第25話 アルヤ王国の長い冬が始まった

 ナーヒドの訃報を聞いた時、オルティは真っ先に蒼将軍家を訪ねた。

 蒼将軍家はすでに喪に服していた。家の中の人間はとうにすべてを把握していたのだ。

『姉者!』

 ギゼムが足早に階段を上がる。その後ろを追い掛ける。

『サヴァシュ殿が帰ってきてよいと言ってくださった、サヴァシュ殿の家に戻れ』

『さようか。お言葉だけありがたく頂戴する。私は戻る気はない』

『甘えさせていただけ、この家の人間はチュルカ人の姉者をどう扱うのか分からないのだぞ、酷い仕打ちを受ける前に庇護を受けた方がいい』

『口を出すなオルティよ。私のことは私が決める。お前は己の為すべきことだけしておれ』

 ギゼムは淡々と片づけをしていた。今もナーヒドの書斎を検分すると言っている。しかし正式な婚姻をしておらず妻ではない彼女がそんなことをする義務はない。

『なぜそのような義理立てをする? 所詮アルヤ人の身分の高い男だ、向こうはさほど姉者に思い入れがあったとは思わん』

『そうやもしれぬ。それならばそれでも私はよい。私の気分の問題だ』

 書斎の前に置かれていた衝立をのける。部屋の中に入る。

『姉者――』

 ギゼムが、一度、立ち止まった。

『……姉者?』

 彼女の視線の先に、文机があった。

 そしてその上に、一冊の筆記帳ノートが置かれていた。

 静かに歩み寄った。

 そして、筆記帳ノートを開いた。

 何かがひらりと絨毯の上に舞い落ちた。折りたたまれた紙だ。オルティには手紙のように見えた。

 ギゼムが拾い上げた。広げた。

『……オルティよ』

 紙を持ったままオルティの方を振り向く。

『これは何だと思う? 私にはアルヤ文化の細やかなるところが分からぬ。あの方が何を書き残されたのか私には読み取れぬのだ』

 紙を覗き込んだ。

 目を大きく見開いた。

 そこには財産一式の目録と神への宣誓の言葉が記されていた。几帳面そうな、角ばった、力強いがどこか繊細な文字で、だ。最後にナーヒドの署名がある。

『婚姻誓約書だ』

 ギゼムの手が、震えた。

『最後に名前を書いて寺院に提出すれば正式な婚姻として認められる。そこに書かれた財産の一式を合法的に相続することができる』

 誓約書を抱き締めて、泣き崩れた。幼女のように声を上げて泣いた。強い、誰よりも強い彼女のこのような姿を見るのは、オルティは初めてだった。

「わかりました。わたしがこの家を守りますね」

 オルティもしゃがみ込んで、姉を抱き締めた。






 冬至の日、そこに立っていたのは第一王子ソウェイルだけだった。

 壇の下、中央に立って一人呆然と壇の上を見上げているソウェイルを、壇の上、玉座から身を乗り出したイブラヒムが、見下ろしている。

「おめでとう、ソウェイル」

 彼の声は朗らかだ。

「春が来たら君は晴れてアルヤ王だ。皇帝陛下もたいへんお喜びだ」

 叫び声が上がった。

「あたしは認めないから!!」

 髪を振り乱して怒鳴るカノを、宮殿の女官たちが三人がかりで押さえようとする。

「あたしは絶対ゆるさないから!! ソウェイルのこと王だなんて思わないから!!」

 「あんたなんて大嫌い」と叫ぶ声は悲鳴になって響く。

「あんたがあたしから何もかも奪ったんだからね!!」

「おやめくださいカノ様」

「あんたがいなかったらあたしはお母さんとも婚約者ともまだ一緒にいられたんだ!!」

「落ち着かれませ」

「おやめくださいませ」

「あんたのせいだから!!」

 結局白軍の兵士が二人出てきてカノを抱え込んだ。まだ言葉にならない声で喚き散らすカノを引きずって講堂から連れ出した。

 こののちカノは女学校を特に理由なく自主退学する。数ヶ月ほど学校にも行かず外出もせず桜軍の寮に引きこもる生活を続けていたが、ある日突然奇声を上げながら裸足で寮を飛び出して白軍に保護されるという事件を起こす。それをきっかけに、十神剣が発狂するという醜聞の発覚を恐れた議会は、秘密裏に発議して、カノを蒼宮殿の奥深くに幽閉することを採択する。

「カノはああ言っているが、君たちは何かあるかね?」

 イブラヒムが十神剣を眺める。

「サヴァシュ」

 サヴァシュは「ない」と答えた。

 彼はしばらく療養に専念すると言って自宅に引きこもっていたが、傷が癒えても蒼宮殿には姿を見せなかった。黒軍の管理運営に関わることは一切なくなり、議会や裁判所、総督に口を出すこともなかった。ソウェイル王の即位式には短い時間出席したが、その後は正月ノウルーズも顔を見せなくなり、妻以外の十神剣やソウェイルとの交流を完全に断つ。

「ユングヴィ」

 ユングヴィは「ないです」と答えた。

 彼女もまた夫とともに表舞台から姿を消す。唯一息子の晴れ舞台を見たかったのか即位式には出席したが、式次第が済むとすぐに帰宅して誰とも会話をしなかった。その後は赤軍の管理運営から手を引き、専業主婦として暮らし始める。やはり正月ノウルーズも宮殿に現れなくなり、時折市場や広場などで目撃されるだけで発言は記録に残っていない。

「エルナーズ」

 エルナーズは「ございません」と答えた。

 彼はその後タウリスに戻った。そしてエスファーナに出てこなくなった。正月ノウルーズどころかソウェイル王の即位式にも出席せず一時騒然となった。だが、彼をタウリスから引きずり出そうとする者はなかった。親しかったユングヴィやラームテインとの交流も一切なくなっていた。彼が正式な記録に再登場するのは次のタウリスの動乱の時である。

「ラームテイン」

 ラームテインも「ございません」と答えた。

 彼はこの時を最後に紫軍の寮から消え、消息を絶つ。時々王立図書館で姿が目撃されたようだが、記録にはない。

「アフサリー」

 アフサリーは「ありません」と答えた。

 彼だけはその後も律義に一人で正月ノウルーズの行事に参加していたが、終始一貫して中央の政治に携わることはなかった。他の十神剣にも積極的に関わろうとはしなかった。

 十神剣は離散した。つなぎ止める白将軍はいなかった。

「どうかね、フォルザーニー議長」

 名を呼ばれたフォルザーニー卿が、ひらひらと手を振って「この状況ではね」と答えた。

「もう我々にはソウェイル殿下しか残されていないのだ」

 彼はソウェイル王の即位を機に議長の座を辞してエスファーナ郊外の別邸で隠遁生活を始める。フォルザーニー家の家督は平和的に彼の長男に譲られた。そして二十年後、妻たちや子、孫たちに囲まれながら、老衰で安らかに息を引き取る。

 彼の長男は父の強大な権力と莫大な資産を引き継いだ。しばらくの間は一般の議員兼実業家として活動するが、やがて華々しく出世して父と同じ地位に就くことになる。

「そう、仕方があるまい。ソウェイル、君はこの世で唯一のアルヤ王国の王族だ。もはや逃げることはできない。王として立ちたまえ。私が全力で支援する」

 イブラヒムが笑う。

 彼はこののち誰の干渉を受けることもなく圧倒的な力でアルヤ王国の支配体制を確立する。この時期は歴史書にはイブラヒム総督の絶対王政と記された。

 ソウェイルが、顔を上げた。

「ソウェイル」

 その目に光はない。

「君の手腕には感服する」

 「見事だ」と、イブラヒムは言った。

「君は自分の手を一切汚さずに双子の弟を殺すことに成功したのだ」

 ソウェイルが呟いた。

「殺した?」

 その声は弱々しく、

「そうか」

 誰も、何も、口を挟めなかった。

「俺がフェイフューを殺したのか……」


 アルヤ王国は三年間の暗黒期に突入した。

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