第9話 囁く声は同じなのに掻き抱く腕が違う

 宮殿に戻るとすでにしとねが用意されていたので、カノとソウェイルは大笑いした。二人ともいつになく声を上げて笑った。


 誰かが二人の会話を盗み聞きして先回りして支度をさせたらしい。誰がどう触れ回ったのかは知らないが、結果として、大勢の女官が一致団結して、寝台に薔薇の花弁を撒いて緞帳の窓掛けを引いて油灯ランプに火を燈した。


 こんなことを真剣な気持ちで準備した人々がいるのだと思うと心の底からおかしかった。


 冷静に考えれば当然だ。ソウェイルが一人で出歩けるわけがない。きっとあの時木々の裏に白軍兵士たちが控えていて二人のやり取りを見ていたのだろう。そして余計なことを察して気を利かせたつもりなのだ。


 自分は今、アルヤ王国で一番祝福されている女だ。周りの人間からすれば、後宮ハレムのただ飯喰らいがようやく役に立つ時が来たのだ。

 大勢の人間がカノのはらを求めている。


 この世のすべてが馬鹿馬鹿しかった。


 カノが欲しいのはソウェイルの寵愛ではない。


 しかし気分は良かった。自分を馬鹿にしてきたすべての女たちを押し退けてこの地位を得たのだ。見返してやったと思うとすがすがしかった。


「カノ」


 ソウェイルは窓掛けを完全に閉ざした。油灯ランプの炎も消した。部屋の中のすべてが完全な闇に閉ざされた。まるで目隠しをされているかのようだった。

 何も見えなかった。


 ただ、彼の声と息遣いだけが聞こえていた。


「……カノ」


 名を呼びながら耳朶を甘噛みする。耳の奥まで痺れる。


 その声で名前を呼んでほしかった。


 何も見えない。

 自分が誰と抱き合っているのか分からない。


 目を閉じて、空想の世界に心を飛ばす。

 日々剣術の鍛錬で鍛えて太くたくましくなった腕に抱き締められる。雄々しく隆起した肩につかまる。暗い中金の髪がまばゆく輝いて揺れている。食欲と性欲の狭間で食い尽くされる。力強い顎で噛みついてくる。


 愛しい。この世の何よりも可愛らしく美しい。

 清純で高潔な愛だ。

 自分はこのからだのすべてで彼を受け止める。この愛のためなら他のすべてを捨ててもいい。


 この馬鹿馬鹿しい世界のすべてを捨てて彼と一緒に生きていきたい。


 豊満な胸にむしゃぶりつかれた。

 その頭を抱え込む。体温のぬくもりを感じる。

 たかぶりに意識が遠のく。


「カノ……」


 彼は丁寧にカノを探った。丹念にほぐして、ゆっくり入ってきた。

 それがカノにとってはもどかしかった。

 もっと強引にしてほしかった。引き裂くつもりで荒々しくやってほしかった。

 本物の彼ならそうする気がしたからだ。


 背中にしがみつく。

 その背中は華奢で、薄く骨っぽかった。

 現実を思い知らされる。

 本当に抱いてほしかった人はもういない。ここにいるひとはあくまで代わりに過ぎない。


 名前を呼ぶ声だけは同じに聞こえる。

 けれど触れる手が違う。

 剣の柄を握ることに慣れた手は強く硬く荒々しかっただろう。

 今カノのからだをまさぐる手は滑らかで指が細く長くて何より優しかった。


 強く、抱き締める。

 すべてを忘れられるように。


 その瞬間が来た時、カノは寝台に上がってから初めて泣いた。


「フェイフュー」


 酷い言葉を投げつけられたかった。

 いつものように断罪してほしかった。お前はふしだらで馬鹿な女だと言ってほしかった。もういないひとに縋って目の前にいる男の名前は呼ばない、そんな自分を、罵ってほしかった。

 本物の彼なら、そうしてくれると思った。


「フェイフュー……」

「カノ」


 吐息が混ざる。


 不思議なことに、それでもカノは昂っていくのを感じていた。いつだったか誰かが女は気持ちが通じ合わなければだめだと言っていた気がするがあれは嘘だ。もしくは自分の妄想だけでも興奮できるものなのかもしれない。


 本物の二人の間に甘い感情はない。

 だがカノは満足だった。

 その声で抱いてほしかった。



 からだから力が抜けた。敷布の上に四肢を広げた。


 すると彼はさっさと寝台を下りた。


 どこかへ向かって歩き出す足音がする。


 何度か壁を叩く音がした。彼が手探りで出入り口を探しているようだ。部屋の中はそれくらい暗かった。


 やがて扉を開ける音がした。


 外の明るい光が部屋に差し入ってきた。

 カノはそのあまりのまぶしさに目を細めた。


 苛烈な、残酷な日光は、去り行く彼の蒼い髪を照らしていた。


 彼は振り向かなかった。服を小脇に抱えて、一糸まとわぬ姿のまま、無言で部屋を出ていった。


 ただ名前を呼んだだけで、最中は一切会話をしなかった。おそらく、口を開いたらカノに彼とその弟は違う人間であることを思い知らせてしまう、と思っていたのだろう。彼はそれくらい優しくて気の利く男だ。

 そういう彼を踏みにじったのだ。


 しかし罪悪感は湧かなかった。それでもこの行為を選択したのは彼で、こういう場合非難されるべきは女ではなく男の方だ。

 自分は何も悪くない。


 ただ、もう、後戻りできないことだけを、感じる。


 外が明るい。まだ昼だ。


 全身がだるかった。何かが入っているような鈍い痛みもある。


 このままずっと寝ていてもいいだろう。他にすることはない。

 そう思って戸口に背を向け、寝返りを打つ要領で体勢を変えた。


 部屋の中にまた違う足音が入ってくるのを聞いた。


 もう一度出入り口の方を見ると、数人の、見たことのない女官が入ってきたところだった。


 彼女らのうち二人が窓の方へ歩み寄っていき、重い窓掛けをまとめた。窓からもまぶしい昼の日光が入ってきて、部屋の中が一気に明るくなった。


 起こされてしまった。ここから先は現実だ。


 カノは上半身を起こした。明るい光の下、瑞々しい肢体が晒される。


 女官たちがひざまずき、首を垂れた。


「おめでとうございます」


 カノは声を上げて笑った。


「何がめでたいって?」


 女官たちは答えなかった。


 立ち上がり、「おからだのお清めを」と言う。カノはその様子をぼんやり見つめている。

 女官のうちの一人がカノの肩に下着を掛けた。


 また、新たな足音が近づいてきた。

 今度は騒がしい。女官とおぼしき女性が叫んでいる。


「なりません! おやめください!」


 誰かが小走りで近づいてくる。


 出入り口の方に顔を向けた。


 カノは目を丸くした。


 赤い頬で、荒い息で、その美しい花のかんばせを歪ませて、シャフラが入ってきた。


 彼女はまっすぐ寝台の方へ歩み寄ってきた。彼女についてきたらしい女官二人が「いけません」「落ち着かれませ」と言って止めようとしているが無視した。


「シャフラ?」


 次の時、彼女の白い右手が上がった。

 ぱん、という明るい音を立てて、カノの頬が打たれた。


「シャフルナーズィア様!」

「お黙りなさい!」


 女官たちを一喝する。女官たちがひるんで一瞬動きを止める。


「なんてことをしでかしたのですか」


 普段は冷静沈着な彼女の声が震えている。


「何怒ってんの」


 自分の頬を撫でた。熱く鈍く痛む。


 シャフラはしばらく黙ってカノの顔を見つめていた。その赤い目は今にも泣いてしまいそうに見えた。だが彼女は涙までは見せなかった。


「この、愚か者」


 カノは笑った。

 フェイフューではなくシャフラがその台詞を言ったというのがおかしかった。


「もう、いまさらだよ」


 二人はしばらく向かい合っていた。どちらも何も言わなかった。


 ややして、女官たちが動き出した。


「ご衣裳をお召しになられませ」


 まるで何もなかったかのように彼女たちは粛々と仕事をした。


 シャフラが踵を返して出ていった。その背中をカノはただ見送った。





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