第3話 狂っている方が楽だ

 窓掛けの隙間から入る日差しが眩しい。

 まぶたを焼き尽くすような光を感じて、カノは目を覚ました。


 明るい、どころか、日はすでに天高く昇っているようだった。そろそろ昼だ。

 しかしカノにはすることがないので、それを寝坊だと思うこともなかった。


 上半身を起こす。


 三年間で伸びた長い黒髪の毛先が胸の前にばらばらと落ちてくる。十代半ばまではこまめに切って断髪を維持していたが、いつしかそういう快活さや可愛らしさへの執着がなくなって切らなくなってしまった。今では大きく豊かな胸を覆うほどある。


 自分の肢体を眺める。

 胸を覆う薄い帯の下、豊満な乳房はもはや手の平には収まらないほど膨れていて、胸に咲くいただきの尖りがその布越しに小さく主張している。くびれた腹部にはわずかに脂肪がついていて柔らかく、下腹部から下にまとった脚衣シャルワールの先からは細い足首が出ていた。


 寝台を出て、壁際に置かれた姿見の前に立った。


 大きな二重まぶたには長く濃い睫毛が密集していて、唇は厚く官能的だ。


 鏡の中の顔の輪郭をなぞるように、手を這わせた。


 浅黒い肌と真っ黒な髪は父から譲り受けたものだが、少しきつい印象を与える整った面立ちと必要以上に豊満な体の曲線は、いつの間にか、母そのものに成長していた。こうして鏡を見ていると彼女が生きてそこに立っているかのようだ。


「おはよう、お母さん」


 ここまで似ているのになぜ自分たちが母娘であることに気づかなかったのだろう。それとも、十九の今になったからこそ彼女に似てきたのだろうか。


 豪奢な踊り子の衣装を纏って街を練り歩く彼女の姿は妖艶で、常に男の気を引いていたものだった。

 自分もそんな女になったのだろうか。


 育ち切ったこのからだで誘いたい男はもはやこの世にいない。


「カノ様」


 振り向くと、寝室と回廊を隔てる衝立ついたての向こうから、三人の女官が入ってきていた。彼女たちのうち一人は衣服を、もう一人は髪を整える櫛や香油の入った箱を、最後の一人は朝食と思われる果物とパンの盛り合わせの載った盆を抱えている。


「お目覚めでございますね」


 カノは何も答えなかった。口を利きたくなかった。彼女たちが嫌いだからだ。

 貴族の娘で、王家に仕えるための教育を受けた、最高級の侍女たちだ。身分にふさわしい、落ち着いていて冷静な、冷淡にも見える言動を取る。顔色一つ変えずにカノの身の回りの世話をする。余計なことは言わない。


 最初のうちは、カノは彼女たちとうまくやりたいと思っていた。蒼宮殿にいる限り付き合い続けることになるはずだ。少しでも楽しくやれたらいいと考えていた。


 ところが彼女たちは職務に徹していてカノと無駄口を利くことはなかった。ただ黙々と定められた手順に則って作業をするだけだ。

 カノは自分が人形になったように感じた。丁寧な扱いを受けているのにないがしろにされているようにさえ感じた。


 ここでは、カノには意思や感情があってはいけないのだ。


 半分は被害妄想だろう。分かってはいた。彼女たちはカノに淑女らしい振る舞いを求めているだけで、本気でカノを踏みにじりたいわけではないはずだった――少なくとも最初のうちは、だ。


 ある女性が近づいてきて、カノに言ったのだ。


 ――宮殿に勤めている者は皆貴女あなたを精神分裂病の狂女だと噂していますよ。そんな状態でおめおめと生きながらえて恥ずかしくないのですか。


 この女官たちも同じように思っているのだろうか。


 反吐が出る。


 カノ自身は自分が狂っているとは思っていなかった。むしろ頭は冴えて周りのことがよく見えるようになった気がしていた。母に守られ、学校に守られ、ぬくぬくとお姫様気分で暮らしていた頃には見えなかったものが見える。

 嫉妬、侮蔑、嘲笑、嫌悪、憎悪――どす黒く薄暗い感情が宮殿の至るところに渦巻いていて、十神剣として、だいだい将軍としての務めを果たせないカノを指差して陰口を叩いている。


 狂っているふりをする方が楽だ。

 現実と向き合わなくて済む。


 今日もまた、こいつらは自分を馬鹿にしている、と思いながら、髪を梳かされている。



 支度を済ませると、女官たちは三人でカノが食事をするところを監視する。カノは一人果物を口に入れる。


 食欲が湧かない。食べ切れない。あまり食べていないのに胸や尻は大きくなる。十代の前半の頃は食べ過ぎて太っているのではないか心配していたというのに、自分はがらりと変わってしまった。


「失礼いたします」


 すべてが済むと、女官たちはそれだけを言い残して出ていった。


 これからカノは昼食まで自由時間だ。

 しかしすることはない。

 外に出ることもできない。

 何らかの法で禁じられているわけではなさそうだが、宮殿の外に行こうとすると周りにいる白軍兵士や女官に止められ、保護という名目で連れ戻される。禁じられているも同然だ。

 自分は外に出せないほど恥ずかしい存在なのだ。



 裸足のまま部屋を出る。脚衣シャルワールは寝間着として着ているもののままだが、長い羽織は裾を引きずるほどで、重く、枷のようだった。


 それでも一応宮殿の北の棟の中を移動することは許されていた。宮殿の北の棟には事情を分かっている人間しかいないからだ。


 回廊を、長い髪をなびかせて歩く。


 いつからか自分付きではない女官が後を追い掛けてきて「カノ様」と名を呼んだ。カノは無視した。この宮殿の女官は皆敵だ。


「どちらに向かわれるのですか」

「あんたには関係ないでしょ。あたしなんかに構ってないで仕事したら?」

「いけません、お部屋にお戻りください」

「うるさいな」


 北の中庭を取り巻く回廊を行き、前面開放広間イーワーンに辿り着いた。

 中庭側の壁のない、本来は王の謁見の間として使われるはずの広く大きな部屋は、重い緞帳で閉ざされていた。


「カノ様!」


 緞帳を掻き分ける。

 ここでこうして止められる、ということは、目的の人物が中にいる、ということだ。カノと彼を会わせたくないのだ。

 望むところだ。

 宮殿の人間が困ることをしたい。


 中を覗いた。


 緞帳の向こう側にはさらに目隠しの衝立がいくつも置かれている。


 爪先立ちをして、衝立の向こう側を覗き込む。


 部屋の奥、祭壇の前に、一人の女官が座っていた。

 その女官の膝を枕にして寝転がっている者がある。


 投げ出された長い手足は男性のわりに華奢だ。背だけはカノよりずっと高くなったが、筋肉の存在感はほとんどない。肌は相変わらず陽の光に当たっていないかのように白い。頬にも病的なほどに色がない。

 力なく伏せられたまぶたに生える長い睫毛も、床に広がる長く豊かな髪も、何もかもこの国においてはもっとも美しく尊い色、神を表す蒼い色をしているのに――


 どこからともなく一人の女性が歩み寄ってきた。


 たっぷりとした布で膨らませた腰、床に引きずる白い裳裾には、精緻な鉤編みの飾り帯が使われている。羽織っている濃緑の毛織物の上着には金の刺繍が施され、縁には毛皮が縫い付けられていた。アルヤ民族の服ではない――それどころか、この辺りの砂漠の民のものではない恰好だった。

 万年雪に閉ざされた、寒い、寒い、極寒の北国の衣装だ。


 高く結い上げられた髪の色はまばゆい白金で、肌の色は塗料を塗ったように白い。


「起きなさい」


 彼女は、卓上にあった硝子ガラスの酒杯を手に取った。

 そして、女官に膝枕をさせてぼんやりしている男の顔面に、酒杯の中に残っていた葡萄酒を注いだ。

 白い襯衣シャツが、葡萄酒の紅に染まった。


 男が起き上がった。


 まぶたが持ち上がる。

 アルヤ民族の尊ぶ、蒼い瞳が見える。


「……何の用だ」


 アルヤ王国国王ソウェイルは、顔にかかった葡萄酒を女官に拭かせながら、目の前の貴婦人の顔を見上げた。


「朝から酒を飲んで腐っている夫を嘲笑いに来ました」


 彼女はそう言うと、「やはり馬鹿馬鹿しくなったので戻ります」と告げ、踵を返した。


 切れ長の二重まぶた、尖った高い鼻は彫りが深く、大陸南方の人々とは明らかに違う顔立ちをしている。雪のように白い肌に埋まっているのは氷に似た薄青色だ。


 彼女がこちらに向かってきた。


 圧倒的な存在感――華奢な体躯から放たれるのは殺気にも似た強い感情だ。

 陶器人形のような顔立ちには似つかわしくない、猛禽のような目をしている。


御機嫌ようズドラーストヴィチェ

「……御機嫌ようサラーム


 それだけ言うと、彼女は微笑むこともなく回廊の方に消えた。


 アルヤ王国第一王妃、ノーヴァヤ・ロジーナ帝国第一皇女エカチェリーナ――人は彼女を氷の女王と呼ぶ。


 カノに、お前は狂っている、と言ってきた女だ。


 エカチェリーナが去ると、ソウェイルはまた横になった。


「何の用だ?」


 カノも、エカチェリーナがしていたようにソウェイルを見下ろしながら、答えた。


「あんたがあたしよりみじめな生活を送ってるのを見て、あたしよりヤバいクズであることを確認して、安心するために来たよ」


 ソウェイルは「お前もか」と呟き、自分の手で自分の目元を押さえた。


「俺が朝から酒を飲んで腐っているクズで満足しただろ?」



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