第4話 優越感と劣等感
「たまには仕事をするか」
ソウェイルが立ち上がって呟く。
カノは顔をしかめた。
そこまで至近距離にいるわけでもないのに、
彼が飲酒に手を出したのは即位してすぐくらいのことだった。即位式の宴で酒が振る舞われて以来のめり込んでいったのだ。それでもまだ最初のうちはここまで酷くなかったはずだが、二年前ちょっとした事件が起こったのをきっかけに決壊してしまった。
止められる人間がいない。
近衛隊長であり侍従官の筆頭でもあった白将軍テイムルは死んだ。彼が生きていたらソウェイルの日常生活に一から十まで口を出して管理してくれただろう。
養父である黒将軍サヴァシュと養母である
オルティとシャフラだけは必死にソウェイルをつなぎ止めようとしているが、二人の言葉はあまり響かないようだ。このままでは友情に亀裂が入ると察した二人の方が次第に遠慮し始めた。
カノは当然何もしない。
この三年間、ソウェイルが壊れていくのを黙って見ていた。
面白かった。いい気味だと思った。
フェイフューを見殺しにしたソウェイルが幸せになるのは許せない。
保護という名目で軟禁され、若いからという理由で公務を制限され、執政には軽んじられ、議会は彼を無視して私利私欲に走り、頼れる十神剣はいなくなった。
強烈な優越感とどうしようもない親近感がある。
ソウェイルが堕落していくたび、自分が堕落しているのも許されていく気がする。
好きと嫌いの狭間で圧死寸前のカノは結局ソウェイルに依存して離れられずにいる。
このまま足を引っ張り合ってどこまでも
ずっと宮殿で二人きりだ。
もう永遠に、楽しかった少年少女の時代は戻ってこない。フェイフューが死んだ時に失われた。
ソウェイルは宮殿の南東にあった小さな勉強部屋を取り壊した。それはユングヴィへの絶交宣言でありフェイフューの弔いだった。
カノは職人の手で解体されていく小屋をソウェイルが眺めているのを見ていた。
心の底から楽しかった。
どんどん壊れていくといい。
ソウェイルが広間を出ようとする。女官たちがどこからともなく湧いてきて群がり、「お着替えしましょう」だの「お水を召し上がってくださいませ」だのと話し掛けてくる。ソウェイルは適当に相槌を打つばかりで何もしようとしなかった。
足元がふらついている。
「何の仕事? ていうか、仕事できるの?」
「できるだろ。名前書くだけだから」
「何に?」
「さあ。何だろうな」
異常な高揚を感じた。
この国は近々滅ぶだろう。
「執政からだったり、議会からだったり、武官からとか文官からとか、いろいろあるけど。書類が回ってきて署名を求められる。まあ、読んでいない」
「クソみたいな仕事だね。それで税金で食わせてもらってるんだ」
「そう。クソみたいな仕事。こんなことをやるためにフェイフューを殺したんだと思うとウケるとしか言いようがないな」
そして自嘲的に笑うのだ。
「早く死にたい」
だが彼が死ぬことは許されない。息子がいないからだ。王位を継承できる男児がいなければこの王国は目に見える形で断絶する。特にアルヤ民族は蒼い瞳に蒼い髪の男子の血統にこだわってきたので大分裂か大暴動を起こすかもしれない。
カノとしてはそれでもよかった。
「死ねば?」
ソウェイルは頷かなかった。
「テイムルが悲しむ」
死んだテイムルの名前が出てきて、生きているユングヴィやサヴァシュの名前は出てこない。
「せめて子供を作らないと……、息子がいないと。白将軍家のために、アルヤ王家を残さないと」
「エカチェリーナ様と仲良くしないとだめだね」
「それが、酒を飲むと
ソウェイルとエカチェリーナが結婚したのはソウェイルが即位してすぐのことだった。すでに二年半ほど前のことになる。
どうして結婚することになったのかは、カノは知らない。イブラヒムの薦めだったと聞いたが、なぜイブラヒムがこの話を進めたのか、カノには分からなかった。
アルヤ王がサータム帝国の外の国と姻戚関係を持ってよかったのだろうか。しかもノーヴァヤ・ロジーナ帝国はサータム帝国にとって仮想敵国のはずだ。政治の事情はさっぱり分からない。
確認しようとも思わない。カノにとって大事なのは、エカチェリーナがカノを宮殿から追い出すかどうかだけだ。
エカチェリーナがソウェイルを激しく憎悪するのも、カノとしては面白い。
彼女はどこまでも西洋人で、この辺りでもっとも高貴な民族を自称するアルヤ民族を二流の民族とみなし、灼熱の砂漠を嫌って宮殿から出ず、故郷から連れてきた侍女とばかり交際する。そして南方の蛮族である夫に組み敷かれるのを拒絶する。
当然ながら、アルヤ王国の民衆からは派手に嫌われている。
アルヤ王国の王族周辺の貴族たちは、ソウェイルとエカチェリーナが不仲なのを知ると、我先にと宮殿に娘を送り込んできた。正式な妃はまだいないが、候補者たちは皆女官として宮殿で暮らしている。
ソウェイルが本格的に手を出した女はまだいないらしい。女たちが互いに牽制し合い見張り合っているので、手がついたという嘘を言えば誰かにはすぐに見抜かれる。仮に本当に手がついていたとしてもソウェイルの子供を産んだわけではない以上妃に格上げされることはない。
真相は今ソウェイルが自己申告したとおりなのだろう。単に酒の飲み過ぎで女を抱ける体調にならないのだ。
では、飲まなかったらあちらこちらで種を蒔いていたのか、と思うと、カノはそういう最低なソウェイルなら好きになれた。
「まあ、どうにかなるだろ」
ソウェイルの目に光はない。ぼんやりとした、焦点の合ってなさそうな目で、斜め下を見ている。
「俺の手元に来る前にシャフラが読んでる。シャフラなら賢いから、署名していいやつとだめなやつを分けておいてくれる」
それを聞くと、カノは吐き気がするほどの劣等感に苛まれる。
シャフラは十六歳の春、十七歳になる年に、五年間の教育課程を修めて女学校を卒業した。そしてそのまま宮殿に上がり、文官として働き始めた。
彼女は学歴も職歴も得たのだ。しかもアルヤ王国初の女性官僚という名声を手に入れた。今や彼女を知らぬ王国民はいない。
カノは女学校を中退して日がな一日宮殿で寝ている。
絶望的な、圧倒的な差だ。
シャフラが努力しているからだと分かってはいる。理性では、彼女が本当に優れているからであり、自分が本当にだらしないからだ、と、理解することはできる。
「あたしシャフラ嫌い」
この一年ほど会話をしていなかった。
猛烈な嫉妬ゆえの罵詈雑言しか出てこない。
「気持ちは分かる」
こういう時、ソウェイルとカノは自分たちこそ双子だったのではないかと思うほど共鳴する。
「俺も最近オルティ嫌いだからな」
心身の健康、武官または文官としての順調な実地経験、未来への展望――何もかもソウェイルとカノがこの三年間で失ったものだった。
「シャフラもオルティも俺が本当に潰れたら仕事がなくなるんだなあ」
ソウェイルが笑う。
「そういうのも見てみたいな。俺が王様を辞めたら何人のひとの人生が破滅するのか想像するとちょっと気持ちが上がる」
カノはこういうソウェイルが大好きだった。
「最低」
この国は、近々滅びる。
カノにとってはフェイフューが死んだ時に死んだ国なので惜しくも何ともない。
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