第8話 強くなれなかった二人の

 ノーヴァヤ・ロジーナ帝国の皇帝は当然自分の娘が産んだ子供をアルヤ王にしたい。

 だがエカチェリーナが産んだのは女の子で、アルヤ王国では王位継承権はない。


 アルヤ王国は上から下まで第二王妃の輿入れを望んでいる。二番目の正室、それも今度こそアルヤ文化に理解があって積極的に改宗する、愛想がよくて男の子を産める妃が欲しい。

 アルヤ王国では――サータム帝国やラクータ帝国でもそうだが――正室は一人とは決まっていないので、エカチェリーナを第一王妃の座から引きずり下ろすことなく次の正室を迎えることはできる。

 ところがロジーナ文化ではそうはいかない。ロジーナ正教では男女は必ず一対のものだ。

 エカチェリーナは、二人目の子供を作ることも拒んだが、離婚することも拒んだ。彼女は自分の存在が政治にどんな影響をもたらすか知っていて頑として動かない。


 では、どうするかというと――ロジーナ人たちは言う。


 アルヤ王国の法を変えればいいのだ。

 女児に王位継承権を認めればいい。アナーヒタを後継者として認め、アルヤ王国に女王が立つことを受け入れればいい。


 もちろんサータム帝国が認めない。サータム文化では女性はあくまで保護されるものであって外敵に晒すわけにはいかない存在だ。家の外にすら出さない女性を政治の真ん中に出すことなどない。シャフラの存在もいまだに嫌がっているくらいだ。

 サータム皇帝は自分の娘をソウェイルと結婚させると言っているそうだが、話はなかなか具体的にならない。


 アルヤ王家はこうしてロジーナとサータムの間ですり潰されて消えるさだめにある。ソウェイルは最後のアルヤ王となったのだ。


「結局、アルヤ王に必要なのは、誰かにあれこれ言われてもばつっと全部嫌って言える強さだったんじゃないかな、って思うよ」


 エスファーナの北西部、木々が鬱蒼と茂って薄暗い谷に、共同墓地がある。人知れず死ななければならなかった、弔う家族のない者たちの墓地だ。誰も手入れをしないので、大地は乾き、墓石はひび割れている。このままだといつかすべてが風化するだろう。


 カノの目の前にある墓石にも何も刻まれていなかった。

 墓碑、ではなく、墓石だ。ただの石がある。カノの膝ほどまでの高さの縦長の石が、無言で置かれていた。


「ロジーナにもサータムにも振り回されないアルヤ王が、さ」


 墓石の前にひざまずく。墓石に水をかける。布で強くこする。砂ぼこりをかぶって白く汚れていた石が磨かれていく。

 今まさに秋が終わろうとしているエスファーナは寒い。水に濡れた指はかじかみ、爪の周りが真っ赤になった。普段なら耐えられないことだったが、彼のためと思えばその苦しみすら愛しいものとなる。


「そう考えると、やっぱり、フェイフューの方が向いてたよ」


 満足するまで磨いてから、墓前に、紙に包んだ串焼き肉キャバーブ石焼きパンナン、そして焼き菓子を供えた。

 全部フェイフューの好物だったものだ。


「あたしの選択は間違ってなかったと思うよ」


 言うと涙がこぼれた。


「フェイフューが良かったよ。そしたらみんな幸せだった」


 三回目の、冬が来る。

 フェイフューがいない三度目の冬が、目前に迫っている。


 三年前の今日、第二王子フェイフューは死んだ。

 冷たい石の床の上で、汚物にまみれ、腕を腐らせ、腹をさばき臓物を飛び散らせ、首を刎ねられて無惨に命を落とした。


 フェイフューの遺体はザーヤンド川の岸辺に晒された。『蒼き太陽』ソウェイルに矢を引いた大罪人として扱われたのだ。


 いにしえのアルヤ人には、鳥葬、という習慣があった。遺体を屋根のない塔に安置して、肉食の鳥についばませ、鳥に魂を天へ運んでもらう、というものだ。数百年前サータム人に倣って土葬が普及した結果都市では見かけなくなった風習だった。

 カノはフェイフューの遺体に鳥たちが群がる様を見ていた。あっと言う間に骨だけになった。もとの美しかった面影は見る影もなく、太くて強い骨が残った。

 その骨を、フェイフューを慕っていた若い白軍兵士たちが掻き集めて、ここに埋めた。

 王族として正式に祀られることはなかった。


「フェイフューがいてくれたら」


 いつも力強く笑っていた、やんちゃで負けん気の強い彼の姿が目に浮かぶ。

 彼は永遠に十五歳のままだ。


「フェイフュー」


 どんなに呼んでももう返事は来ない。


 声が聞こえる気がする。


 ――何を泣いているのですか。僕はすぐ泣くような弱い女は嫌いですよ。


「ごめんね」


 すべてカノの空想だ。


「あたし、強い女になれない」


 もはや今のカノをどう思っているか訊くこともできない。


「強くなれないよ……」


 墓石に縋りつく。服が濡れる。

 汚れても構わない。

 フェイフューと一緒にいられるのなら、カノはどうなってもよかったのだ。

 王妃になれなくてもよかった。大事なのはフェイフューの傍にいることであって、カノは政治などどうでもよかったのだ。


「助けて」


 他のすべてが要らないのに、一番必要なものだけがない。


「あたしだけじゃなくてさ。ソウェイルのことも。ソウェイルのことも助けてあげてよ」


 三人でこたつを囲んだあの日々が遠い。


「助けてよ……」


 足音が聞こえた。


 我に返って墓石から離れた。

 顔を上げ、振り向く。


 そこに立っていたのはソウェイルだった。

 珍しく酒の臭いがしなかった。

 腕に籠を抱えていた。籠の中に、白い紙の包みと、葡萄酒の瓶が見える。


「お前、いたのか」

「そっちこそ。何してんの?」


 互いに答えなかった。


 聞かなくとも分かる。


 今日は、フェイフューの命日だ。


 ソウェイルは無言でカノの隣にひざまずいた。そして、墓石の前に持ってきた籠を置いた。


 カノは手を伸ばして、紙の包みを少しだけ持ち上げた。


 燻製の肉だ。


 思わず笑ってしまった。


「あんたも肉!」

「お前もか」

「こんなのお墓に供えるもんじゃないよ」

「お前もだろ」

「だって、フェイフューの一番好きなものじゃない?」


 言った途端、また涙がこぼれた。


「またみんなでご飯食べたかったね」


 声が、震える。


「ソウェイルが食べ切れなかった分フェイフューが全部食べて、あたし、まだお腹空いてるのかな、って思って、自分の分フェイフューにあげちゃったことあるよ。あたしも食べたかったけど、フェイフューにあげたいっていう気持ちの方が強くなっちゃって」

「俺もいつも同じこと思ってた。あいつ、無限に食えたからな」


 珍しく、ソウェイルがちょっと笑った。


「いつだったか牛の肉を厨房に焼かせて食べてラクータ出身の文官にめちゃくちゃキレられたことがあってな」

「あったねそんなことも! でも結局もったいないからって言って何日に分けてまるまる一頭食べてなかった?」

「そう。食べ物に対する執念はすごかったから。いや、俺も食ったけど。二人で毎日牛の焼き肉を食った。うまかったな」


 カノも声を上げて笑った。


 ソウェイルが語るのをやめたので、一瞬、静かになった。訪れる者もほとんどない墓地はほぼ無音で、寂しく、むなしかった。


「――もう、フェイフューとの思い出の話ができるのは、この世で唯一、お前だけなんだな」


 涙が溢れて止まらない。


 ソウェイルが手を伸ばした。カノの濡れた頬に、包み込むように触れた。


「泣いたらまたフェイフューが怒るぞ」

「分かってるよ。今絶対まためんどくさいって言ってるよ」

「俺は怒らないけどな」


 誰かに縋りたかった。骨となり土となったフェイフューではなく、肉体のある誰かに触れたかった。


 思い切ってソウェイルの腕の中に跳び込んだ。

 ソウェイルはすぐに背中に腕を回して強く抱き締めてくれた。


 筋肉質だったフェイフューとは違い、ソウェイルの体は華奢でどこか頼りなかった。それでも、温かかったし、腐った臭いはしなかった。


「カノ」


 耳元で囁く低い声が心地よい。


「似てる」

「え?」

「ソウェイルとフェイフュー、声、似てるね」


 こうして話していると、フェイフューと話していた時のことを思い出す。


「まあ、両親とも同じ兄弟だから、似てるところもあるだろ」

「ねえ、名前を呼んで」

「カノ」

「もっと」

「カノ。……カノ」

「もっと……っ」


 きつく、きつく、腕に力を込める。


「ねえ、抱いて」


 フェイフューの声で、囁かれたい。


「フェイフューになりきったつもりであたしを抱いて。あたし、ずっとフェイフューに抱かれたかったの」


 ソウェイルは一瞬ためらったようだ。すぐには返事をしなかった。

 カノは根気強く待った。


 カノは知っていた。

 ソウェイルはいつでもカノの願いを叶えてくれる。


「……お前がそれで、後悔しないって言うんなら」


 本物のフェイフューだったら、婚前交渉など承知しないに決まっている。

 ソウェイルだから、弱いカノをゆるしてくれるのだ。

 知っていたが、気づかなかったことにした。




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