第12話 加密列《カモミール》の魔女との取引

 何をしてもカノの気は晴れなかった。


 自分は今女としてアルヤ王国の最高位にいるはずだ。後宮ハレムにいる女たちは皆自分未満の存在なのだ。自分以上の女は存在しない。

 誰もがひざまずく。誰もが美しい言葉を駆使する。毎日大量の贈り物が届けられ、宝飾品や刺繍の入った布や美酒美食を文字どおり山ほど手に入れた。

 それなのにカノは満足できなかった。


 何かが足りない。

 だが何が足りていないのかは分からない。


 この穴を埋めようと必死になった。


 ある時は西洋の宮廷料理一式を作らせた。牛乳をたっぷりと使った甘い香りの汁物を飲み、子羊の柔らかい肉を食べた。

 しかし途中から気分が悪くなってきてしまいカノは床に皿を叩き落とした。おいしいとはまったく思えなかった。臭いとさえ思った。何が世界有数の美食なのか分からなかった。

 ほどなくしてすべて戻した。胃の中身を出し終えると一瞬だけすっきりしたが、すぐに食べる前を上回る虚無が襲ってきて息苦しいと感じた。


 ある時はえりすぐりの美男を寝所に呼んだ。鍛えられた細身の筋肉の美しい、滑らかな黒髪に黒い瞳の男は、優しく、穏やかで、しかも大貴族の息子だった。

 しかしやはり途中から気分が悪くなってきてしまった。結局最後までは至らずに途中で部屋から追い出した。触られるのがたまらなく嫌だった。皮膚が鋭敏になっていて少し指でなぞられるだけで痺れるような痛みを覚える。香水の匂いにも吐き気がする。

 最後カノは彼と同衾する前に飲んだ酒を吐き出した。喉が焼ける。こんなことなら一人でじっとして過ごしていればよかったと心から後悔した。


 後は何が足りないのだろう。


 ある時ふとひらめいたのが、権力、だった。

 自分はあくまで側室だ。正室ではない。

 たとえ正室であったとしても、表向きは、王妃は政治に干渉できないことになっている。だがカノは知っていた。誰もがエカチェリーナの顔色を窺いながら発言している。彼女を本気で怒らせたら戦争になるかもしれないと思っているのだ。

 エカチェリーナを追い落としたい。彼女の地位につけばできることがもっと広がるはずだ。


 あの性悪女を自分に屈服させたい。彼女の白く美しい顔が歪むところを見たい。きっと気持ちが晴れるに違いない。




 毎週日曜の午前中、彼女はロジーナ正教の教会に赴く。何やら礼拝のようなことをしているらしい。詳しいことはカノは知らない。ロジーナ人の宗教文化に興味がなかったし、彼女のことを理解したいとも思わなかったからだ。大事なのは彼女が決まった時間に出掛けるということだけだ。


 出掛ける時間に合わせて、カノは豪奢な絹の衣装を着た。白い脚衣シャルワールに、王族にしか許されない蒼の胴着ベストを纏って、襟元からは誰からも惜しみなく称賛される豊満な胸の谷間をちらつかせた。タウリス製の高級な化粧品で丹念に化粧を施した。長く伸びた黒い髪もまとめて、宝石の埋め込まれた金の髪飾りを挿した。

 自分にかしずく大勢の女官を引き連れて部屋を出る。


 自分こそがこの後宮ハレムの主であることを思い知らせてやる。


 回廊を歩いた。颯爽と、服の裾をなびかせて、優雅であることを意識してまっすぐ突き進んだ。


 回廊の向こう側から西洋人の女の集団が歩いてくる。


 先頭に立つのはエカチェリーナだ。

 彼女は今日も布たっぷりの腰を膨らませた衣装を着ていた。末広がりのふわふわとした服は地味な濃緑を基調としていたが、金の髪に氷色の瞳であるというだけで彼女はもともと色彩的に派手だった。いまさらながらそれにも腹が立つ。アルヤ人の間では黒髪こそもっとも美しい髪色だとされており、カノは自分が黒い髪に黒い瞳であることをむしろ誇りに思っていたが、彼女の前では暗く重い色に思えてくるのだ。


 彼女の後ろに続く女官たちも袖口にたっぷりの飾り帯をつけた華やかな衣装だった。しかし数は四人で、そんなに大人数を引き連れているというわけではなかった。


 何もかもカノの方が勝っている――と思いたかった。


 回廊の真正面を行く。

 このまま進むと正面衝突する。

 普通は、身分の低い方が避けるものだ。脇にずれて、相手が通り過ぎるまで首を垂れて待っているものだ。

 絶対に避けない。エカチェリーナが退くのを待つ。


 向こうもカノたちが歩いてくることに気がついたようだ。

 エカチェリーナが立ち止まった。顔色を一切変えずに、冷たい目と声で「ご機嫌ようズドラーストヴィチェ」と言った。

 回廊の中央から退くことまではしなかった。


御機嫌ようサラーム


 二人の距離が近づく。エカチェリーナは動かない。カノも曲げる気はない。


 あと少しでぶつかる。


 その直前だった。


 エカチェリーナから加密列カモミールの香りがした。


 甘いが爽やかな、草に近い花の香りだった。以前はよく眠れない夜に茶として飲んだり部屋に精油を垂らしたりしていたので覚えている。何でもなかったら不快だとは感じなかっただろう。むしろ好きか嫌いかと言えば好きな香りのはずだった。


 それが、強烈に、臭い、と感じた。


 カノは回廊から飛び出した。庭に流れる水路の傍にしゃがみ込み、水路の中に胃の中のものを吐き出した。

 苦しい。


「カノ様」


 連れてきた女官たちが慌てて後をついてきて、口々に「大丈夫ですか」と問い掛けてくる。見れば大丈夫でないことぐらい分かるだろうにと思うと腹が立つが、顔を上げられない。喉が詰まって声が出てこない。

 ある女官が背中をさすった。それさえ不快で、カノは彼女の手を振り払って「触らないで」と怒鳴った。


「下がりなさい」


 気がつくと、すぐ傍にエカチェリーナが立っていた。

 加密列カモミールの匂いがする。近づかないでほしい。けれどさすがにロジーナ帝国の皇女である彼女にあからさまな罵声を浴びせるわけにはいかない。ぐっとこらえる。普通の人間は臭いと言われたらこの上なく不愉快だろう。しかもそれはカノもかつては好きな香りだった。気持ちを落ち着ける薬草であり、本来は心の安らぐ花の香りのはずなのだ。自分の嗅覚の方がおかしい。


「下がりなさいと言っているのです」


 自分に対して言われているのかと思ったが、よくよく彼女の目線を見ると、カノの侍女たちに対して言っているようだ。


 次の時、ロジーナ語でも何かを言った。命令した、が正しいだろう。きっと自分の侍女たちにも下がるよう言ったのだ。

 ややして、侍女たちが無言でその場を離れていった。


 カノの侍女たちはしばらく戸惑っていたが、王の正室には逆らえないらしく、分かりやすく反発することはなかった。ただ黙ってカノを見つめてカノの次の反応を待っている。


「二人きりで話をさせていただけませんか」


 何の話だろう。

 罵詈雑言を叩きつけられるのではないかと思った。しかしそれなら自分付きの女官たちまで下がらせた理由が分からない。集団で迫った方が有利のはずだ。それでも、彼女は今自らここでたった一人になった。

 その度胸を買ってやろうと思った。


 カノは、頷いた。


「下がって。話が終わったら部屋に戻るから、あたしの部屋で待ってて」


 主人のカノがそう言うと、カノ付きの女官たちもその場を去っていった。


 エカチェリーナと二人きりになった。


 静かだった。せせらぎの音、それから少し離れたところにある噴水の音が聞こえてきた。


 匂いを我慢して、彼女と向き合った。


「何の用?」


 彼女は相変わらずの冷たい声と瞳で言った。


「貴女、腹に御子があるのでは?」


 カノは目を丸くした。頭を殴られたような衝撃を受けた。

 すぐには受け止められなかった。反射的に否定しようとした。国中に求められていることは確かに認識していたのに、なぜかそんなに急には自分の身へ降りかかってこないだろうと思い込んでいた。

 冷静に考えると、症状の何もかもがつわりに当てはまる。


 カノが無言で硬直していると、それを肯定と取ったらしい。


 エカチェリーナが、唇の端を釣り上げた。

 彼女が笑っているところなど初めて見た。

 おそろしく邪悪な笑みだった。


「どなたの御子ですか」


 答えられなかった。

 分からなかった。

 ほぼ同時期に、ソウェイル以外にも複数人の男と関係を持っていた。


 足元ががらがらと崩れ落ちていくのを感じた。


 王妃の身でありながら王以外の男の子供を身ごもったかもしれない。

 姦通罪だ。石打いしうちになってしかるべき罪だった。


 考えもしなかった。何せソウェイルも認めていることなのだ。誰もが知っていて、オルティ以外は止めに来なかったのだ。


 けれどもし子供が生まれたらその罪が決定的なものになる。


 王家の子供は必ず蒼い瞳で生まれる。

 瞳の色が蒼でない子供を産んだ場合、その先に待っているのは、死だ。


 震え上がった。


 正直なところ、死ぬだけで済むのならよかった。だが簡単に首を刎ねてもらえるわけではない。不義密通を犯した女は意識を失うまで石を投げられる。それ以前の、罪を問う拷問や周囲の人間から投げられる罵詈雑言にも耐えられない。


 エカチェリーナが近づいてくる。


「助けてさしあげましょう」


 彼女は、笑っていた。


「私が貴女を後宮ハレムから出る協力を致しましょう」


 最初は何を言われているか分からなかったが、彼女はいつになく優しい声で説明してくれた。


「貴女が採るべき選択肢はみっつです。ひとつ、何食わぬ顔で、ここで子を産む。蒼い瞳の子が生まれるという幸運に恵まれれば――そしてその子が男児だった場合は貴女は国母になれましょう。けれど、もし瞳の色が蒼以外だったら――分かっていますね?」


 カノはがくがくと頷いた。


「ふたつ。ここを出て、子をろすことです。存在しなかったことにしてしまえば罪を消すことができましょう。ですがそれはここではできません。万が一王の子だった場合は王族殺しになるからです。ここでそれを手伝ってくれる人間は一人もいないでしょう」


 それもまた、カノは頷いた。


「みっつ。ここを出て、とりあえず産んで、王都から遠く離れたところで生かすことです。手元で育ててもよし、里子に出してもよし。万が一王の子だった場合は何食わぬ顔をして戻ってくればいいのです。この国の人間は蒼い瞳の御子を待ち望んでいるのですから、どんな経緯があったとしても引き取ってくれるでしょう。そうでなかったら捨ててしまえばいいだけのこと」


 再度、カノは頷いた。


 苦しい息の中カノは必死で考えた。

 彼女の言うことがすべて正しいように思えてきた。


 彼女を恐ろしいと思わなくもない。とんでもない魔女と取引しようとしている気がしなくもない。


 でも、助かりたい。


「あたし、出ていきます」


 エカチェリーナは微笑んでいた。




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