第2話 執政イブラヒムの善政 2

 オルティが扉を開けると、イブラヒムの私兵であるサータム人兵士たちがオルティを睨んだ。アルヤ王国に来たばかりの頃ひと悶着を起こしたので警戒されているのだ。


 イブラヒムは、中央奥、執務用の文机に向かい、座椅子に座っていた。


 落ちくぼんだ眼窩、納まる瞳の光は鋭い。まったく笑わぬ口元は丁寧に整えられた短い口ひげと顎ひげに囲まれている。頭にはターバンを巻き、丈の短い胴着ベストを纏っている。


 相変わらず落ち着いた様子だ。オルティとシャフラが入ってきたことにも気づいていないかのように涼しい顔をしている。今日も冷静だった。

 まるで人間ではないかのようだ。アルヤ人たちは彼がひとの心を持たぬ悪魔か土人形であると言われても信じるだろう。


 そこまで年寄りでもないはずだが、老獪、という言葉がよく似合った。


 彼は三年前から一切変わっていない。


「執政」


 オルティが声を掛けると、彼はようやく顔を上げた。

 表情をまったく変えることなく溜息をついてみせた。


「威勢がいい。妬ましい若さだ」


 毛の先も思っていないであろうことを口にする。


「とうとう結婚の報告かね。おめでとう。楽しみにしていた」


 突飛な発言に、何を言われたのか分からないオルティは「は?」と呟いた。


 シャフラがオルティの隣に歩み出る。


「わたくしの私的な話ではございません。わたくし個人の事情は捨て置かれませ」


 イブラヒムが「そういうわけにはいくまい」と言う。


「君はアルヤ王国随一の富豪にして五本の指に入る名家フォルザーニー家の当主の姫君だ。先代の貴族院議長の孫娘でもある。生まれながらにして一般人ではないのだ。君の婚姻は王国の政治にかかわる」

「秘書官になることをお受けした際尼になるものと思い陛下にもそう奏上致しました。実家も承知しております。父はもはやわたくしに縁談など持ち掛けますまい」

「そうだろう、これ以上新しい縁談は不要だ。君はすでに王妃のようなものだから、普通の男は寄ってこない」


 混乱しているオルティに対して、シャフラが横目で一瞥をくれて「あなた馬鹿ですの?」と溜息をつく。


「執政はわたくしを陛下の側女そばめだとお思いで、それをあなたが略奪するものだとお考えになっているのです」


 オルティがぽかんと口を開ける。


「家臣が主君の女を寝取るのなど古今東西よくある話だ、私は気にしない」


 そして鼻で笑う。


「『蒼き太陽』から女を奪うという強烈な侮辱行為を取った人間にアルヤの民衆がどういう目を向けるのかは知らないが」


 オルティが拳を握り締めて一歩前に出た。シャフラが「おやめなさい」と言って彼の肘をつかんだ。


「シャフラはそんな女じゃない。俺ともソウェイルともそういう関係じゃないし、万が一そうなっても二股など絶対にしない」

「素晴らしい信頼関係だ」

「殺してやる」

「おやめなさいってば!」


 イブラヒムが「なんだ、違うのかね」とせせら笑う。


「わたくしまで執政の思うとおりになるとはお思いにならないでいただきたいですわ」

「君と話していると君のおじいさまを思い出す。なかなか食えない男だった。彼も若い頃は君のように可愛らしかったのだろうか」

「嬉しくございません」


 くつろいだ様子で座椅子の背もたれにもたれる。


「では、何の用だね」


 一度深呼吸をしてから、オルティはゆっくり口を開いた。


「帝国が本格的にチュルカ人騎兵の引き抜きを始めたとお聞きして、詳細をお訊ねしたく。黒軍兵士がごっそりと消えたとのよし、あまりにも急なことゆえ非常に驚き申した」

「仕方がなかろう、彼らにとってはアルヤ王国よりサータム帝国の方が魅力的な士官先なのだ。何せ、」


 オルティもシャフラも息を呑んだ。


「人間扱いしてもらえるのだから」


 二人とも反論しなかった。


 三年前の王位継承を巡る内乱のさなか、黒軍はすさまじい打撃を受けた。武力では大陸最強を誇る彼らだったが、政治的にはアルヤ王国最弱であることを突きつけられたのだ。


 王国議会は彼らの発言権を認めず、彼らの代表者であるくろ将軍サヴァシュを無視した。


 理由は単純、チュルカ人だからだ。アルヤ人はアルヤ人以外の出自を持つ者に権力を認めたくなかったのである。


 紆余曲折を経て、最終的に、サヴァシュは政治からも軍事からも一切手を引いた。この二、三年、宮殿の中で彼の姿を見た人間はいない。


 黒軍兵士たちはサヴァシュを自分たちの保護者と認めて慕っていた。それがこのような不遇に置かれて、本人も完全に抵抗を諦めて隠遁生活に入った、となれば、アルヤ王国に望みを失うのも当然だ。


 挙句の果てに、サヴァシュが将軍としての務めを果たしていた当時黒軍の副長をしていた女性が、三ヶ月ほど前、妊娠を理由に仕事を辞めてしまった。

 その際も王国は混乱を極めた。

 チュルカ人女性は妊娠しても腹が膨れて手綱を握れなくなるまで働くのが普通だが、アルヤ人女性はそもそも結婚したら家庭に入って出てこないものだ。


 文化の違いが激論を呼び、結局、女性に仕事をさせていたという理由でまたサヴァシュがやり玉に挙がった。当人は姿を見せないので直接攻撃されたわけではなかったが、耳に届かないということもないだろう。


 ついでにシャフラも批判の対象になった。アルヤ王国初の女性官僚である彼女に対して、一般民衆は、どうせ結婚したら辞めるくせにだの親族以外の男に顔を見せるなどふしだらだだの、という罵声を浴びせたのである。

 それが鎮火したのは、彼女がソウェイル王の愛人であるという別の醜聞が出回ったからだ。出どころは不明だが、世間は、官女が王のお手付きになることをよしとした。


「これはウマル公付きだったサータム人の文官からの情報だが」


 ウマルというのは、イブラヒムの前任者であり、初代アルヤ属州総督であった男の名である。


「公はサヴァシュを帝国の将軍として引き抜きたがっていたそうだ。この交渉を私が引き継いで彼と皇帝陛下との間の仲立ちをしても構わない」


 唇の端を持ち上げる。


十神剣じゅっしんけんは解体された。もはやこれ以上減っても変わりはあるまい」


 十神剣とは、アルヤ王国軍の十の部隊の長のことだ。


 この国には神から授かったという伝説の剣が十本ある。意思を持ち言葉を話す魔法の剣だ。神剣自身に選ばれた人間にしか鞘から抜くことができない。

 王国の民はその選ばれた人間をひとまとめにして十神剣と呼んでいた。

 表向きは武官だったが、実態としては神官だ。しかし能力的に軍を率いることができるか否かにかかわらず将軍と呼ばれている。


 アルヤ王国が仮死状態にある原因は十神剣にもある。十神剣は、将軍とは名ばかりとはいえ、軍の象徴であり、軍人たちにとっては軍神で、いるだけで士気が変わるものだった。今はそれが解散状態にある。


 三年前、実際に部隊の隊長として活動していた実績もあるしろ将軍、そう将軍、さくら将軍の三人が死去した。

 十神剣は、今、残り六人しかいない。

 その六人も、二人は地方へ散り、王都にいるはずの三人も隠遁生活に入り、最後の一人は心神喪失状態であるとみなされて表社会から隔離されている。


 オルティは大きく息を吐いた。


「出直してきます」


 シャフラが「何ですって!?」と声を荒げた。


「ここまで来て諦めるのですの!?」

「いや、冷静に考えたらいろいろ無理だった。俺一人ではどうにもならない」

「情けない! 意気地なし! 見損ないましたわ!」

「最初はお前の方が俺に余計なことをするなと言っていたくせに、俺が引いたら押してくるのはやめろ」


 イブラヒムがまったくの真顔で「君たちは本当に仲がいい」と呟いた。オルティが「違う、そういう関係じゃない」と訴えたが誰も聞いていない。


「どいつもこいつも俺を煽って矢面に立たせようとして、俺が冷静になった途端もっと頑張れなどと言うな。俺まで力尽きたら誰がソウェイルを守るんだ」


 思うところがあるらしく、シャフラは黙った。


「絶望することはない」


 イブラヒムが落ち着いた声音で言う。


「アルヤ王国は滅びない。私がサータム帝国皇帝の名の下で守るからだ。サータム帝国は永遠にアルヤ王国の保護者であり続ける。このきずなが保たれることを神も喜ばれるであろう。神はまことに慈悲深い、混迷のアルヤ王国を見守ってくださるに違いない。神は偉大なりアッラーフ・アクバル


 そして、また、鼻で笑った。


「家族を失って傷つき酒色に溺れる少年王――なんという悲劇だ。私が守ってやらねばなるまい」


 そんなイブラヒムに対して、オルティもシャフラも何も言わなかった。二人とも「失礼しました」と言って揃って執務室から出ていった。




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