第6話 王女アナーヒタ 1

 最近女官たちの動きが慌ただしくなった。


 カノはせわしなく動き回る女官たちや侍従官たちをずっと眺めていた。他にすることがないからだ。手持ち無沙汰なので、宮殿に何が起ころうとしているのか、観察して探ろうとしている。

 女官たちに直接質問して確かめるのはためらわれた。冷たくあしらわれてお前には関係ないと言われる気がしたのだ。それは癪だった。


 家具や布製品をどこかに運び込んでいる。調度品を揃えているようだ。おそらく後宮ハレムの一室に人が住めるように支度しているのだろう。カノは妃でも何でもないが一応後宮ハレムの住人なので分かる。


 ひょっとして、新しい妃の輿入れが決まったのだろうか。


 不安がじわりと広がる。


 カノは好き好んで後宮ハレムにいるわけではない。むしろ事実上幽閉されている状態だ。しかしここを追い出された時行く先はない。ここで養われることでしかカノは生きられない。立場はとても弱い。


 新しい妃がやって来て、その女に、出て行け、と言われたら、どうしよう。


 エカチェリーナは冷たい女ではあるがカノを追い出そうとはしない。ごくたまに顔を合わせた時嫌味を言うくらいだ。宮殿から排除しようとまではしなかった。


 すべての妃がこうであるとは限らない。ソウェイルとカノの関係を勘繰る人間はいくらでもいる。しかも国外出身者だった場合はカノがかつて十神剣として尊重されていたことすら知らないかもしれない。


 どんな女が来ても、仲良くできる気がしない。




 秋の終わりが忍び寄ってきたある日のことだ。


「カノさん」


 部屋の寝台に寝そべって爪を磨いていたところ、廊下から声を掛けられた。

 シャフラだ。

 珍しい。彼女が訪ねてくることはそうそうない。彼女には後宮ハレムのただ飯喰らいに構っている暇はないのだ。カノも会いたいとは思っていなかった。彼女に会っても彼女と自分との差に打ちのめされるだけだ。


御機嫌ようサラーム


 だが、カノは暇だ。いまさら無視をしても居留守なのは分かるだろう。


御機嫌ようサラーム。何か用?」


 シャフラはあくまで出入り口の向こう側にいた。分厚い布で隔てられた廊下の方から話し掛けてくる。部屋の中に入ってこようとはしない。


「陛下がどちらにいらっしゃるかご存知です?」


 拍子抜けした。シャフラはカノに用事があるわけではなかったのだ。

 カノはそのままの体勢で答えた。


「知ってるわけないじゃん」


 シャフラを部屋の中に手招こうとはしなかった。


「なんであたしに訊くの?」


 そうつっけんどんに言ってから、カノは自分が傷ついているのを感じた。

 シャフラに訪ねてきてほしかったのか。シャフラに、カノに用事がある、と言われたかったのか。

 とてつもなくみじめだ。


 爪を磨くやすりを何度も往復させた。余計に削ってしまって爪の形が歪んだ。


「自分の部屋でお酒飲んでるんじゃないの?」

「そう思って真っ先に陛下のお部屋に伺ったのですがいらっしゃいませんでした」

「探せば宮殿の中のどこかにはいるでしょ」

「いいえ、今日はご自身のお部屋にいていただきとうございます」


 やすりを動かす手を止めた。


「もしもカノさんのところにお見えになるようでしたら、ご自身のお部屋で何もなさらずにご静養していただきたいとお伝え願います」

「今日何かあるの?」


 少しの間、シャフラは沈黙した。一瞬だけ、話そうかどうか悩んだようだった。

 話しにくいことだろうか。

 それもまた悔しい。シャフラはソウェイルの身の回りで起きる何か重大なことに関わっていて、自分にはそれが何なのか分からない――そういう溝の大きさを思い知らされた。


 しばらく経ってから、予想外の返答が来た。


「アナーヒタ様が宮殿に戻られるのです」


 ここ数日の出来事のすべてが一本の線につながった。


「ひょっとして、最近ばたばたしてたのは、アナーヒタ様のお部屋の支度をするため?」

「左様でございます」

「なんだ」


 カノは胸を撫で下ろした。


「ソウェイルに新しいお妃様が来るんだと思ってたよ」


 するとシャフラはわざと声を裏返して「あら」と言った。


「陛下に新しいお妃様がお越しになったら困ることがおありですの? お友達に奥方様が増えてお寂しいのでしょうか。それとも陛下のご寵愛を狙っておいでなのです?」


 シャフラの声はからかうようだったが、今のカノにとっては冗談では済まされない内容だった。

 賢い彼女のことだ、カノの立場を分かった上で言っているのではないか――そうでなければ生きられないカノを馬鹿にしているのではないか。カノを傷つけたくてそんなことを言うのではないか。


「そっちこそ、せっかく国公認の王の愛人になったのに新しい妃が来たら自分の地位が危なくなるとは思わない?」


 シャフラを傷つけるためにそう投げ掛けた。

 カノも彼女が色事で今の職を手に入れたとは思っていなかった。彼女は実力も実家の後ろ盾もある。からだを売る必要はない。しかしいろんな人間が興味本位でそういう噂を流している。気位が高く潔癖な彼女のことだ、きっと不愉快だろう。


 案の定、シャフラはまた、一瞬沈黙した。

 どんな顔をしているのか見てやりたいと思った。

 けれど実際に布を払い除ける勇気はなかった。顔を合わせたら自分が虚勢を張っていることを見抜かれてしまう気がした。


 わらわれる。

 嫌だった。


「わたくしかどうかは別として。陛下には新しいお妃様を迎えていただいて王子を儲けていただく必要はございますわね」


 冷静な回答だった。

 カノは余計に悲しくなった。

 シャフラは怒りすらしないのだ。


「エカチェリーナ様との間に二人目のお子は望めないでしょうから。それくらいのことは男女の仲に疎いわたくしにも分かりましてよ」

「あんた、そんなこと宮殿の中で堂々と言っていいの?」

「皆が存じ上げていることでございましょう。それに今エカチェリーナ様はアナーヒタ様を迎えにお出になられてこの近辺にはいらっしゃいませんもの」

「そりゃそうか」

「以上です。それでは失礼致します」


 この部屋には入らず――カノの顔を見ずに立ち去る気だ。


「待って」


 呼び止めてから、自分はシャフラに何の用事があるのだろうと自問自答してしまった。


「何でございましょう」


 一生懸命考えて、質問を捻り出した。特に興味のあることではなかったが、シャフラに何かを言わなければならない。


「なんで今この時期にアナーヒタ様が宮殿に戻ってくるの? アナーヒタ様に何かあったの?」


 シャフラはあっさりと答えた。


「食事は完全に大人と同じものを召し上がるようになられましたし、最近おしめの訓練も済んだとのことで、宮殿で王女としての教育を受けるに適したとのご判断です」


 ユングヴィやテイムルの子供たちのことを思い出した。テイムルの次男は三歳になるまでおしめをしていたし、ユングヴィの長男に至っては四歳を過ぎてもおしめだったと記憶している。アナーヒタは今まだ二歳になったばかりのはずだ。


「誰のご判断だって?」

「エカチェリーナ様の、でございます」

「鬼母だね」


 シャフラは何も答えなかった。ただ、「今度こそ失礼致しますわね」と言った。ややして足音が聞こえてきた。ソウェイルを捜してどこかに行ったのだろう。


 興味を惹かれた。


 部屋を出て回廊を見ると、奥の方に女の後ろ姿が見えた。白い絹の服の上に臙脂色の毛織物の肩掛けを羽織っている。シャフラだ。

 これからもソウェイルを捜すのだろうか。それとも、ソウェイルを諦めてアナーヒタを出迎えるのだろうか。どちらにしても、関わりたくはないが、怖いもの見たさで観察したいと思った。


 カノは無言でシャフラの後を追い掛けた。



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