第18話 雨が降り始めた

 閑静な武家屋敷街の周縁、比較的新しい邸宅が立ち並ぶ辺りを歩く。


「殿下」


 ラームテインが先導して歩く。フェイフューがユングヴィの家の正確な位置を憶えていなかったからだ。何年も前、新築当初に招待されて行ったことがあったが、その一度きりしかなかった。用事などなかったのだ。


「お気を付けください」


 その美しい顔に浮かぶ表情は険しい。


「何に、です?」

「すべてに、ですよ」


 彼は「順調すぎて」と言った。


「ここまでうまくいきすぎている気がして。あまりにも殿下のご計画どおりに話が進んでいるので、僕は不安を感じます」


 フェイフューは笑い飛ばした。


「心配性ですね。いいことではありませんか」

「いいえ、よくないんですよ」


 言いつつ、顔を背け、前を向く。


「時々何かがあって計算し直すはめになるくらいがちょうどいいんです。そういう何かがないということは、見逃している、ということです。僕らは都合の悪いことに気づいていないか無意識のうちに目を伏せているのでしょう」

「そうですか? 僕らがうまくやっているから結果がついてきているのではなく?」

「完璧に見えるものほど破綻した時の反動は大きいですよ」


 やがてある屋敷の門の前に辿り着いた。ラームテインが足を止め、三階建ての上階を見上げた。


「ここです」

「静かですね。子供がたくさんいるのでうるさいのではないかと思っていました」

「この辺りの家はどこもそうですが、建物自体も大きいし庭も広いので、多少騒いだくらいでは通りまで音漏れしないんです」


 外門を開けた。

 外門から玄関までの間に前庭があった。地はならされ、壁も白く、綺麗な家だった。

 人の姿が見当たらない。


 二人で玄関扉の方へ向かった。

 扉を叩く。

 反応がない。


「留守でしょうか」

「使用人も皆出払っている――ということがあるのでしょうか? 居留守なのでは」

「気にかかりますね。いかがいたしましょう」


 フェイフューは即答した。


「中に入ります」


 ラームテインは少しの間逡巡したようだった。フェイフューには彼が何をそんなに考え込んでいるのか分からなかった。


 ユングヴィに会って、彼女を屈服させることができれば、いろんなことが前に進む。

 王位に、王手だ。


「行ってらっしゃいませ」


 ラームテインが、立ち止まった。


「僕は外を見ています。何があるか、誰が来るか、分からないので。何かあったら呼んでください。あと、殿下も念のためここの扉を閉められませんよう」

「怖がりすぎですよ」

「用心しすぎることはないんです」


 フェイフューは何のこともなく扉を開けた。


「行ってきます」


 中はすぐ通路だった。左に折れ曲がっている。戸などはない。

 フェイフューは左へ進んだ。

 左右に戸があったが、正面奥には外の光が見えた。どうやら中庭に続いているようだ。


 普通、一般の貴族の住宅では、中庭の奥にある前面開放広間イーワーン、中庭側の壁がない部屋を居間にしている。フェイフューもそこに向かおうとした。


 通路が薄暗かったので、中庭に出るとやけに明るく感じた。

 しかしあくまで屋内がより暗かっただけだ。よく見ると空も暗い。


 いつの間にか曇っていた。

 冬が来たのだ。

 春が来るまでに何度か雨が降って砂漠に涸れ川ワディができる。今日もそういう日になりそうだった。


 中庭の真ん中に立った、その時だった。

 中庭の右側にある階段から、ひとりの人間が下りてきた。

 ユングヴィだ。

 彼女は黒い筒袴に黄緑色の胴着ベストを着ていた。男物の服だ。短い赤毛や素肌の顔も相まって男性のようだった。


「ようこそ」


 彼女はフェイフューの顔を見ると微笑んだ。

 狂気を感じる。

 少したじろいでしまったが、ここで負けてはいられない。


「あなたに会いに来ました」


 言うと、彼女は「すごいですね」と言った。


「いまさらどのツラ下げてそんなこと言えるのか私にはまったく理解できない」


 そして、虚空に向かって「お前ら、出番だよ」と大きな声を張り上げた。


おう


 中庭の木の後ろから、前面開放広間イーワーンの物陰から、中庭に面した戸の中から、左奥の階段の上や右奥のユングヴィの後ろから、人相の悪い男たちが湧いて出てきた。

 フェイフューは硬直した。

 いずれも赤い腕章をつけている――赤軍兵士だ。


「捕獲しな」


 冷たい、乱暴な声は、ならず者集団の女頭領のものだ。


「くれぐれも殺さないようにね。王族殺しは世間体がまずいからさ」

「難しいな」

「手足の一本や二本ならいいよ」

「了解!」


 男たちが一斉に剣を抜いた。

 フェイフューも腰の剣に手をやった。鞘から抜き去り、正面に構えた。

 視界の端にいるユングヴィの様子を窺いつつ、一歩ずつ下がる。


「どういうことですか? 何を企んでいるのです?」

「何か企んでるのはそっちでしょ」


 そっけなく「そりゃ来たら返り討ちにするよ」と答える。


「テイムルを斬ったように、私らのことも斬ろうとするんじゃないかと思って。ベルカナが、その場合、めちゃくちゃに強いサヴァシュや身軽ですぐに動けるベルカナじゃなくて、今弱ってるって思われてる私のところに来るんじゃないかな、って言うから。そしたら、案の定、これだよ」


 読まれていたのだ。


「ゆるさない」


 その目はもはや常軌を逸しているように見えた。


「うちに来たんだね。小さい子供がいるかもしれないっていうのに。私の子供たちを危ない目に遭わせようと思ってここまで来たんだね」

「そんなわけがないでしょう、アルヤ紳士が幼子おさなごを人質にとるような真似をすると思っているのですか」

「は? 何言ってんのかわかんない」


 もはや話し合う余地はない。


「やっちまいな」


 ユングヴィがそう言い放つと、男たちが奇声を上げて突っ込んできた。


 一人と剣を合わせた。フェイフューは力任せに押し退けたのち返す刃で男の手首を切り落とした。

 実戦で人間の肉を斬ったのは初めてだ。重い感触だった。

 感傷に浸っている場合ではない。次が迫ってくる。

 身を低くして剣を突き立てた。二人目の男の腹に刃が埋まった。肉の奥深くまで刺さってしまった。

 引き抜こうとした。

 さらに別の男がフェイフューに向かって剣を振り下ろす。

 柄を握り締めたまま、突き刺さっている男の体ごと剣を横に振った。剣の先に刺さっている男の体に別の剣が食い込んだ。

 剣が抜けた。


 しかし――ざっと数えただけで十人はいる。

 囲まれている。


 逃げよう、と思った。出直して、味方を増やして来るしかない。


 剣を振りながら後ろを向いた。斜め後ろに立っていた兵士の胸を切り裂いた。それで一瞬時間を稼ぐことができた。

 通路を駆け抜ける。

 玄関から出る。ラームテインの言うとおり扉を開けておいてよかった。


 しかし――


「殿下!」


 赤軍の兵士たちが二人そこに立っていて、ラームテインの肩をつかんでいた。

 血の気が引いた。

 彼にはこういう時に戦うための腕力や技術がない。


「ラーム」

「すみません、僕がついていくと言ったばかりに――」


 兵士の一人が「黙れ」と言いながらラームテインの腹に蹴りを入れる。ラームテインが小さくうめく。


 フェイフューは一度その場に立ち止まった。

 ラームテインが叫んだ。


「僕を捨ててお逃げください」


 後ろからは中庭にいた兵士たちが迫ってくる。


「ですが――」

「僕のことはいいんです! 足手まといになりたくありません」


 兵士の一人がラームテインの腕をつかんで引く。痛いのかラームテインが顔を引きつらせる。


「取捨選択してください」


 そう言われて――


「大義のために個人にかかずらってはいけません」


 フェイフューは決めた。


「すぐ助けに来ますから!」


 そう言い残して、前庭を駆け抜けた。


 通りには誰もいなかった。

 後ろでは足音と怒声――きっとついてくる。

 逃げなければならない。

 フェイフューは駆け出した。振り返らなかった。






 サヴァシュの顔の左半分が真っ赤に染まった。赤い血の雫は左の目尻から涙のように溢れて頬を伝い顎から地面へしたたり落ちていった。

 左の眉の上から左頬を通って左耳の手前辺りまで、斜め一直線に傷ができていた。左目は潰れたわけではないようだが、まぶたが切れて腫れているがためにうまく開かない。


 黒い神剣を地面に突き立てると、その場で膝を折った。荒い息を吐きつつ、力なくしゃがみ込んだ。


「まあ、なんだ」


 肩で呼吸をしながら、左手を伸ばす。その手の甲にも割れたような切り傷があり赤く濡れている。


「三十三年戦士として生きてきたが、こんなにあっちこっち怪我をしたのは生まれて初めてだ。間違いなくお前が俺の人生で最強の敵だった」


 左手で、そっと、撫でる。


「というか、もう、最強の座なんてお前にくれてやる」


 サヴァシュの目の前、足元に、左半身を下にして横に倒れているナーヒドの背中を、そっと、優しく、丁寧に、撫でる。


「俺はもう疲れた。そろそろ戦うのをやめたい。これを最後にさせてくれ」


 倒れたままのナーヒドが、小さく笑った。


「この期に及んで冗談はやめろ」


 そして、ゆっくり、目を閉じた。


「俺のアルヤ王国を守ってくれ」


 それが彼の最期の言葉になった。

 すべての生命活動が止まる。ただ、血液だけが滲み出て大地に広がっていく。

 何もかも、終わっていく。

 もう二度と話をする機会は失われた。食事をすることも酒を飲むこともない。永遠にない。何もない。


 サヴァシュの手が、ナーヒドの白い頬に触れる。


「勘弁してくれよ……」


 ずっと周りで黙って見守っていた黒軍の兵士たちが、終幕を感じ取って駆け寄ってきた。

 幹部の一人がサヴァシュの隣にしゃがみ込んだ。ナーヒドの手首をつかんだ。しばらくの間黙って握り締めていた。ややして、悲痛な面持ちでうつむき、ゆっくり首を横に振った。


「隊長」


 ナーヒドの体を挟んで向かいに女が膝立ちをする。黒軍の副長だ。


「後は私が片づける。早く奥方様のところに向かわれるといい」


 サヴァシュはぼんやりとした目で「ああ、そうだったな」と呟いた。


「でも、水飲むくらいはいいだろ」

「……そう」


 苦笑して頷いた。


「あと、傷の手当ても」

「あー。忘れるところだった。そうするか。俺もこのまま流血してたら死ぬかもしれないんだよな……いくらなんでもさすがに死ぬのだけはまずいな」


 そこまで言ってから、サヴァシュは周囲を見渡した。


「いいか、お前ら、よく聞け」


 周囲の兵士たちが――戦士たちが、真剣な目でサヴァシュを見つめている。


「死ぬって言ってる奴は死ぬ。死ぬ気でやるとか、死んでもいいとか、刺し違えてでも倒すとか。そういうことを言う奴はな、でかい壁にぶち当たった時に本当に死ぬんだ。だから、絶対に、言うな」


 誰かが「はい」と、相槌を打った。


「誇りとか名誉とかそんなもんどうだっていいんだ。敵前逃亡でも命乞いでもいい。お前が死んだら誰がお前の大事なものを守ってくれるんだ。何が何でも生きて、守れ」


 彼はそこで言葉を切り、空を見上げた。

 アルヤ高原では非常に珍しい曇天だった。雲が重苦しく垂れ込めており、太陽は見えず、昼間なのに薄暗い。


「雨だ」


 黒軍の一同も空を見上げた。ある者は空に手をかざし、ある者は自分の肌に触れた。そのうち、「ほんとだ」「マジで降ってる」と囁き合い始めた。


「大雨になりそうな空だな。何年ぶりだ?」


 幹部の一人、サヴァシュよりも年かさの大男が、「こりゃ何かありそうですね」と言う。


「太陽が隠れた。こんなの十年に一度あるかないかだ。アルヤ王国の太陽が消えたわけですよ。凶兆ですわ」

「まあ、俺の身の上にはもう何かあったあとなんだけどな」






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