第20話 本当のお母さん

 雨が降っている。


 カノは吹きさらしの店先に立ってひとり凍えていた。


 アルヤ高原の秋は終わりだ。明日の朝にはきっと霜が降りるだろう。遠い山々には雪が降っているはずだ。

 高原では夏と冬の寒暖差も大きい。太陽が低くなり昼が短くなると上着がなければ外を歩けなくなる。

 ましてカノは女学校に入るまで南部州に住んでいた。エスファーナより暖かい地方だ。山がちなタウリスで生まれ育ったエルナーズは昨日も薄着だったが、カノは耐え切れず分厚い毛織物の外套を着て首に襟巻を巻いていた。


 雨が降り出してから通りを行く人の数が減った。今現在店の前に立っているのはカノ一人だけだった。しかも時刻は昼過ぎ、ほとんどの店舗は昼休憩に入ってしまっている。

 カノの背後の甘味処も先ほど閉まった。店主は心配して中に入るか訊ねてきてくれたが、カノは断って店先に立つことを選んだ。待ち合わせをしているのに先に入店するのが申し訳なく感じたからだ。


 しかし、まだ来ない。


「遅いなあ、ベルカナ……」


 柱にもたれて、両手を口元に持ってきて息を吹きかける。吐く息が白い。


 早く会ってすべてを話したかった。ようやくフェイフューが今日を解禁日にしてくれたのだ。


 一人で説明するのに不安もあったが、フェイフューは忙しいので仕方がない。それに話した後の不安より話す前である今の不安の方が勝った。

 ベルカナに隠し事をするのが嫌だ。彼女は明らかに挙動不審のカノを疑っている。早く何もかも打ち明けて秘密をなくしたかった。


 ベルカナはどんな反応をするだろう。勝手に男と会って話を進めたカノを叱るだろうか。それとも喜んでくれるだろうか。人並みに十七で嫁に行けることを祝ってくれないだろうか。しかも王妃だ。女の身で最高の身分を与えられる。普通の家庭ならこんなにめでたいことはないのだ。


 遠い昔、まだ何も知らなかった頃、無邪気にフェイフューと結婚したいなどと語ったのを思い出した。あの時ベルカナは笑っていた。


 ――そうね、そうよね、女の子だものね。お姫様の気分、味わってみたいわよねえ。


 お姫様ではない。お妃様だ。

 きっとびっくりするだろう。

 あの時の夢を叶えるのだ。


「まだかなあ……」


 顔を上げた。

 その時だった。

 一瞬のことだった。

 耳元で音がするまで、何が起こったのか分からなかった。


 何かが視界の端をかすめた。何かがものすごい速さで飛んできたのは一応分かった。


 首をひねって、横を向いた。

 カノの顔のすぐ傍、店の柱に、一本の矢が突き刺さっていた。

 ぞっとした。少しずれていたら顔面に当たっていた。


 どこから飛んできたのだろう。なぜ飛んできたのだろう。どこかで乱闘騒ぎでも起こっているのだろうか。こんな街中で狩りなどありえなかった。


 怖い。巻き込まれたくない。

 ベルカナには申し訳ないが、どこかへ逃げよう。

 怖い。


 ただ、風を切る矢羽の音だけが、聞こえてきた。


 カノは両目を見開いた。


 二本目が、カノの顔のすぐ傍、先ほどの矢の少し下に刺さった。


 通りは静かだった。カノ以外の人間はいない。

 ひょっとして、自分が狙われているのだろうか。

 血の気が引いた。

 どこかへ逃げなければならない。


 矢が刺さっているのとは反対の方を向こうとした。

 店のすぐ傍にある十字路の、まっすぐ進んだ奥の方が見えた。


 黒い馬が、そしてその上にまたがる黒服の男の姿が、小さく、遠くに、見えた。

 こちらに向かってくる。次第に蹄の音が大きくなってくる。


 カノは硬直した。


 サヴァシュだ。顔の左半分を白い布で覆っていたが間違いない。


 近づいてくる。


 馬に乗ったまま弓を構え矢をつがえている。今のこの距離よりもっと遠くから射てカノのすぐ傍にあてるというのは騎馬民族のチュルカ人ならではの芸当だ。


 三本目が放たれた。

 カノの頭の頂点ぎりぎりをかすめて柱に突き刺さった。


 股の間を生温かい液体が伝っていくのを感じた。だが恥ずかしいとも気持ちが悪いとも思わなかった。何も考えられなかった。どうしてこんな目に遭っているのかまったく分からなかったのだ。


 死、という言葉が脳内を巡った。

 こわい。


 通りを渡ったすぐそこまで迫ってきている。


「動くな」


 動けない。

 四本目の矢をつがえている。

 頭の中が真っ白になった。

 四本目が放たれた。

 あたる。


 その直前だ。


 別の人影が横から飛び出てきた。カノを抱き締め、押し倒すように横へ体重をかけてきた。


 瞬きすらできないわずかな時間のことだった。

 カノは背中が地面に叩きつけられるのを感じた。


「動くなっつっただろ!!」


 サヴァシュの怒鳴り声がすぐ近くで聞こえた。


「カノ」


 震える手で、頬を撫でられた。

 ベルカナだった。

 ベルカナが、カノを覆い隠すように、のしかかってきている。


「怪我はないわね」


 優しい声で、哀しい顔で、問い掛けてきている。


「答えなさい! どこか痛いところは!?」


 体を震わせながら、カノは「ない」と答えた。


「そ。よかったわ」


 そう、囁くように言ってから、彼女は一度、目を閉じた。

 力が、抜けていく。ベルカナの体が、崩れていく。


 カノは上半身を起こした。

 ベルカナはその隣に倒れた。


 目を大きく見開いた。


 ベルカナの背中に、矢が、生えていた。


 横から黒い服をまとった腕が伸びてきた。サヴァシュだ。いつの間にかすぐ傍に来て馬から降りて地面に膝をついていた。


 彼は両手で矢柄やがらをつかんだ。折ろうとしているのか力を込めるが矢柄はわずかにしなって曲がるだけでどうにもならなかった。よく見るとサヴァシュは左手にも包帯を巻いていてその白い生地に赤い血が滲んでいる。左手に力が入らないのだろう。


「くそっ」


 こんなに焦って慌てているサヴァシュなど初めて見た。非常事態なのだ。

 しかしカノには何もできなかった。地面に尻をつけたまま呆然としていた。


「……痛いわね……」


 サヴァシュが矢に触れているのが痛むらしく、ベルカナが顔をしかめる。


 次の時彼女は咳き込んだ。

 その息から血の匂いがした。

 唇の端に赤い雫が垂れる。


「おいお前何余計なことしてんだよ、お前が動かなかったら当たらなかったんだよ」


 サヴァシュが早口でそう言うと、ベルカナは苦痛に顔を歪めながら答えた。


「あんたなら分かるでしょ……子供に手を出されるのがどれだけ嫌か。それだけは、それだけは……ほんとに、黙って見てられないのよ……」

「畜生」


 腰の革帯にさげていた小袋から小刀を取り出した。矢柄に突き立て、引いた。ベルカナが「もうやめて」と言うのと同時にようやく矢柄が親指の先ほどの長さを残して二つに折れた。


「もういいから。そんなに焦らなくていいから……」


 ふたたび咳き込む。地面に赤い雫が飛び散る。


「お願いサヴァシュ」


 手を、サヴァシュの方に、伸ばす。


「あたしの代わりにカノを守って……お願い。あたしはもうだめだから……」

「ふざけんな!」


 怒鳴りながらも、サヴァシュはベルカナの手をつかんだ。そして抱え起こした。


「諦めてんじゃねーぞ。死ぬって思ったら死ぬぞ」

「ねえお願い。あたしが、死んだら、カノを……」

「生きてテメエがテメエで世話しろよ!」


 ベルカナの顔が、色を失っていく。


「ベルカナ」


 カノは地面に手をついて、這いずるようにしてベルカナに近づいた。


「死んじゃうの」


 彼女はいとも簡単に「きっとね」と答えた。

 そして笑った。


「ごめんね、カノちゃん」

「何が」

「あたしね、約束したの。もっと早く、カノちゃんに、教えてあげればよかった」

「約束? 何の?」

「ソウェイル殿下と……」


 声が、小さく、なっていく。


「ソウェイル殿下が……殿下が王になったら、もう、我慢しなくていいって……カノちゃんと普通の親子として暮らしなさいって……」

「普通の親子……? なに、どういうこと……?」

「ソウェイル殿下が……」


 サヴァシュから手を離した。

 そして、カノの方に伸ばした。

 カノの頬を撫でた。

 その手は冷たく、優しかった。


「あたしがカノちゃんを産んだことを説明していいって……」


 カノは、ようやく、ベルカナがソウェイルを選んだ本当の理由を知った。


「カノちゃんの母親でいていいって。カノちゃんの……お母さんに、戻れる……」


 知らず涙がこぼれた。


「でも、カノちゃんがフェイフュー殿下のこと大好きなの、知ってたから……。あたしが、カノちゃんの母親になりたいから、カノちゃんもソウェイル殿下にして、って。言えなかった……」

「なんで言ってくれなかったの!?」


 ベルカナの服の胸をつかむ。


「なんでもっと早く言ってくれなかったのよ! それならあたしもソウェイルにしたよ!」


 強く揺さぶる。

 ベルカナの頬を濡らすのが、雨なのか、カノの涙なのか、ベルカナ自身の涙なのか、もう、分からなかった。


「ベルカナが本当のお母さんだったの? ねえ、なんでずっと言わなかったの? なんで、なんで今、なんで?」

「おい、カノ、やめろ」

「ずっと一緒にいたのに! なのになんで教えてくれなかったの!? あたし、あたし――」


 ベルカナが、静かに微笑んだ。


「ずっと、お母さんのことが好きだったの」


 ベルカナの手が、地面に落ちた。


「あたしの可愛いカノちゃん……」


 雨が、降り続いていた。







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