第2話 二人で遠くに行こう
いつものとおり、朝食を済ませ、ホスローたち学校に通っている子供らを追い出した後のことだ。
使用人たちと朝食の片付けをしてから、ユングヴィは寝室で横になった。
お腹が大きくて仰向けが苦しい。横を向き、お腹の下に座布団をあてる。
分厚い土の壁の家は気密性が高く冬でもそれなりに暖かい。長女のアイダンは習い事の乗馬に行っている。次男のダリウスも子慣れした使用人が公園に連れていってくれた。恵まれた環境に感謝しつつ、ユングヴィは静かに目を閉じた。この状況なら昼食まで寝ていられる。
そこに突然、何か重いものが二の腕にのしかかってきた。
はっとしてまぶたを持ち上げた。
目の前に大きな手が見えた。
黒い袖を纏った腕が、ユングヴィの腕の上に載っている。
後ろから背中に擦り寄られた。
体温が暑い。
自分の上にある腕を払い除けて、上半身を起こした。
後ろを振り向くと、案の定、黒地に銀刺繍の入ったチュルカ人の民族衣装の男がくっついていた。
「ちょっと、おっさん」
夫のサヴァシュだ。
サヴァシュは横になったままユングヴィの腰を抱え込んだ。自分の方へ引き寄せようとする。すさまじい腕力だ。日頃家でごろごろしているだけの亭主だが、学校に通う年齢の子供を抱えて歩くこともあるので案外衰えないのかもしれない。
腰を抱える手をつかんで「やめて、やめて」と言っている間にふたたび布団に引きずり込まれた。横たわったまま二人向かい合う。さして強く抵抗する気もなかったが、いつもこうしていいようにやられてしまうのが悔しい。
「しないよ。しないからね。まだ朝だからね」
たしなめるようにそう言うと、サヴァシュは「そういうわけじゃない」と答えた。
「いいんだ俺は。こうしているだけで」
「なに? なんで? どういうこと? どっかに元気を落っことしてきたの? ひょっとして誰かにいじめられたのかな、お話聞いてあげるよ」
「お前は本当に腹の立つ女だな」
大きな手で後頭部を撫でられた。ユングヴィは目を細めて彼の肩に顔を埋めた。微妙に暑いが、少しなら我慢してやってもいい。
静かだった。まるで世界に二人きりになったかのようだった。
子供たちが帰ってくるまでの束の間のことだ。人生どころか、一日単位で考えても、わずかな時間のことだった。しかし同じ触れ合いを何年も繰り返してきたユングヴィにとっては永遠と紙一重で、この穏やかな時間が未来永劫続くかのように感じられた。
そんなユングヴィの思考を読んだかのように、サヴァシュが言った。
「ずっとこうしていられるわけじゃないからな。隙を見てまめにべたべたしないといけない」
この永遠はちょっとしたことですぐ壊れてしまうものだ。
「お前が寝てると、時々、息してんのか不安になる」
ユングヴィはすぐには否定しなかった。私は死なないと言ってしまうのは簡単なことだったが、実際に死なずにいるのは簡単なことではなかった。
今は妊娠中で寝づわりに悩んでいるが、特別な病気ではない。しかも出産は四度目だ。大きな問題がないという意味では、自分は今健康だった。
それでも、何があっても大丈夫、とは、言えなかった。
いつどんなことが起こるか分からない。万が一のことがあれば命はあっと言う間に消える。今日は元気でも明日も元気とは限らない。三年前、ユングヴィはそれを思い知らされた。
しかしそうと言って彼の不安を煽るのも違う。ユングヴィは言葉に悩んだ。
「ねえ、サヴァシュ」
彼がそのままの体勢で「何だ?」と応える。
「私より長生きしてね。私より先に死なないで。私、最期の時は、サヴァシュと一緒にいたいなあ」
一瞬、彼の手が止まった。
ややしてから、また、後頭部を撫で始めた。
「お前、それ、俺が同じことお前に言ったらどう思う?」
サヴァシュが自分のいるところで死んで――つまりサヴァシュが目の前で先に死んで自分が後に遺された場合――と考えた時、ユングヴィは、あまりの切なさに涙が込み上げてくるのを感じた。自分だったらそんな孤独には耐えられそうになかった。
また馬鹿なことを言ってしまった、と思った。だがそこまでは口に出さないようにした。ホスローを妊娠した時、もう二度と自分を馬鹿と言わないと誓ったのだ。
自分を馬鹿だと思うことがなくなったわけではない。むしろ子供が成長するたびに自分が馬鹿な母親であることを思い知らされている。けれど口に出してしまったら馬鹿が固定されてしまう気がする。馬鹿を嫁にしたサヴァシュにも悪いし、馬鹿が母親のホスローやアイダンやダリウスにも申し訳ないし、何より、自分自身が強くあるために考え方を変えたかった。
ユングヴィは馬鹿だと言いたいのを一生懸命堪えて言葉を選んだ。
「ごめんねえ。私、まだ時々変なこと言うねえ。まだ時々サヴァシュの気持ちが分からない。本当にごめんなさい。言ってくれてありがとう」
そう言うと、サヴァシュは「分かればよろしい」と言った。
「ふつーに考えたら、俺の方が八個年上なんだから、二人とも健康で往生すれば俺が先に死ぬんだ」
「そうだね。それもそうだ。二人で元気に長生きしたらそうなる。まあ、私が八十であんたが八十八だったら諦めもつくかな」
「そこまで生きてみないと分からんけどな。案外まだ寂しいかもしれない」
「そう、きっとそうだね。楽園で再会できるように今からいい行ないをして寺に献金しなきゃいけない」
サヴァシュの脇腹から背中に手を回す。そして、ぎゅ、と抱き締める。三十代も半ばを過ぎてサヴァシュは少し太った。それでも鎧のような筋肉は衰えないが、筋肉と皮膚の間にほんのり脂肪がのってきた。
「一緒に年を取るっていいねえ」
言いながら涙がこぼれていくのを感じた。枕に染み込んでいく。
「私、十代の頃、自分がこんな風に年取るとは思ってなかったよ」
「年取るったって、お前はまだ二十代だろ」
自分で言っておきながら「俺は若い嫁を貰ったんだな」と呟く。ちょっとだけ笑う。
「ねえサヴァシュ」
「今度は何だ」
「今のこの子が生まれたら、しばらく子供を作るのをやめようか」
想像していなかった言葉だったのか、彼は「は?」と変な声を上げた。
「いや、お腹が大きいと馬に乗れないからさ。次の子はちょっと間隔を開けよう。落ち着くまで子供を作らないようにしよう」
「なんでだ?」
「もうチュルカ平原に行こうよ」
そっと、目を閉じた。
「もう我慢することないよ。私たち、もう、この国にいたってすることない。毎日こうしてぬくぬくごろごろしてるだけ。だから、サヴァシュの行きたいところに行こう。サヴァシュの生まれたところに帰ろう」
「ユン……」
「正直どんなところかぜんぜん想像つかないけど。アルヤ高原よりずっとずっと寒いところで、何にもない原っぱの真ん中で、どんな暮らしをするのか、まったく分かんないけど。でも、だからこそ、若くて体が動くうちに行って慣れた方がいいんだろうな、って思う。子供たちも、成人して働くようになってから親の都合で環境が変わるの、可哀想だし。今のうちに引っ越した方がいいよ」
強く、抱き締められた。
「もうさ、ほんと、アルヤ王国にいたって、することがないんだよ」
ややして、彼が小さな声でぽつりと「そうだな」と言う。
「私はさ、もう、嫌だよ。アルヤ王国にいるせいで、サヴァシュばっかり酷い目に遭う。私だってサヴァシュが傷つくところを見たくない」
少しだけ体を離してサヴァシュの顔を見た。右手を伸ばして彼の左頬を撫でた。
サヴァシュの顔面左半分には大きな刃物傷がある。左の目の上から頬にかけての一直線の傷だ。もう少し深く斬られていたら左目を失明していただろう。
この国にいなかったらそんな恐ろしいことはなかったかもしれないのだ。
武人である彼は肉体の傷などそれほど気にしない。だがユングヴィが悔しい。この国に一生懸命尽くしてきた彼に対する仕打ちがこれだと思うと、胸が掻きむしられるような怒りを感じるのだ。
彼を守りたい。
「二人で、子供たち四人を連れて、遠くに行こう」
彼は、頷いた。
「そうだな。そろそろ、お前たちを連れていく」
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