第13話 絶対ゆるさないからな
部屋に戻ってまず女官たちを追い出した。カノの癇癪に慣れていた女官たちは何の疑問も持たなかったようで、すぐさま無言で離れていった。カノはあっと言う間に一人になれた。
ひとりだった。
部屋の中をひっくり返した。
大きな包みに持てるだけの宝飾品を突っ込んだ。換金すれば向こう二十年くらいは暮らせる計算だ。王家の象徴である蒼い色を使ったものは避けた。足がつくものを質屋に入れることはできない。
エカチェリーナに渡されたロジーナ風の女官の衣装を着る。女官の服なので一人でも着脱できてほっとした。
最後に――壁の棚に飾られていた橙の神剣が目に入った。
この三年間一回も抜かなかった。もともと戦闘技術のないカノは儀式の時にしか抜いたことがなかったが、その儀式にも出席しなくなって以来何の用事もなくなっていた。ただの置き物だ。それでもカノにしか抜けないのでカノの部屋に置いておくしかなかった。
悩んだ。
カノにとっては父の形見だ。しかも自分にしか抜けない。愛着がないわけでもなかった。
だが、橙の神剣こそカノの身分証明書だ。神剣を持っていることが見つかったらその主はカノ以外にあり得ない。
最終的に、カノは神剣を棚の上に置き去りにすることにした。
すべてを捨てて遠くに行きたい。
そこに西洋風の馬車が待っていた。まるで
場所の傍らにエカチェリーナが立っている。
彼女はカノの顔を見るとにこりと微笑んだ。上機嫌のようだ。こんな彼女は初めて見る。
「お遣いご苦労様です。お行きなさい。必ずフョードル堂に行くのですよ」
フョードル堂とはどうやら彼女が通っているロジーナ正教の教会の名前らしい。しかし先ほどの話では教会には向かわずエスファーナの端の乗合馬車乗り場に連れていってくれることになっている。あくまで宮殿の人間にわざと行き先を聞かせて安心させようという寸法だ。
御者はすでにエカチェリーナが買収してある。本当に御者が言うことを聞いてくれるかは分からなかったが、カノは信じるしかない。
他に頼れるものはない。
乗り込んだ。
これで蒼宮殿とお別れだ。
「ありがとう」
最後に、カノはエカチェリーナにそう言った。
エカチェリーナは「いいえ」と返した。
「
馬車の戸を閉めた。
馬車はすぐ走り出した。小窓から景色が流れていくのが見える。
懐かしい景色だった。この三年間一度も見ることができなかった、少女の頃、女学校に通う道すがら見ていた景色だった。
王都エスファーナが大好きだった。
もうお別れだ。
たまらなくみじめな気持ちになってきた。
自分は、今、ロジーナ人の召し使いの衣装を着ている。自慢の黒髪は小麦粉のせいで荒れている。
たった一人で王都を出ようとしている。
どうしてこんなことになったのだろう。
何か悪いことをしたのだろうか。どこで道を踏み外したのだろうか。
フェイフューがいてくれたら――あるいはベルカナがいてくれたら――
考えても仕方のないことだ。
でも、涙が溢れて止まらない。
固く冷たいものに触れた。金属の感触だ。
カノは驚愕した。目を見開いて自分の左側を見た。
馬車の腰掛けの上、カノの隣に、橙の神剣が横たわっていた。
「……なんで?」
確かに部屋に置いてきたはずだ。馬車に乗り込むまではここになかったはずだ。
だが、今、確かに、ここにある。
いまさら宮殿には戻れなかった。返しに行けない。馬車の中に置いてもいけない。持っていくしかない。
持ってきた着替えを巻きつけて隠した。誰にも見つからないようにと祈るしかなかった。
馬車は約束どおりエスファーナの端の乗合馬車乗り場に辿り着いた。吐き気と倦怠感ですでに疲れ切っていたが、少しでも早くエスファーナを出なければならないと思って、次の馬車へすぐに乗り込んだ。
行き先に少しだけ悩んだが、とりあえず北東方面、東部州の州都であるメシェッド行きを選んだ。メシェッドはエスファーナからはかなりの距離があるし、十神剣の仲間である
南部州、というのも考えなかったわけではない。幼少期に住んでいたので勝手が分かるのだ。だがすぐに諦めた。
全身を覆う真っ黒な
このまま誰にも見つからないといい。
馬車が走り出す。
カノは運命から逃げた。
「カノ」
カノ付きの女官たちがカノの失踪に気づいたのは午後になってからだった。ある女官が昼食を部屋に運んだ時にカノが部屋にいないことを認識したのだ。しかも部屋は強盗にでもあったように荒らされていて宝飾品の
「カノ」
騒ぎはすぐに宮殿中に広がった。
ソウェイルの耳にも入った。
ソウェイルは血相を変えて
「カノ!」
いない。
どこにもいない。
カノが、消えた。
回廊の真ん中でソウェイルが立ち止まる。オルティとシャフラがソウェイルに駆け寄る。
「いたか」
「いなかった。そっちは?」
「いらっしゃいませんでした」
三人で顔を見合わせる。
「何事です」
声のする方を向くと、綺麗に髪を結い上げた、美しい氷の女王エカチェリーナが立っていた。
彼女は相変わらず涼しい顔をしている。まるで何事もなかったかのようだ。
ソウェイルが彼女に近づく。
「カノを見なかったか?」
彼女は即答した。
「存じ上げません」
「……そうか」
「彼女がどうかしたのですか?」
「突然宮殿から消えたんだ。宮殿のどこを捜してもいない。出ていったのかもしれない。あいつが一人で出て行けるとは思わないんだけど――」
「いいではありませんか」
その唇の端が、釣り上がった。
笑っている。
「あのような
ソウェイルが目を丸く見開いた。
「案外男と駆け落ちしたのかもしれませんよ」
「……そんなわけが、」
「追い掛けるのはおやめなさい」
にこりと、
「貴方の妻は私一人でいいのですから」
ソウェイルが口元に手を当てた。蒼白い顔でうつむいた。
肩が震えた。
「……ソウェイル?」
次の時だった。
指と指の隙間から、暗い紅色の液体がこぼれた。
ソウェイルがその場にうずくまった。
「ソウェイル!!」
シャフラが悲鳴を上げた。
オルティが急いでソウェイルの肩を抱いた。だがソウェイルは床に手をついてその場に血を吐き出し続けた。
「医者を呼べ! 早く!!」
シャフラが「はい!」と応えてその場から立ち去る。
「おい、しっかりしろ」
絶え絶えになる息の隙間から、ソウェイルが焼けた喉を振るわせて言った。
「ゆるさないからな」
「ソウェイル」
「カノのやつ、絶対ゆるさないからな。ここまでしてやったのに俺を捨てていくなんて、絶対、絶対ゆるさないからな」
吐く吐息まで鉄錆の香りだ。
「俺から逃げるなんてゆるさない。いつか絶対、連れ戻してやる」
数ヶ月後、カノは王都から遠く離れた地で蒼い瞳の男児を出産する。
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