第7話 王女アナーヒタ 2

 アナーヒタが宮殿に帰ってくる。


 アナーヒタは二年前に生まれたソウェイルの長女だ。アルヤ王国第一王女である。


 産んだのはエカチェリーナだ。


 あの二人が結婚したばかりの頃を思い出す。


 エカチェリーナは結婚当初から表情のない女だった。ソウェイルと結婚した時彼女は十八歳だったが、ノーヴァヤ・ロジーナ帝国で過ごした少女時代の頃からこうなのかアルヤ王国に行かざるを得なくなって心を失ったのかは分からない。


 アルヤ語はどうやら嫁ぐ前から勉強していたようだ。一応話は最初から通じていたようだった。しかしなかなか自分からは話そうとはしなかった。母国から連れてきた取り巻きのロジーナ女たちとしか会話しようとしなかったのだ。

 さすがに生活が不便だったと見えて徐々に喋るようになったが、今でも口数の多い方ではない。加えて、口を開けば流暢なアルヤ語で辛辣なことを言う。話し掛けるアルヤ人はいなくなった。


 それでもソウェイルは当初彼女を歓迎していた。凍てついた大雪原から嫁いでくる花嫁のために洋風に整えた部屋を作った。カーチャという彼女のロジーナ風の愛称を呼んだ。愛そうとしていた。夫婦になろうとしていた。

 フェイフューを喪い、ユングヴィやサヴァシュと絶交したソウェイルにとって、エカチェリーナは唯一の家族だった。彼女はソウェイルにとって希望で、未来だったのだ。


 ところが彼女はアルヤ文化に馴染むことを徹底的に拒んだ。


 彼女は夫が彼女のために仕立てた服に腕を通さなかった。アルヤ高原の気候に適した、日焼けを防ぐための立て襟で袖の長い服を焼き捨てた。腹部を締め付ける下着を身につけ、胸元が大きく開いた衣装を着、毛皮の肩掛けを羽織った。毛皮の靴でアルヤ絨毯を踏みつけた――アルヤ人は絨毯の上では靴を脱ぐ。


 アルヤ王国の季節の行事には出席しなかった。拝陽はいよう教の正月ノウルーズはなおざりにしたが、エスファーナのロジーナ人居留地で行なわれるロジーナ正教の復活大祭には参加した。『蒼き太陽』の手で聖別された、部屋の祭壇の盆に燈されていた聖なる炎を消して、十字架を飾って蝋燭に火を燈した。


 ソウェイルにとって一番打撃となったのは食事だ。

 エカチェリーナは床の絨毯の上に腰を下ろすことを極端に嫌がった。絨毯の上に料理を並べ、絨毯の上に座って食事をとることを、汚い、と言ったのだ。

 ソウェイルにとっての食事は、家族全員が絨毯に座って食べるものだ。一家総出で談笑しながら食べるものであり、癒しと和みの時間であり、家族との関係を深める、愛情豊かなものだった。

 彼女はそれを拒んだ。結局、彼女は自分の部屋の食卓テーブルで一人で食事をとることになった。


 それでも、後継者を作る、という王族最大の義務は忘れていなかったようで、エカチェリーナは、子供を作ることだけは受け入れた。

 具体的にどんなやり取りをしていたのかは知らない。ソウェイルの方が嫌がって侍従官たちに引きずられて後宮ハレムの女の空間に連れてこられていた、という話は聞いたことがある。

 ソウェイルは当時のことを絶対に話さない。


 二人にとっては幸いなことに、結婚から三ヶ月ほどでエカチェリーナは妊娠した。

 そしてそれを機にソウェイルとエカチェリーナは二人きりになることもなくなった。


 ただ、月満ちて生まれたのは、女の子だった。

 アルヤ王国の王位継承権は男児にしかない。



 シャフラの後を追い掛けていくと、宮殿の北の棟と東の棟をつなぐ回廊に辿り着いた。

 辺りは美しい庭の一部であった。ザーヤンド川から引いている水路のおかげで砂漠には似つかわしくない木々が生い茂っている。南の方に目を向ければ、蒼宮殿の誇る中庭、大庭園が見えた。


 回廊の向こう側から、西洋風の服に身を包んで金の髪を結い上げた女たちが数名、白軍兵士に守られながらこちら側に向かって歩いてきている。


 シャフラが立ち止まり、一歩分柱の方へ寄って道を開けてから、こうべを垂れた。


 カノは誰にも見つからないよう建物の中に戻った。窓から彼女らの様子を眺めた。


 先頭を歩いていたのはエカチェリーナだ。

 今日の彼女は右手に白い羽根の扇を持って口元を隠していた。扇の他には何も持っていない。ほぼ手ぶらの状態だ。


 彼女の一歩後ろを、ふくよかな体型のロジーナ人女性が歩いていた。


 その女性の腕に、幼子が抱かれている。


 金の髪はまだ薄く柔らかい。頬は丸く薔薇色だが、子供らしい表情はなく、死んだように凍りついていた。鉤編みの帯をたっぷりあしらわれた白い服の愛らしさにぴくりとも動かないところが相まって人形のようだった。

 顔立ちはいかにもロジーナ人だが、瞳の色だけは、母親の氷青ではなく、父親の蒼を受け継いでいる。


 エカチェリーナは立ち止まらなかった。主人が立ち止まらないので、ついてきた女たちも歩き続けた。シャフラは頭を下げたままだ。


 中庭を突っ切ってくる影が視界の隅に映った。


 カノは思わず「あ」と呟いた。


 ソウェイルだ。


 いまさら聞きつけて慌てて出てきたようだ。彼は少し焦った様子だった。袴の上に白い襯衣シャツを着ているだけで、胴着ベストどころか帯すら巻いていない。

 彼は右腕にぬいぐるみを抱えていた。猫のぬいぐるみだ。寸法は成人男性である彼が抱えて肩から腰までほどある。二歳の幼女からしたらとてつもない大きさだろう。


 ソウェイルに気づいたらしく、エカチェリーナが立ち止まった。それに合わせて、後ろの女たちも立ち止まった。


 ソウェイルが、右手にぬいぐるみを持ったまま、両腕を伸ばした。


「アナーヒタ」


 幼女の硝子ガラス玉のような瞳がソウェイルを捉えた。


「おいで」


 直後だ。

 彼女は顔を背けた。自分を抱えている乳母の胸に顔を埋めた。

 父親を拒絶した。


 ソウェイルがその場に立ち止まった。


 エカチェリーナが口を開いた。


「陛下にご挨拶なさい、アナスタシア」


 幼女は一瞬だけ顔を見せたが、またすぐ顔を背け、乳母の胸に顔を押し付けた。


 エカチェリーナが面白くなさそうに言う。


「出来の悪い子」


 ソウェイルは呆然とその様子を見ている。


 エカチェリーナの手が伸びた。

 ソウェイルの右手からぬいぐるみを取り上げた。

 中庭に向かって投げ捨てた。


 ぬいぐるみは中庭に流れる水路に落ちた。大きいので流れてはいかず途中で詰まって動かなくなったが、その下半身は沈んで濡れてしまった。


 エカチェリーナが歩き出した。ロジーナ女たちも軽く会釈をしてから動き出した。


「失礼致します」


 ロジーナ女たちは誰一人としてその場に立ち尽くしているソウェイルを振り返らなかった。


 しばらくして、ロジーナ女たちがいなくなってから、シャフラがソウェイルに歩み寄った。


「参りましょう、陛下。お部屋でごゆるりとお休みください」


 シャフラはこうなることを分かっていたのだろう。だからソウェイルをアナーヒタと会わせたくなかったのだ。


 カノはソウェイルが傷つくところを見たかった。ソウェイルが不幸になればなるほど面白いと思っていた。


 しかしアナーヒタのことだけは喜べない。


 サヴァシュとユングヴィは育児に関するすべてのことを事細かに話し合う。どんなことでも二人で納得がいくまで擦り合わせをして二人で子供を育てる。


 新しい子供が生まれれば、ユングヴィは乳飲み子の授乳やおしめ替えに専念して、サヴァシュが上の子供たちの食事や着替えの世話をする、という分業を行なう。

 名前の付け方も二人の間にはちゃんとした決まりごとがある。男の子ならアルヤ風の名前を、女の子ならチュルカ風の名前をつけるのだ。二人は、長男にはホスロー、次男にはダリウスといったアルヤ王家に伝わる名前を、長女にはアイダンというチュルカ神話の女神の名前をつけた。


 エカチェリーナは子供を産んですぐ乳母の家に預けた。乳母を宮殿に呼ぶのではなく、宮殿の外、ロジーナ人居留地に住む豊かなロジーナ正教の商人の夫婦のところに出したのだ。乳を含ませたことはおそらく一度もない。いつだったか「赤子に乳をやるのは乳牛のすることで人間の女がすることではない」と語ったという噂が流れた。

 名前の付け方についての共通認識もない。ソウェイルはアルヤ神話の女神からとってアナーヒタと名付けた。周囲の人間も王の決めたとおりアナーヒタと呼んでいる。だが、エカチェリーナおよびそのお付きのロジーナ人たちは、彼女をアナスタシアというロジーナ人の姫君の名前で呼んでいる。


 こういう環境で育った子供はどういう大人になるのだろう。


 母の――ベルカナのことを思い出す。


 会うたびに抱き締め、微笑みかけてくれた。服の着方、礼拝の仕方を教えてくれた。誕生日には贈り物を用意してくれた。南部州に引っ越した時には何度も手紙のやり取りをしたし会いに来てくれたこともあった。月経や胸のふくらみなど女子特有の体の変化にも気を配ってくれたのはベルカナだった。


 エカチェリーナはああいう母親ではない。


 ソウェイルは何を思っているだろう。娘に対してサヴァシュが我が子に接する時のように振る舞えない自分をどう認識しているだろう。


 さすがにアナーヒタを話題に出してからかうことはできなかった。


「人間としておかしいでしょ……」


 カノは一人そう呟いてから、何もせずに自分の部屋へ戻った。




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