第21話 完璧な道のりの反動

 実はこの時フェイフューにも自分がどこにいるのか分からなかった。

 赤軍の兵士から逃げているうちに街へ下りてしまったのだ。

 方向感覚が確かなら、通い慣れた大学や王立図書館がある西側ではなく、東側にいる。フェイフューには土地勘がなかった。


 古い住宅街だった。中でも薄暗い路地だ。周りを背の高い集合住宅に囲まれている。庶民の家、ともすれば貧しい人々が暮らしていると思われる、狭い部屋を縦に五つ積み重ねた住宅だ。階が上がるにつれて通りにせり出していて圧迫感がある。


 雨のせいか人通りがない。


 どうやらいつの間にか撒けたらしい。追い掛けてくる足音が聞こえなくなった。


 立ち止まり、振り向いた。


 誰もいなかった。


 息が上がっている。


 降り続く雨が邪魔だ。急激に湿度が上がって服が体に張りついている。汗もかいているだろう。しかも立ち止まると同時に急激に冷えて寒い。


 喉が渇いた。


 右の手の甲で濡れた前髪を払う。


 どこかで休もう、と思った。

 危険であることは承知の上だった。雰囲気の悪い下町である、赤軍の連中からしたら自分の縄張りだろう。いつ見つかって何をされるか分からない。

 だが――足が棒のようだ。これ以上速度を落として移動し続けるのも危険だ。


 細く深く息を吐いて呼吸を整える。


 さて、これからどうするか。


 赤軍の兵士たちとまともに対峙するつもりはなかった。

 相手は話の通じる連中ではない。

 これだから下品で野蛮な人間は嫌だ。

 彼らからは知性を感じない。つまり会話は成立しないのだ。力ずくで黙らせるしかない。


 しかしこちらは一人だ。いくら腕に覚えがあるといっても二桁の人数で囲まれて叩かれたら勝つ自信はなかった。

 密かに蒼宮殿に帰って仲間たちと合流しなければならない。


 まずはここがエスファーナのどこなのか確認したい。それから水と食料を手に入れて少し休みたい。できれば雨が止むのを待ちたい。アルヤ高原では雨は長くは続かない。月に数日だけわずかな時間降る程度だ。雲はそのうち消えるだろう。


 両脇には集合住宅が並んでいる。

 通りにはひとけがなくても、建物の中には人がいるはずだ。

 どこかを訪ねて、地元住民に家の中へ入れてもらって食事を分けてもらった方がいい。

 どこにしよう。


 ふと、頭上から窓を開閉する音が聞こえてきた。

 顔を上げると、三階の窓、木の板を縦に開けて人が建物の中からフェイフューを見下ろしていた。

 目が合った。

 その部屋に住んでいる主婦とおぼしき中年の女性だった。見るからにチュルカ人だ。とても馬に乗れるとは思えないほど太っているが、長い黒髪を一本に編み込んで胸の前に垂らしており、独特の染の入った服を着ている。

 人がいた。


「あの――」


 助かる。

 そう思ったのに――女性はすぐ窓を閉めた。

 フェイフューは呆然とした。


 また別のところから窓の開閉音が聞こえてきた。反対側だ。

 振り向くと、向かいの二階の窓が開いていた。

 また、チュルカ人女性だった。年の頃は中年だが、こちらはみすぼらしいほど痩せている。やはり長い黒髪をひとつの三つ編みにして垂らしており、刺繍の入った丈の短い胴着ベストを着ていた。


「すみません」


 話し掛けると彼女も急いで窓を閉めた。


 どうしてこういう反応になるのか分からなかった。

 拒絶されているとしか思えなかった。


 何も持たぬひとりの若者が雨の降りしきる中通りの真ん中に突っ立っているというのに、いずれも、中に入っていいとは言わない。


 言い知れぬ気持ち悪さが込み上げてくる。


 人の気配は確かに感じる。

 誰も出てこない。

 ひょっとして、ここらの住人は、皆どこかから息をひそめてフェイフューを見つめているのか。

 ぞっとした。おかしな魔窟に迷い込んでしまった気分になってきた。


「誰か――」


 声を上げる。


「すみません。誰かいませんか」


 静かだった。誰も返事をしなかった。フェイフューの姿を目撃している人間がいるというのに、だ。


 少し間を置いてから、また、今度は少し後方から木の板を開閉する音が聞こえてきた。

 振り向くと、今度は二十代半ばほどと思われるチュルカ人女性が顔を見せていた。耳から大きな銀細工をぶら下げている女性だ。

 彼女は大声で叫んだ。


「いたよ! フェイフュー王子だ!」


 同じ窓から彼女の夫であろうか強面こわもてのチュルカ人男性が顔を出した。


「本人だ! 誰か通報しろ!」


 まるで罪人になった気分だ。どうしてこういう扱いを受けるのか分からなかった。


「どうしてそんなことを!?」


 叫んで問い掛けると、また別の窓が開いた。白髪交じりの年配のチュルカ人女性が身を乗り出す。


「よく言ってくれるよ、自分が今まで何を言ってきたのか忘れたのかい!?」

「僕がいったい何を――」

「ちょっとは痛い目見な!」


 彼女がそこまで叫ぶと、彼女の後ろから息子だろうか若いチュルカ人男性が顔を出した。


「ざまあみやがれってんだ」

「なに――何ですか。なぜそのような言い方を?」


 窓が次々と開く。顔を出すのはいずれもチュルカ人の髪形をして金銀の細工の装飾品をつけた人間だった。自分は定住チュルカ人の集落に迷い込んだのだ。

 こんなに大勢の人がいるのに、全員が敵愾心を向けてくる。


「すみません、僕は今困っているのです」


 冷たい目で、睨むように見つめている。


「どなたか中に入れてください。できれば食事を――」


 先ほどの年配の女性が「図々しい!」と叫んだ。そして奥に引っ込んでいった。


 今度は頭の真上辺りで窓が開く音がした。

 顔を上げた。

 フェイフューと同じくらいの年だと思われるチュルカ人の少女が桶を抱えていた。


 身の危険を感じた。本能的に両腕を掲げて顔面を守ろうとした。


 彼女が桶をひっくり返した。

 何か、液体が撒かれた。

 腕にその液体が降り注いだ。


 フェイフューは叫んだ。


「熱い!!」


 腕が焼ける。

 肉が揚がる臭いがする。

 油だ。彼女は熱した油を蒔いたのだ。

 強烈な痛みだった。

 しかも水と違っていくら腕を振ってもまったく振り払えない。


「熱い、熱い」


 違う窓が開いた。

 やはり若いチュルカ人の女性が、桶を構えていた。

 桶から湯気が上がっている。


 逃げるしかない。


 フェイフューは走り出した。無我夢中で通りを駆けていった。

 どうしてこんな扱いを受けるのか分からなかった。むごい扱いを受けていると、虐待されていると思った。

 自分はこんな仕打ちを受けていい人間ではないはずだ。


 とにかく腕を洗い流したかった。冷やして火傷の状態を見なければならない。


 井戸を探すのだ。こんな建物では各家庭に水道などないだろう。絶対に町のどこかに井戸があるはずだ。


 角に辿り着くたび路地を覗き込んだ。だがどこも細くて狭く、中には袋小路になっている道もあり、中に入ることに危険を感じた。


 どこに入れば水にありつけるのだろう。


 前方から声が聞こえてくる。


「いたぞ!」


 数人の男が通りをふさいでいた。

 彼らは丈の長い胴着ベストを着て頭にターバンを巻いていた。アルヤ人だ。

 助かる――そう思った。


「ユングヴィ将軍に連絡しろ!」


 殺される。


 踵を返してもと来た道を戻ろうとした。

 フェイフューは、立ち止まった。

 いつの間にか、フェイフューの数歩後ろ、通りの真ん中に、人が立っていた。

 心臓が跳ね上がるのを感じた。


「やっと会えたね」


 そう言って、彼女――ユングヴィは笑った。


「続きをしようか」






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