもらったのか。よかったね」


 ダリウスを床に下ろした。


 大きく溜息をついた。

 つまりこの子の父親であるユングヴィの夫のサヴァシュが、この部屋に入ってきて、ここでダリウスのおむつを替えたか、別の部屋に連れ出しておむつを替えてまたこの部屋に戻したか、ということではないだろうか。

 その間自分はまったく気づかずに寝ていたのか。

 たまらなく悔しい。申し訳なさで消えてしまいそうだ。だがそれを言っても気にしないように言われるだけだ。とっとと産んで元気に動き回れるようになりたい。


 不意に廊下の方から足音が聞こえてきた。軽快な、言うならばまだ体重の軽そうな足音がこちらに向かってくる。

 聞いていると頭が痛くなってくる。


「母ちゃん!」


 まだ甲高い少年の声が響いた。

 直後、部屋の中に足音の主が入ってきた。

 短い赤毛の先をほうぼうに散らした、日に焼けた顔の少年だ。


「起きてた!?」


 ユングヴィはまた溜息をついた。


「まずは、ただいま、でしょ。ちょっとは落ち着いてよ、ホスロー」


 少年――ホスローが歯を見せて笑う。笑えば許されると思っているのである。

 歯の生え変わりの時期だ。前歯の上二本が抜けて空きになっている。間抜けな顔だ。


「おかえり! あれ、ちがう!? おれがおかえりだ!」

「もー、玄関からやり直して。家の中では走らないって約束でしょ、ダリウスが寝てるかもしれないんだから。ここまで歩いて来て。はい! いってらっしゃい!」

「ダルも母ちゃんも起きてるじゃん!」


 ホスローが肩に引っ掛けていたカバンを壁に向かって放り投げた。カバンが壁に勢いよく打ち付けられたあと床に落ちた。高い金を出して買い揃えてやった教科書類が床に広がった。本が傷む。ユングヴィは思わず「うわぁ!」と叫んでしまった。


 高級な革のカバンは卒業するまで使うだろうと思って奮発したものだが、使い始めてまだ二年、すでに傷だらけだった。しかも拭いても拭いても砂まみれになる。男児の持ち物など汚れるし壊れるということを念頭に置いて安物を与えればよかった。だめになったらそのつど買い替えることにすればよかったのだ。貧乏性のユングヴィはまだ今のカバンを捨てる覚悟が定まらない。ダリウスが学校に上がった時には同じ過ちを犯さないようにしたい。


「なんで乱暴にするの!?」

「おれカバンきらい! もう持ってかない! 教科書があるから勉強しなきゃいけなくなるんだ! このへやにすててくから母ちゃん好きにしていいぜ!」

「こら! あんたって子は! 親がどんな思いで学校に通わせてるか知らないでクソ生意気な口を!」


 恐れを知らないホスローはそれでも母に歩み寄ってきた。殴られる覚悟があるのか、いい度胸だ、と思ったが、そういうわけではないらしい。

 ユングヴィのすぐ傍に、ひざまずくように座り込んだ。

 両手を伸ばして、ユングヴィの丸く膨らんだ腹に触れる。


「赤ちゃん生きてる?」


 ユングヴィはすっかり怒る気が失せてしまった。


 ホスローは時々こうして赤子の心配をする。彼がまだ五歳だった三年前、妹として生まれてくるはずだった赤子が一人死んでしまったことを覚えているのだろう。ダリウスが腹の中にいた時もよくこんなことを訊ねてきた。

 ホスローのためにも、元気な子供を産まなければならない。


「生きてるよ。今はちょっと静かだけど……、ほら、ホスロー兄ちゃんが学校から帰ってきたよ、動いてみて――だめだね」

「でもおとなしい方がいいな。おれ、今度は妹がいいんだ。ダリウスは男だったし、おれ、妹にかわいい服着せていっしょにあそびに行くって決めてるんだ。だから次は女な」

「ええ……そんな産み分けできないよぉ……」

「おれ、次こそかわいい妹がほしいなぁー!」


 暗にアイダンが可愛くないと言われてしまった。確かにホスローの言うことをおとなしく聞く妹ではないが――むしろホスローの百倍くらい我が強くて取っ組み合いの喧嘩もするぐらいだが――可愛いと思っていてほしい。


「お腹の中でおとなしいかどうかと男の子か女の子かはあんまり関係ないんだよ。なんならアイダンが一番激しかったもん」

「アーはアーだからだろー!」


 遠く台所の方から煮物の香辛料の香りが漂ってきた。ホスローは敏感に嗅ぎ取って立ち上がり、「はらへったー! 夕飯の前に何かもらってこよー!」と言って部屋を出ていった。勝手な奴だ。


「にた、たちゃた」

「そうだね、行っちゃったね」

「く」

「行く? いいよ、ダルくんも行こうか」


 ユングヴィも立ち上がった。



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