第23話 最後の命令
暗い。光るものは壁に取り付けられた松明しかない。炎が揺らぐたび世界は闇に閉ざされそうになる。
いっそのこと消えてしまった方がいいのかもしれない、とフェイフューは思った。そうすれば何もかも見えなくなる。不都合な現実を見なくても済む。自分は楽になるだろう。
ひび割れた地下牢の壁を眺める。
どこからかやって来たねずみが、床に横たわっているフェイフューの足元から頭の方へ駆け抜けていく。鳴き声どころか足音も立てない。
最初のうちは不潔で薄気味悪いと思っていた。だが、今は、ねずみだけがフェイフューの傍にいてくれる動物なのだと思うようになっていた。光を避けて逃げていかずにここにいてほしい。しかしフェイフューには引き留めるすべがない。
どれくらいこうして過ごしているのだろう。
左手から、小さな音がする。虫がざわめく音だ。左手の傷に
手首から下は皮膚が完全に焼けて消え去り桃色の肉を晒している。蛆はそちらにもいるにはいたが肉が厚いのか骨はまだ見えなかった。
黄色い体液が染み出して床を濡らしている。
動物の腐った臭いがする。
手の傷だけではなかった。
地下牢には
ただ、寒い。
どうやら発熱しているようだった。傷が膿んでいるせいだろうか。最後に風邪をひいたのがいつだったか分からないほど頑丈だったフェイフューに高熱はこたえた。動く気力どころか、話す気力も食べる気力もなくしてしまった。
フェイフューが手を付けなかった結果乾燥したパンに、先ほどのねずみがかじりついているようだ。かさ、かさ、と小さな音が聞こえてきた。
もうどれくらいこうしているのだろう。
いつからここにいるのか、はっきりとは分からない。気がついたらここにいた。
見張りの兵士が――白軍兵士ではなく蒼軍の下級兵士が立っている。
目が覚めてすぐ、その時の担当だった兵士になぜこのような仕打ちを受けねばならないのか問うた。
兵士は、フェイフューにソウェイル王子毒殺の嫌疑がかかっていることを教えてくれた。
お付きの白軍兵士が、ソウェイルの様子がおかしいことに気づいて、夕方に起こしに来たらしい。ソウェイルは、目が覚めてまず、フェイフューに薬物を飲まされたことを訴えた。本人が起きて自らそう主張したのだ。
普段からひとに嘘などは言わないソウェイルが言っているのだからきっとそうなのだろう、と思った人々が、フェイフューの立件に動いた。
ちなみに当人は後遺症などはまったくなく活発に動き回っているとのことだ。当たり前だ、医療行為に使われる眠り薬である。放っておいてもそのうち起きられるようになるはずだったのだ。
ソウェイルが自分からフェイフューを訴えた。
それはフェイフューにとって拒絶に他ならなかった。ソウェイルを危険から遠ざけるためにしたことだったというのに、彼ははっきりと否と言ったのだ。
『蒼き太陽』に薬物を盛った――大罪だった。神に背く、アルヤ王国でもっとも邪悪とされている行為に手を染めた、ということだ。そうでなくとも王族殺しは御家取り潰しの上死罪だ。
そういう罪を、ソウェイルはフェイフューに問うている。
イブラヒムは、十神剣を斬ってもいいとは言ったが、王子を斬ってもいいとは言っていない――見張りの兵士がそう語った。
同じ王族を害するのでも、ユングヴィの行為は正当なものとみなされたようだ。『蒼き太陽』を殺していたかもしれない危険人物に対して取った行為である。裁判所も議会も満場一致で正しいと判断した。誰もユングヴィを罪に問わず、むしろ捕縛したことを称賛したというのである。
これから裁判にかけられるようだが、まだ誰も呼びに来ない。
裁判の日までもつ気がしなかった。
このまま治療されず放っておかれれば近々死ぬだろう。
それでいい、と思った。
もう何もかも疲れた。
遠くから話し声が聞こえてきた。新しい囚人が入ってくるのだろうか。隣の牢にいた男は昨日寒さに凍えて死んだ。ここにいる囚人はだいたい獄死するらしい。フェイフューは蒼宮殿の中にこういう施設があることすら知らなかった。
続いて、小走りで階段を下りてくる音が聞こえてくる。誰かが近づいてくる――しかし通路側に背を向けて壁を見ているフェイフューは声を掛けられるまで誰が近づいてきたのか分からなかった。
「殿下」
懐かしい声だった。
フェイフューは、最後の気力を振り絞って体を動かし、顔を外に向けた。
「遅くなってしまいたいへん申し訳ございませんでした」
ラームテインだった。
血の気が引いた。
彼は顔面に大きな白い木綿布を何枚も貼り付けていた。その木綿布の下からは青黒い痣が見えていた。唇も左端が切れて腫れている。
鉄格子に触れる左手には包帯が巻かれている。親指を除くすべての指に添え木を当てているようで通常の三倍くらいに膨らんでいた。
乱れた服の襟元からは、赤い痣がいくつか見えた。誰かが何度も噛みついたように見えた。それが何を意味しているのか、フェイフューは知っていた。
上半身を起こした。
ユングヴィが、ぼこぼこになった、と言っていたのを思い出した。ユングヴィか赤軍兵士が彼を拷問にかけたのだ。
「ひどい……! どうしてこんなことを」
ラームテインの方は落ち着いていた。傷のない、美しい顔の右半分で、穏やかに微笑んでいた。
「それは、こちらこそ、ですよ。殿下の方が、たいへん深く傷ついておいでです」
苦笑する。
「すぐ行動を起こせればよかったのですが、僕の方も、なかなか、身動きが取れなくて。ここに来るまで、いろいろと。まあ、殿下にお聞かせするほどのことではない、取るに足らないことなので、ご心配なさることはありません」
「構いませんよ、どうせ僕は近々死にます」
ラームテインが目を見開く。
「今一人ですか。誰か一緒なのですか」
「僕一人です。見張りの兵士もいません」
「見張りの兵士がいない、とは? 交代か何かの時間ですか」
「いいえ、少し離れてもらいました。二人きりの時間が欲しくて」
「どういうことです?」
「僕が言うことを聞くなら、次の交代までの時間、二人きりにしてくれる、と言ったので。彼の指示に従って、対価として時間を得ました」
フェイフューも右手で鉄格子をつかんだ。
「まさかからだを売ったわけではありませんよね」
「取るに足らないことですよ。殿下がお気になさることはありません」
「そんなことをしたのですか!? それもそのぼろぼろのからだで!」
「どんな手段を使ってもいいから貴方様にお会いしたかったんです」
彼は微笑んだ。
「ずっと、お傍におります」
「ラーム」
そして、隠していた、背中の後ろにつけていた右手を、差し出した。
右手に、短剣が握られていた。
鉄格子の間に短剣を差し入れ、そして、フェイフューの体のすぐ傍に置いた。
「お使いください」
彼は静かに続けた。
「殿下は、誇り高く、道徳心が強くて、真面目なお方だから、この状況に納得なさらないだろう、と。『蒼き太陽』に弓を引いた悪逆の人物として刑死することを辱めだと思われるだろう、と。そう思ったのです」
金属の短剣が、牢の中にある。
「お供いたします」
彼は、優しく、微笑んでいる。
「どこまでも。地獄でも何でも。僕は、ずっと、殿下とともに」
泣きそうになった。
独りではなかったのだ。彼はずっとフェイフューのことを考えてくれていたのだ。勝手に世界で独りぼっちになったと思っていたことを深く恥じた。心から彼に申し訳ないと思った。
こんなにも、大事に思ってくれている。
彼より自分を理解してくれる人間はいなかっただろう。ユングヴィにもソウェイルにも拒絶された自分を受け入れてくれるこの世で唯一の人物だったのだろう。
だからこそ――フェイフューは言った。
「あなたは生きてください」
ラームテインが硬直した。
「あなたは、生きて。僕がいたことを、後世に伝えてください」
フェイフューははっきりと訴えた。
「忘れられるのが恐ろしいのです。僕は孤独が何よりも怖いのです、皆が僕のことを忘れ去ってしまうのがたまらなくつらいのです」
「殿下」
「だから、ラーム。あなたが、僕が存在していたことを語り続けてください」
夜色の瞳から、透明な雫がひとつ、
「これが最後の命令です」
世界で一番の友であり臣下の者であったと、固く信じられる。
「元気でいてください。毎日三食食事をとって、定期的に入浴して、軽くでもいいから運動を。それから、好きな書物をたくさん読んで、好みの詩をたくさん作ってください。あと、いつまでも綺麗でいてください。美しく誇り高い自分を維持してください。もう二度とそのからだを軽々しく扱ってはなりません」
ふたつ、みっつと、滴り落ちた。
「あなたが生きている限り僕はあなたの心の中に生きているのだと思いなさい」
ラームテインは、しばらくフェイフューの顔を眺めていた。
ややして、「はい」と頷いた。
「かしこまりました。僕は殿下のおっしゃるとおりにします」
「よかったです」
彼はまた、笑みを作った。
「今までありがとうございました。貴方様に救われた命を大事にして生きます」
階段の上から足音と話し声が聞こえてきた。ラームテインもフェイフューも顔を上げ、一度そちらを見た。
「行ってください、早く」
「承知いたしました。では、これにて」
ラームテインが通路の奥に消えた。
だがフェイフューはもう寂しくなかった。
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