第22話 もう、頑張れなかった

 フェイフューは一歩下がった。

 ユングヴィは一歩前に出た。


 黒い瞳で見据えられている。フェイフューの一挙手一投足を監視している。今にも跳びかからんとしている獣のようだ。

 逃げようにも通りの向こうに男たちが並んでいる。彼らはフェイフューの味方ではない。


 後ろを見ようとして、右側に小さな路地があることに気づいた。暗く狭い路地だった。フェイフューが一人通れるほどしかない。

 腰元、剣の柄に手をやった。

 一人ずつなら、相手をしても勝てるかもしれない。

 あるいは、あの奥に井戸があれば、この焼けつく痛みから解放されるかもしれない。


 もう一歩後ろに下がった。そして右に向かって飛びつくように駆け出した。


 ユングヴィも男たちもすぐには追い掛けてこなかった。


 まっすぐ走り続ける。

 その先に光があると信じる。

 自分はこんなところで終わる人間ではないのだ。この自分がこんな扱いを受けていいはずがない。


 もしかしたらそこに誰かがいて助けてくれるかもしれない。

 途中までは、そう思っていた。


 フェイフューは、途中で、立ち止まった。

 愕然とした。

 何もない行き止まりに行き当たった。袋小路に入ってしまったのだ。


 目の前にそびえたつのは集合住宅の壁だった。塀ではなく、建物の側面だ。高いところに窓があるが、そこまで登るための手段もなかったし、中にいるのが自分を敵視するチュルカ人だったらもっと酷い目に遭わされるかもしれなかった。


 どこにも行けない。


 振り返った。

 ユングヴィはゆっくりとした足取りで後ろをついてきていた。彼女はまったく急いでいなかった。余裕の笑みさえ浮かべていた。

 フェイフューは行き止まりで硬直している――すでに追い詰められている。


 逃げる場所などない。

 この場を切り抜けるには、ユングヴィを倒すしかない。


 剣の柄を握り締める。引く。鞘から抜く。

 戦うしかない。

 相手はしょせん女だ。しかも何年も主婦をやって鈍っている上に子が流れたばかりで弱っているはずだ。


 叫びながら突進した。


 瞬間、ユングヴィは背負っていた鞘から剣を抜いた。周囲に紅い燐光が飛び散り、紅蓮の刃が姿を見せた。


 刃と刃がかち合う。金属音が鳴り響く。

 押し付けるように力を込める。腕力なら勝てるはずだった。


 次の時腹に重い衝撃が走った。

 下を向いて、腹を見てから、何をされたのか理解した。

 ユングヴィは剣を構えたまま右足を持ち上げてフェイフューの腹に蹴りを入れていた。


 苦しい。


 下を向いた瞬間を、ユングヴィは逃さなかった。

 フェイフューの剣を薙ぎ払った。


 フェイフューは反応が遅れた。

 ユングヴィは神剣を左手だけで握っていた。

 空いている右手を伸ばしてきた。

 フェイフューの服の襟をつかんだ。

 引きずられる。


 足を踏み締めて耐えようとした。

 耐えられた、つもりだった。

 ユングヴィの真の目的はフェイフューを完全に引き寄せることではなかった。

 フェイフューの顔がユングヴィに近づいた段階で襟から手を離した。

 そして掌底を顔面に打ち込んだ。

 上顎が揺れた。

 何かが折れる強烈な音、それから激痛が走った。

 口の中の不快感を吐き出したくて口を開いた。白い歯が地面に転がった。


 間もなくフェイフューの左肘をつかんだ。

 関節だ。関節を押さえられてしまった。

 ふところに潜り込んでくる。

 フェイフューの左腕をあえて自分の肩に乗せる。

 折れるかと思った。

 脇の下から担ぎ上げられた。

 そのまま投げ飛ばされた。宙で半回転してから、地面に叩きつけられた。

 目が回る。

 先ほど油で焼けた腕を地面にこすりつけてしまって痛い。


 ユングヴィの動きは速かった。

 フェイフューが起き上がる前に、フェイフューの脇腹に思い切り蹴りを入れた。体に足がめり込んだと思うほど強い衝撃を感じた。堪えきれずうめき声を上げた。

 すぐ二発目が入った。

 苦しい。

 えずいたが胃の中が空なので何も出てこない。


「これで終わり?」


 上から腰を踏みつけつつ、ユングヴィが言う。


「あっけないね。私が教えてあげたこと全部忘れちゃったのかな」


 あの頃のユングヴィは手加減をしていたのだ。彼女はその気になればいつでもフェイフューを組み敷くことができたのだ。


 彼女は弱くなってなどいないのかもしれない。むしろ遠慮がなくなった分一線を越えて力を発揮しているのかもしれない。


 勝てない――そう思った瞬間恐怖が全身を支配した。

 殺される。


 彼女の足が、腰から退いた。

 一瞬、解放されるのかと思った。

 違った。

 左手にすさまじい痛みを感じた。

 フェイフューは叫び声を上げた。


 自分の左手を見た。

 短刀が突き刺さっていた。刃が、手の甲を突き抜け、手の平から出て、地面に手を縫い留めるように、下の土にめり込んでいた。

 ユングヴィが、右手で短刀の柄を握り締めたまま、フェイフューの頭のすぐ傍にしゃがみ込んでいる。


「痛いよね」


 投げ掛ける声は冷たい。


「でもね、私の赤ちゃんは痛いと思うことすらなく死んじゃったんだよ。泣くこともできなかったんだよ」


 彼女が柄を握った状態で右手を揺り動かすと、傷口が広がって激痛が走った。傷をえぐられる。フェイフューはあまりの痛みにただ声を振り絞って叫ぶことしかできなかった。


「女の子だった。私の可愛い赤ちゃん」


 逃げられない。動けない。短刀はフェイフューの左手を貫通して地面に刺さっている。

 痛い。


「静かにしなよ。そんな声を上げても誰も来てくれないよ」


 彼女は淡々と言う。


「ラームはぼこぼこになって一人で歩くこともできないし、エルはびびってソウェイルに寝返るって言ったし、カノちゃんももうサヴァシュが捕獲しただろうし。それにね――」


 目を、見開く。


「ナーヒドは死んじゃったよ」


 唇が、震えた。


「殺したのですか」


 彼女はあっさり答えた。


「うん」


 おぞましい。


「十神剣を殺したのですか!? 仲間内で!? 何を考えているのですか!?」

「何言ってんの」


 背筋が凍りつく。


「最初にテイムルを殺したのはそっちじゃん。やられたからにはやり返すよ」


 吐き気がする。


「あなたたちには倫理道徳というものはないのですか」

「あのさ」


 短刀の柄を左手に持ち替えて、右手でフェイフューの髪をつかむ。上へ引っ張り上げる。引きつれた頭の皮膚が痛い。


 目と目が合う。


「みんながみんなあんたの理想どおりに生きてるわけじゃないからね。どんなにお綺麗な理屈を並べたって最後に決めるのは人間の感情だからね」


 その黒い瞳に、フェイフューは、怒りを見た。

 やられたからにはやり返す――自分は今までの報いを受けているということか。

 自分はそんなに酷いことをしただろうか。

 分からなかった。


 泣きたかった。


 分からないことが恐ろしかった。自分の世界に理解できないものに存在してほしくなかった。怖い。

 正解が見えない。

 どうしたら正解に至れるのか分からないのが心の底から恐ろしい。


 正義を信じて生きてきたはずだった。自分は正しい行ないをしていると思っていた。

 今も自分は彼女の大事な息子であるソウェイルのために生きているはずなのだ。

 何が間違っているのかが分からない。

 怖い。


 しかもこんなに痛くて苦しいのに誰も助けに来てくれない。


「……でも」


 声が上ずる。


「どうして、ここまで。こんなことをしても――仮に僕を殺したとしても、あなたの赤ん坊は帰ってこないですよ……」

「そんなこと分かってるよ」


 彼女は即答した。


「どんなに無駄なことでも、やったらすっきりするだろうな、って思ったら、やらずにいられないんだよ」


 道理など通じない。合理性などない。

 それが人間の感情なのだ。


 髪をつかんでゆすぶる。


「もっと叫びなよ。喚きなよ。泣きなよ。みっともなくもがき苦しみなよ」


 怖い――怖い。


「もう殺してください」


 左手が短刀の柄を回す。ふたたび強烈な激痛が走る。


「死なせてなんてあげない。苦しんでよ。私はあんたが泣き叫ぶところをもっと見たいんだよ。一生後悔してよ」


 一刻も早く死にたい。


 分かり合えない。


 左手からの出血が激しい。降り続く雨に血が流れていく。

 体が冷たい。どんどん冷えていく。身も心も寒い。

 雨がやまない。


「僕はどうしたらよかったのですか」


 誰かに教えてほしかった。

 正解が欲しかった。

 唯一無二の答えを提示してほしかった。


 その問い掛けに対するユングヴィからの回答は得られなかった。もしかしたら何か答えたのかもしれないが、フェイフューには聞こえなかった。失血による目眩と傷をえぐられる激痛と雨に降られた寒さで意識を保っていられなかったからだ。

 耐え切れなかった。

 フェイフューは、目を閉じた。


 もう、頑張れなかった。






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