第三部:仄《ほの》かなる明りの中で

第13章:橙の女鹿と蒼き太陽

第1話 執政イブラヒムの善政 1

 アルヤ王国首都エスファーナの中心には、絢爛豪華な宮殿がある。

 国王およびその家族の住まい、国会議事堂、最高裁判所、王国軍関連施設などから成る広大で巨大なその宮殿は、壁が蒼い石片タイルで覆われていることから、国民にはそう宮殿と呼ばれていた。


 蒼宮殿の中には大小さまざまな中庭があるが、ひときわ美しいのは宮殿の中央にあるもっとも大きな庭だ。巨大な噴水を中心にその周りを取り巻くように九つの小さな噴水が設置されていて、九つの小さな噴水からさらに四方へ向かって小さな水路が伸びている。この人工の小川は蒼宮殿の至るところに張り巡らされ、乾燥した灼熱のアルヤ高原の空気の中涼しげに流れていた。


 蒼宮殿はアルヤ王国の富と栄光の象徴だ。不毛の砂漠が広がるこの世界の中心であり、水と緑の溢れる楽園だ。大陸を渡る旅人たちが思い描いた地上の終着点であり、もっとも天上に近い建物であった。


 しかし今蒼宮殿内部は仮死状態にある。


 中央の中庭を囲む回廊を北から南へと、二人の人物が大股で歩いている。


 先を歩いているのは年若い青年だ。

 北方の草原の苛烈な太陽に焼かれた肌は日焼けしている。切れ長の目元や薄い唇はこの王国の主要民族であるアルヤ人とは少々雰囲気をことにしていたが、端正で精悍な顔立ちは凛々しく、王都の若い娘たちは彼を異民族情緒のある美男と評価していた。いでたちは、立て襟に前ボタンのついた丈の長い白い胴着ベスト、それにあわせて同じ白い筒袴と、アルヤ王国軍の誇る国王の親衛隊、通称しろ軍の制服である。


「もう我慢できない! お前らアルヤ人が言えないんだったらチュルカ人の俺が言ってやる、なんなら辞表を叩きつけてやってもいい!」


 普段は冷静で我慢強い彼にしては珍しい激昂だった。


 だが後ろを歩いている者は大声程度では負けない。毅然とした、気丈な態度で応じた。


「一介の白軍兵士であるあなたに何が言えて? あなたの辞表が提出されたところで痛い思いをするのは我が君おひとりだけです。執政は痛くも痒くもございませんのよ」


 そう言いながらついてきたのは、青年と同じ年頃、妙齢の女性だ。

 砂塵を巻き上げる強風にも大地を焦がす日光にもさらされたことのなさそうな白く滑らかな肌、大きな黒曜石に似た瞳を収めるあんず型の目には長く濃い睫毛、控えめな大きさながらふっくらと柔らかい印象の唇は、細密画ミニアチュールに描かれたいにしえのアルヤ美女を思わせる。纏っているのは、藍一色のくるぶしまで覆う丈の服に、同じく藍色の、髪を覆い隠すマグナエと呼ばれる布だ。


「じゃあお前はこの決定におとなしく従うのか? アルヤ人はずいぶん従順になったな、昔はこの大陸のどの民族よりも大きなつらをしていたというのに」

「わたくしとて何も思わないわけではございません。けれども現状誰も身動きが取れないのは明らかです。何より、わたくしには執政のご用意なさった書類を陛下にお渡しすることのほかに何の権限もないのですもの」

「聞き分けのいい可愛い女になり下がったな。見損なったぞシャフラ」


 彼女――シャフラが顔をしかめた。


「身の程もわきまえずきゃんきゃん吠えるだけのオルティさんにわたくしの何が分かるとおっしゃるのです? わたくしが庇ってさしあげていることもご理解なさらないお馬鹿さんなのだと思うと、わたくしはあなたが恥ずかしいですわ」


 彼――オルティが唸った。


 オルティが立ち止まって振り向いた。シャフラもまた立ち止まって、真正面からオルティに向き合った。


 二人はしばらくの間黙って睨み合っていた。


 蒼宮殿は静かであった。ただ水路のせせらぎの音だけが聞こえていた。その音に耳を傾ける余裕があれば心は癒されたかもしれない。けれど今は心を癒そうと思う発想すら奪われている。


「いいですか、オルティさん」


 シャフラの白く細い指先がオルティの胸をつつくように指す。


「草原のグルガンジュ王国の第六王子は亡くなられたのです。あなたはもはやただのアルヤ王国臣民にして近衛隊兵士。くろ軍がなくなろうが対平原政策が破綻しようが定住チュルカ人にも白軍兵士にも何の関係のないことでございます」


 オルティは胸を張って「そんなことはない」と否定した。


「アルヤ王国臣民ならアルヤ王国軍の栄えあるチュルカ人騎馬隊が衰退するのに不安を覚えるのももっともだ。それから、この身に流れる血がチュルカ人のものである以上は、父祖伝来の故地がどこの国のものになるのか興味を持つのも当然だ」


 シャフラが柳眉を釣り上げて眉間にしわを寄せる。


「俺だってそこまで馬鹿じゃない。確かに一介の白軍兵士に干渉する権限はないが、開かれたサータム帝国、開かれたアルヤ王室を目指す執政が一般人の知る権利をあからさまに侵害するとは思えない。とりあえず、今は話を聞くだけ、ということにする」

「聞くだけで済むと思ってくださるとお思いですの?」

「まあ我が王に風の噂を吹き込む程度は許されるだろう」

「それで陛下がやる気になってくださると思われますか」


 二人はまたしばらく顔を見合わせて黙った。


 折れたのはシャフラの方だった。


「逆手にとって、こうしましょう」


 肩をすくめる。


「あなたもチュルカ人としてサータム帝国に転職したいとおっしゃるのはいかが? 皇帝は喉から手が出るほどチュルカ人騎兵が欲しいのですから――アルヤ王国軍からわざわざ黒軍兵士たちを引き抜く程度には。転職先の労働条件を聞くくらいならばよくある話でございましょう」


 オルティは頷いた。


「いい方便だ。俺の人生がどんどん薄っぺらになっていくが、もういまさらだな」

「それで天下の執政イブラヒム様が騙されるとも思いませんけれども。執政は建前を重んじられる方でございます、周囲の人間に吹聴できる言い訳があるのならば目をつぶってくださるに違いありません」


 二人は歩き出した。

 目的地は南の執政の執務室だ。アルヤ王国に新王が立ったら返還される予定だった、かつてアルヤ王国がサータム帝国の属州であった時に総督の執務室として使われていた王の間である。


 執政とは、三年前まで総督イブラヒムと呼ばれていた男のことだ。役職名が変わっただけの同一人物である。総督という名称は植民地経営の色が濃厚すぎるとのことで、王の政治を代行する者らしく執政という単語を選んだのだ。


 アルヤ王国には王が立った。


 今から数えて十二年前、先代の王がサータム帝国との戦争に敗北して処刑された時、アルヤ王国は一度サータム帝国の植民地という地位に転落した。

 以後属州として扱われていたが、それから三年――今から数えて九年前――旧アルヤ王国軍がサータム帝国軍相手に反乱を起こして勝利を得た際に、王国の国号を取り戻し、王の擁立を許可された。独立こそ叶わなかったが、アルヤ王国は国と王族を取り戻したのだ。


 それが今から数えて三年前、王家の唯一の生き残りであった第一王子ソウェイルがアルヤ王として即位した。

 ところが、むしろここからがサータム帝国の本領発揮だった。

 ソウェイル王子を錦の御旗に掲げたアルヤ軍は手ごわく、真正面から衝突すると莫大な損害を被ることを知った帝国は、アルヤ王国を内側から骨抜きにしていく方針に転換していたのだ。表面的には友好的な態度で内政干渉を始めたのだ。


 執政イブラヒムは恐ろしい男だ。

 彼の狙いどおり、新王ソウェイルは政治への意欲を完全に喪失した。

 帝国は無事にずっと欲しかったアルヤ王という傀儡を手に入れることができた。


 アルヤ王国は大陸大通商路の真ん中にある。中央の高原には農業の可能な緑地オアシスが点在し、北部の険しい山々には冠雪があって、それに伴う雪解け水の川や湖がある。アルヤ民族は人口がたいへん多い。

 周辺各国が渇望するすべてを持っていると言ってもいいほど豊かで恵まれた土地だ。


 それを、王を育てることに失敗したアルヤ人たちは、未来への希望を失って手放そうとしている。


 帝国からすれば、ここで、めでたしめでたし、なのである。


 帝国は王国の官僚制度をそのまま乗っ取った。武官である白軍の幹部の登用制度はほとんど変えずに流用した。結果として白軍兵士の養成所である軍学校を卒業したオルティは無事白軍兵士として採用されたが、今の機能不全に陥った白軍でできることは王の身辺警護だけだ。


 ソウェイルがこの三年間でやったことは、唯一、シャフラ――大貴族フォルザーニー家の姫君シャフルナーズィアを自分の秘書官に任命したことだけだった。それが断末魔であり、彼が自発的に行なった最後の政治的行為だ。

 秘書官とは本来王もしくは宰相の政治の事務的な仕事を請け負う文官だ。しかし政治をしなくなったソウェイル王の秘書官は侍従官と同じ扱いになっている。まして秘書官初の女性であるシャフラに業務の教育を行なえる者はない。


 オルティもシャフラもソウェイルが引きこもっている限り仕事がない。


 そこに黒軍解体の報がもたらされた。


 息巻いて飛び出したオルティを引き留める者はシャフラただ一人だけなのだ。



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